第3話 婚約 sideラヒム

 ある日、サハリア王国の第一王子で王太子のラヒムは、父であり国王のマーリクより謁見の間に呼ばれた。


 謁見の間には国王だけでなく、宰相や大臣、主要な貴族たちが勢揃いしていた。

 ラヒムは、父王の斜め後ろに控えて立った。


 弟で第二王子のハキムは体調不良のため、今回は呼ばれていないようだった。



 謁見の間の扉が開き、隣国ザミル皇国の使者たちが入って来た。


——ラヒムはこの時、「詰んだ」と思った。ただ、王太子らしく顔には笑顔を貼りつけ、決して表情には出さなかった。


 ザミル皇国の使者は、国王とラヒムに最上の礼と共に挨拶を申し上げると、恭しく書簡を捧げ持って、その内容を奏上した。


「その申し出、受け入れよう。ラヒムも、それで良いな?」


 国王がラヒムの方に目線を向けた。もはや質問でも確認でもなく、命令であった。


 ラヒムはこの申し出を拒否するために、ここ最近はずっと水面下で動いていた。だが、今一歩、間に合わなかったようだ。——長年、国を治めてきた分、父王の方が上手うわてだったのだ。


 このような場に宰相や大臣だけでなく、貴族までもを呼びつけたのは、ラヒムに拒否権を与えないためだったのだ。


 ラヒムは内心、苦々しい思いを噛み締めながら、どうにか声に出した。


「…………ええ。陛下の御心のままに…………」



 使者たちとの謁見が終わり、国王が退出すると、ラヒムも彼の後を追った。

 王宮の執務区画に入ると、国王が振り返ってラヒムに声をかけた。


「よくぞ決意してくれた」


 がしりと肩に置かれた手を、ラヒムはこれほど払い除けたいと思ったことは今までなかった。


「……私にできることであれば……」


 ラヒムは硬い声で嘘を紡いだ。


「うむ。ザミル皇国と同盟を結べば、エスパルド帝国の脅威に対抗できるであろう。お前には苦労をかけるが、これも我が国のためだ」


 国王は厳かに頷いた。醸し出している雰囲気は、どこかホッと安堵しているようだった。 


「それでは、私はこれにて失礼します」


 ラヒムは早々にがばりと頭を下げて、退席の挨拶をした。多少無作法ではあったが、父王の顔など今は見たくもなかったのだ。



 ラヒムは自室に早足で戻ると、扉を素早く閉め、内側から鍵をかけた。


 握り締めた拳で、力任せにドンッと激しく壁に打ちつける。


「……ガザル……」


 ひりつくような、泣き出しそうな声が漏れた。



***



「ラヒム王太子殿下、この度はご婚約おめでとうございます」

「アイシャ皇女殿下も、よくぞいらしてくださいました。心より歓迎いたします」


 臣下の礼と共に、サハリア王国の宰相とその家族が祝いの言葉を述べた。


「ありがとう。皆も今宵の会を楽しんでいってくれ」


 ラヒムが宰相一家に声をかけると、彼の隣に座る本日の主賓のもう一人、ザミル皇国のアイシャ皇女も小さく頷いた。



 本日、サハリア王国の王宮では、ラヒムとザミル皇国の第二皇女アイシャの初の顔合わせと、彼女の歓迎パーティーが開かれていた。


 アイシャは半透明のヴェールを被っており、ハッキリとその素顔は晒していない。ウェーブがかった長くたおやかな白い髪は美しく結われていて、控えめな仕草は、まさに深窓の姫君のようだ。

 女性にしてはやや背が高いが、スラリとしなやかで、非常にスタイルが良い。


 ザミル皇国のゆったりとした民族衣装には、金糸や銀糸で豪奢な刺繍が施されていて、そこから見える彼女の琥珀色の腕には、ラヒムの瞳の色のような大きなラピスラズリが付いた金の腕輪がシャラリと揺れている。


 ラヒムとアイシャは雛壇の椅子に座り、来賓の貴族やザミル皇国の関係者たちと、順番に挨拶を交わしていった。



「挨拶も大方終わりましたから、少し休憩しましょうか」


 ラヒムがエスコートするようにアイシャに手を差し伸べると、彼女は頷いて、自らの手を載せた。


 ラヒムに連れられ、二人は王宮のバルコニーに出た。


 バルコニーに置かれた席に着くと、ラヒムは、侍女にドリンクと何かつまめるような料理を持ってくるよう指示を出した。



「ふぅ……肩が凝ってしまうわ」

「!?」


 アイシャがバサリと、ヴェールとそのヴェールに付いていたカツラを脱いだ。

 ふわりと、アイシャの耳下までのボブヘアが揺れる。

 

