第3話
「僕が思うにこれはね、世界の”時間鈍化現象”あるいは僕らの”時間激化現象”と言えるだろうね」
彼は不思議な人だった。
トキオカ・ヒサジと名乗った男性は今年37歳になり、ハルカより5つ年上だった。
ヒサジもハルカと同じように周囲の時間の流れが変わってしまい、今まで一人で過ごしてきた、と言った。
「食料の空になったコンビニを数件続けてみた時は驚いたよ、すぐ近くに僕と同じ時間の流れで生きている人間がいるって確信したね」
ハルカは彼の話を熱心に聞いた。久しぶりに聞いた人の肉声に夢中になっていた。まるで神の言葉を聞くように熱心だったので、ヒサジも饒舌になった。
「キミはいつからこの時間の流れに迷い込んだの?」
「私は――」
二人はこれまでの過ごし方を互いに話した。話したいネタは山ほどある。自分の話をすることも彼の話を聞くこともハルカにはとても新鮮だった。そして何より同じ時間の流れを生きているというだけで胸からこみ上げるものがあり、感極まって泣きそうだった。
「僕はこの現象を解明しようと日々頑張っていたんだけどね……答えは出ていないんだ」
ハルカにとっては、そんなことはどうでも良いことだと思っていた。この現象はハルカにとってもう当たり前になっていて、今更解明されたところで進んだ時は戻らないことを知っている。だけどその考え方はハルカにとって、とても大切だった。ヒサジはハルカが考えもしない発想を持っている。そのことがとても刺激的だった。
「ヒサジさん、もっと話を聞かせてください」
一方的に流れる時間の中で、ハルカの中にヒサジというもう一つの考えが生まれた。一つのことをしても二つ分の考えが生まれる。繰り返しのように感じていた日常にメリハリが生まれ、ハルカは楽しくなってきた。その思いは同じ体験をしてきたヒサジも同じだったようで、二人の距離が縮まるのは時間よりも早かった。
しばらくして二人は結婚した。
世間でわずか15分、二人にとっては1年のことだった。
「――パパ、ママ。わたしたち結婚したよ」
実家へ戻って両親へ報告した。祖父母へも報告できたので孫としては上出来だろうとハルカは鼻高くなる。同級生の中でも一番早く結婚したハルカはヒサジと共に、空き家を新居として結婚生活を楽しんだ。
スランプに陥っていた絵もまた表現できるようになり、今ではそのキャンバスを画用紙から街へ切り替えた。ハルカは街の美化活動に没頭している。壊れたところを修復したり、ゴミを拾ったりしている。街全体を自分のキャンバスとして表現できるようになった。ある意味、現代アートだ。
「また表現出来るようになったのはヒサジさんのおかげだよ」
凝り固まっていたハルカの頭の中にヒサジの言葉は新たな扉を開く刺激となった。しかもその言葉が最も信頼している夫の考えとなれば、浸透率が違う。まるで手足が伸びたかのようにずっと遠くまで自分の考えが広がるような気がした。
これまで一人だったハルカの人生に、夢のような時間が流れ、やがて二人は子供を授かった。
ハルカは妊娠した。
――しかし、この頃からハルカとヒサジの間で時間の流れがズレ始めた。
「どうやら僕の時間の流れが早くなってしまったらしい」
三日に一度、一週間に一度、一ヶ月に一度、と二人の時間が同じ速度で流れる日が少なくなっていた。しかもそれは日に日に少なくなっていく。
ハルカの時間の流れが遅くなった可能性もあるのに、ヒサジは自分が原因だと頑なに言った。子供が生まれるまでハルカの中で時間の流れは十月十日、しかしヒサジの流れは数十年に至ったようで、時間が会う度にヒサジは老けていった。
そしてようやく出産の日、世間は13時10分頃。
ハルカは34歳の時、ヒサジは76歳になっていた。
この日、二人の時間の流れは運良く均一で――
「――産まれたよ」
しわの増えたヒサジの腕が産まれたばかりの赤子を抱き上げる。
「ヒサジさん、わたしにも抱っこさせて」
ヒサジの手からそっとハルカへ渡る。
しかしその赤子は――全く泣き声を上げなかった。
「ヒサジさん――この子っ」
ヒサジはハルカへ優しく頷いた。
「ああ、そうだね、本当に良かった、――普通の時間の子だ」
ハルカが抱きかかえた赤子は今にも泣き出しそうな表情をしていたが、その時間はゆっくり、ゆっくりと流れて、世間と同じように時計の針と同じだけの時間の進み方をしていた。
「――そっか、良かったね」
ハルカとヒサジは産まれたばかりの子を病院の目の届くところへ預けた。
「普通の時間で普通に育って普通に大きくなってね」
そう願いを込めて二人は病院を去った。
その30分後、ハルカにとっては二年後、ヒサジにとっては十年後、ヒサジは86歳で息を引き取った。
ハルカはまた一人になってしまった。
しかしハルカの中に寂しい気持ちはほとんどない。夫のヒサジは寿命を全うしたし、彼との子供は普通の時間軸で生きている。
「――時間の感じ方は人それぞれだよ」
ハルカはこの現象にそう答えを出して、やり残していることを終わらせるため、昔の学び舎の高校へ向かうことにした。
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