第6話 ワルダの庭園
ガザルは夜になると、約束のガゼボへと向かった。
夜のワルダの庭園は静かで、ほとんど人はいなかった。
簡素な木組みのガゼボの近くでは、薔薇の花々がその可憐な花びらを蕾にしまい込んで、固く閉じていた。
ガザルは、注意深く探索魔術を庭園中に放った。
少し離れた所にイヴァンらしき反応があった——もしガザルに何かあれば、彼であれば瞬時に駆けつけられる距離だ。
(……イヴァンは姿を隠してるようね。無理に参加する気は無いみたい……)
約束のガゼボの中には、久々に会う愛しい人がいた。
ラヒムは少し痩せたようで、端正な顔立ちは頬が少しこけて影が差し、優しかった藍色の相貌はどこかくたびれた様子だった。
曇り空のような淡いグレー色の髪は、どこか艶がなくパサついているようだ。
ラヒムに会えて嬉しい反面、その一人佇む辛そうな姿に、ガザルの胸がツキリと痛んだ。
イヴァンに言われたことは、人間と魔物の間では良くあることだった。ガザルも長い魔物生の中で何度も聞いてきたことだ。
それに、タイミングも、タイミングだ。たとえラヒムが望んでいなくとも、彼の周囲の人間が、ガザルの力添えを期待してラヒムを唆すこともあるだろう。
(……ラヒムはどちらなのかしら……?)
ガザルがガゼボに近づくと、ジャリッと靴底が鳴った。
不意にラヒムが顔を上げて、ガザルの方を見た。——縋るような赤らんだ瞳に、ガザルは「ああ、そういうことか」と心の中で毒づいた。
「……今さら、何かしら?」
ガザルから、イライラと冷たく鋭い声が漏れる。期待していた分、失望も大きかった。
「すまない!! ガザル、逃げてくれ!!!」
ラヒムはその場でぴょんと跳ね上がると、平伏すように強かに身体を地面に打ちつけ、ぐりぐりと地に額を擦り付けて、最上の謝罪の姿勢をとった——いわゆる、土下座のポーズだ。
「近々、帝国軍がこの国を侵略に来る。ここもどうなるか分からないし、私自身どうなるかも分からない。だから、君だけは逃げてくれ!!」
ラヒムは額をぐりぐりと地面に擦り付けたまま叫んだ。
「……あなたは、逃げないの?」
想定外のラヒムの言動に、ガザルはたじろいだ。努めて静かに彼に尋ねる。
「逃げない! 本音では逃げたい!! でも、逃げられない!! だから、君だけでも逃げて欲しい!!!」
「何を言ってるの? 訳が分からないわ……」
「君にあんなことをして、酷い男だと自分でも重々分かってる! 今さらだし、どんな顔をして君に会えばいいかも分からない! 自分がどうしようもなく情けない奴なのも分かってる!! だけど、ガザル、君にだけは生きて欲しい!!!」
ずっと額を地面に擦りつけているラヒムの言葉は、途中から涙声と嗚咽にまみれていた。ついでにズビッと豪快に鼻を啜る音もする。
(ラヒムは、私のために……)
ガザルの胸はあたたかい気持ちでいっぱいになり、今にも泣き出しそうに震えていた。
優しいラヒムのことだ。おそらく、ガザルのためにあちこち駆けずり回ったのだろう。
よく見ると、ラヒムの服はあちこちが汚れていた。
ここに来るのも、無理に王宮を抜け出して来たのかもしれない。
——何よりも、ガザルは大好きなラヒムに、ずっとこのような格好をさせていたくはなかった。
「はぁ……仕方のない人……」
ガザルの呆れた溜め息が漏れた。彼女の口角は、嬉しさと切なさから柔らかく震えていた。
チラリとイヴァンが身を隠している方を見る。彼もこちらの様子をじっと窺っているようだ。「大丈夫だ」という意味を込めて、ガザルは微笑んで小さく頷いた。
イヴァンの方から、少し警戒が解けたような気配が伝わって来た。
ガザルは跪いて、ラヒムに顔を上げさせた。
「分かった。私は避難するわ」
ガザルは神妙にこくりと頷いた。
「聞き入れてくれて、ありがとう。君さえ生きていてくれれば、私はもうそれでいい……」
ラヒムは泣きながら、くしゃりと笑った。
ガザルはそんな彼を、ただただ困ったように見つめることしかできなかった。
(本当に、不器用な人……)
***
ガザルはラヒムに最後に会った日から、サハリア砂漠にある自宅を少しずつ整理を始めた——いつでもここを去れるようにと。
「あの男も、最後は貴女に無理強いをしませんでしたね。そこは評価しますよ」
ラヒムに会った日の夜、イヴァンがそっけなく言った。それ以降彼は、ラヒムについて何も口にしなかった。
イヴァンとしても、元恋人のラヒムがいるサハリア王国にガザルがいることは、彼女にとってあまり良くないことだと考えていた——引っ越しには大賛成だった。