「アイシャ皇女?? その髪は……?」


 ラヒムが目を丸くして、アイシャに尋ねた。


 ヴェール越しではなくなったアイシャは、とても愛らしい顔立ちをしていて、アーモンド型の瞳は意志が強そうに煌めいていた。


「祖国の者たちに被せられました。どうせすぐにバレてしまうというのに、困った者たちです。……髪は伸ばした方がよろしいでしょうか?」

「いえ、どちらでも構いません。その髪型もアイシャ皇女らしくて良いかと……」


 アイシャが困ったように眉を下げて尋ねると、ラヒムは驚きつつも、コクコクと頷いた。


 バルコニーに戻って来た侍女も、アイシャの変化にびくりとしていたが、プロらしく見て見ぬ振りをして、ワインと料理を置いて下がって行った。


「アイシャ皇女は剣を嗜まれているとか」


 ワインで小さく乾杯すると、早速、ラヒムが尋ねた。


「そんな野蛮な姫はお嫌いですか?」


 アイシャは気まずそうにラヒムを見つめ、尋ね返した。


「いえ、むしろ尊敬します。私も剣を習いましたが、どうも……なので、単純に私にできないことをできる方には尊敬しかないです」


 ラヒムが苦笑いを浮かべると、アイシャはきょとんと狐に摘まれたような表情をした。


「ラヒム殿下はお優しいですね。私など祖国では『剣を嗜むような剛の女など、すぐに飽きられてしまう』と言われてきましたわ」


 アイシャが目線を伏せて、躊躇いがちに語った。


「そんなことはありませんよ。強い女性は素敵だと思います。私はあまり強くありませんので、支えていただけると助かります」

「まぁ……」


 今度はアイシャの方が目を丸くした。


「ええ。誠心誠意、お支えさせていただきますわ」


 アイシャが、芍薬の花のような華やかな満面の笑みで答えた。



***



 数日後、ラヒムは弟のハキムの部屋に訪れた。

 病気がちなハキムを気遣い、彼の体調が良さそうな日を選んだのだ。


「兄さん、アイシャ皇女殿下との顔合わせはどうだった?」


 ラヒムが入室すると、この部屋の主人に声をかけられた。


 ハキムはベッドに横になっていたが、せっかく兄が訪ねて来たからと、上半身を起こした。

 黄金色の髪がさらりと揺れ、紫色の瞳は、今日は好奇心で少し輝いている。


「ああ。とても可愛らしい方だったよ……」


 ラヒムの言葉とは違って、その表情は晴れなかった。


「……僕がもう少し体が強くて、変わってあげられれば良かったんだけど……ゴホッ……」

「大丈夫か、ハキム? お前は無理をしなくていいんだよ……」


 ラヒムは素早くベッド脇に寄ると、ハキムの背中をさすった。

 ハキムはにっこりと笑って「ありがとう」と兄にお礼を言った。


「兄さんは、何でも一人で背負い込みすぎだよ……」

「そんなことはない。二人きりの兄弟なんだ。助け合うのは当然だろう?」


 ラヒムは慈しむように優しく微笑んだ。


「兄さんは優しすぎるよ……それから、ガザル様はどうするの?」

「…………」


 ハキムの言葉に、一気にラヒムの表情が翳った。


「……今はまだ、考えたくないんだ……」

「……婚約も急に決まったからね。でも、できるだけ早めに話し合った方がいいと思う」

「ああ。分かってる……」


 ラヒムはしょんぼりと頷いた。


「……いざとなったら、僕が兄さんの肩代わりをするから」

「でも、ハキムは……」

「大丈夫。執務はベッドでやろうと思えばできるし、いざとなったら親戚もいるからね。王家の血は、僕たちだけに流れてるわけじゃない。いつも兄さんが僕の分を代わりに受け持ってくれるからね、たまには恩返ししないと」


 ハキムはにっこりと笑った。ハキムなりに元気よく、力強く。

 ただ兄からすると、どこか弟に無理をさせているように見えて、却って切なくなってしまった。



 ラヒムはハキムの部屋を出ると、真っ直ぐに自室を目指した。


 しっかりと自室の扉に鍵をかけ、デスクへと向かう。


 紙と羽ペンを取り出すと、重々しくペンを進めた。


(……本当は、どうしなきゃいけないのかは分かってるんだ……でも、どうしてもガザルのことが…………もうハキムに心配をさせたくないし、アイシャ皇女にも先日北の庭で釘を刺されたばかりだしな……)


 羽ペンをインク瓶に戻し、ラヒムは大きな溜め息を吐いた。


 手紙を小さく折りたたみ、ローズ色の小鳥の使い魔を呼び出す——ガザルと連絡を取り合うための専用の使い魔だ。


 ラヒムは自室の窓から使い魔を送り出すと、ズルリと脱力するように窓辺に寄りかかった。


「彼女とは、これで最後になってしまうのだろうか……」


 ラヒムは小鳥が飛んで行った先に目線をやると、力なく呟いた。



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