「世界中に砂漠はいくらでもあります。次はどこの砂漠に引っ越しましょうか?」
人形のように美しく華やかな笑顔で、イヴァンも荷物の整理を進めていた。
何の変わり映えの無い穏やかな日々が過ぎていった。
ある日、ガザルは早朝に家を出た。
イヴァンにも内緒だ。
最近はイヴァンも少しガザルを一人にしてくれるようになっていた。
ガザルが落ち着いていて、粛々と引っ越しの準備を進めていることもあり、イヴァンも安心し切っていた。もう大丈夫だと、思っていたのだろう。
「ごめんなさい、イヴァン。私、やっぱりダメみたい……ラヒムが命を賭けて私を逃がそうとしてくれたんだもの。私だって、ラヒムを守りたい……」
ガザルの覚悟は決まっていた。
彼女の蜂蜜のように深い黄金眼は、艶やかに煌めいていた。
ガザルは家の外——サハリア砂漠に出ると、魔力で軽くオレンジ色の砂を巻き上げた。
ガザルは砂魔術を司る砂竜の女王だ。この世界の全ての砂は、彼女に通じている。砂がある所、全てが彼女の領域だ。
「…………見つけたわ…………」
ガザルの黄金眼が不穏な光を放ち、彼女は転移した。
***
「ヒィィッ!!!」
「……う、うわぁ!! 竜だっ!!!」
「上官に直ぐに伝令を!」
「馬鹿野郎! んなもん、上官にも見えてんだろっ!!」
「助けてくれぇ!! こんな所で死にたくない!」
「狼狽えるなっ! 陣形を組め!! 撃退するぞ!!!」
「勝てるわけないだろっ! 竜だぞ!?」
エスパルド帝国兵は、突如空に現れた大きな竜に混乱をきたしていた。
ローズ色の巨体を風に乗せ、ガザルは帝国兵の軍団の上空をぐるりと回っていた。
数万の帝国兵は、平原を埋め尽くす程だった。
(よくもまぁ、ここまで人数をかき集めたわね。こんなのとまともにぶつかっていたら、サハリア王国は勝てなかったかもね……)
ガザルの胸をズキッと棘が刺す。
もしサハリア王国が負けていたら、ラヒムの運命は……と想像してしまったのだ。
ガザルはふわりと地面に降り立った。帝国兵の真上だ。
ガザルの魔力に触れた兵から、次々と身体が砂へと変わって崩れていった。
それを見た兵たちの阿鼻叫喚の声が、ガザルの足元で響き渡り、それさえも砂となってサラリと消えていった。
生き残った兵たちは、顔面蒼白な表情でガザルを見上げた。——竜にしても時々現れるようなBやAランクのようなものとは明らかに格が違った。魔力に触れただけで人体が砂になるなんて、聞いたこともなかった。存在自体が天災としか思えなかった。
「……う、撃てぇ!!! 近寄れないなら、遠隔だ!! 総攻撃!!!」
上官らしき立派な鎧をまとった兵士が、喉も裂さけよとばかりに叫んだ。
矢や槍、あらゆる攻撃魔術が、ガザル目掛けて飛んできた。
だが、ガザルにとってそんなもの、痛くも痒くもなかった。身の回りに張った簡易結界で簡単に阻むことができた。
「ヴォオォォォ!(もう、鬱陶しいわね!)」
ガザルが天を見上げてひと鳴きすると、魔力圧の衝撃波が発生し、彼女を中心に、元は人間だった砂の山がどんどんと広がっていった。
(流石に人数を集めただけはあるわね。今ので全滅しないだなんて)
ガザルはぐるりと周囲を見渡した。彼女から離れた所には、まだ大量の兵士がいた。恐怖の叫び声をあげ、散り散りに逃げ始めている。
(仕方がないわね)
ガザルはバサリと羽ばたいて、上空へと舞い上がった。
息を溜め込んで、飛びながら帝国兵に向けてサンドブレスを放つ。
サンドブレスは、地面に当たると砂の大津波となって、帝国兵を次々と飲み込んでいった。
(……もーっ! 止まって!!)
ガザルはもうこれ以上地上を砂まみれにしないよう、ぐるりと首を回して天を向いた。ブレスも彼女の動きにつられて、天の方へと向かった。
ガザルが平原に目線を戻す時に、遠くの山が真っ二つに割れてしまっているのが見えた。
(あーあ……あまりやらないから苦手なのよね、この技。すぐに何でも砂にしちゃうし……)
ガザルは遠くの山については、見なかったことにした。
ふと、視線を感じて、遠くの山とは反対側の崖の方を見た。
崖の上には、上等な鎧をまとったラヒムが、望遠鏡片手に驚愕の表情で、凍りつくようにガザルを眺めていた。
「ガザル……」
遠すぎて聞こえないはずなのだが、ガザルはなぜだか、ラヒムにそう言われたような気がした。
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