第9話 朝ご飯は美味しい

 ことことと、ヤカンか何かから湯気が沸き立つ音が聞こえる。トントンと小刻みで心地の良い何かを刻む音がする。美味しい匂いが私の鼻孔を擽って、久し振りに起きたいと思えるような穏やかな朝に迎えられる。


「ん、んむむ。」

 目をゆっくりと開ける。今度ばかりは、床や自分の太腿ではなくて天井が見えた。私の上には毛布が掛けられており、それが温かかった。

「良い匂い。」

 体を起こす。自分の顔が上に上がることで、黒いソファで寝ていたことが分かった。そんなどうでもいいことは置いておいて、私はそのまま大きく伸びをする。ここ二日間ぐらいの間は寝てしかいなかったせいか、関節がポキポキと音を鳴らす。

 沢山寝た影響か、二度寝をしたいとは思わなかった。


「ふわぁ。」

「ん?早いな。もう起きたのか、仁賁木。」

「んー。」

 目を擦りながら気の抜けた間延びした声で返事を返す。思えばこの二日間。起きたら襲われ、起きたら脅されで、こんなにも優雅な朝を迎えることは出来なかった。

 私は、この朝に凄く幸せを感じている。

「悪いな。朝ご飯の準備はまだ出来てない。」

「んー。」

「コーヒーか紅茶なら出せるが、どっちがいいとかあるか?」

「んー。紅茶?」

 私がそう返すと、隠奇くんはソファの前にある机に紅茶を持って来てくれる。私はまだうとうとしながら、差し出された温かい飲み物を口に運ぶ。

「ん。美味し。」

「それはよかった。うちの店でも割と人気な紅茶なんだ。それ。」

「え。そんなのを私が貰っちゃっていいの?」

「ああ。これは俺が飲むように買ったものだからな。店で出す方はちゃんと別で補完している。」

 言いながら、隠奇くんは台所へと戻っていく。

 私は自分の携帯にも届いていた“扱案の町にある隠れたお洒落なお店紹介”の記事に彼のお店が載っていたことを思い出す。

「あんたのお店って、意外とお洒落な造りだったよね。」

「ん?お前、うちの店に来たことがあったのか?」

「来ないわよ。どうして私があんたなんかの。」

「小声で言っても聞こえてるぞ。」

「うっ。だって。」

「安心しろ。お前に毛嫌いされていることくらい、昔から分かっている。今更本人の口からそれを聞いたところで何とも思わないし、どうともしねぇよ。」

「ぐぬぬ。」

「なんだ、怒って欲しかったのか?俺がお前に怒ってこの店を追い出せば、お前はあっという間に逮捕されるだろうけどな。それでもいいなら怒ってやってもいいぞ。」

 そうだった。私は今、全国手配中の犯罪者だった。冤罪だけど。

 彼に追い出される未来を想像して怖くなった私は、少し体を小さくさせながら手に持ったカップを強く握る。

「いや、大丈夫です。勘弁してください。」

 そんな会話をしながら、私はふとどうして今こんな状況に至っているのかに疑問を持つ。少しずつ頭が冴え始めているのかもしれない。


「ちょっと待って。私はどうして悠長に隠奇くんとこんな平和的な会話なんてしているの?」

「ん?どういう意味だ。」

「だって私、ついさっきまで椅子に縛られてて、あんたに殺されかけてたよね。」

 言いながら部屋の中を見回す。ここは先程までいた暗くて恐ろしい部屋ではない。テレビがあって、机があって、観葉植物が置いてあって、小物が並べられていて。なんというか、普通の一般家庭の中にあるような光景が広がっている。

「ここは、あんたの家?」

「ああ。そうだ。うちは店と家が一緒でな。二階が生活スペースになっていて、一階がほぼ飲食店スペース、地下一階がちょっとしたカウンター席と倉庫になっている。」

「じゃあ、ここは二階になるの?」

「まあそういうことになるな。」

「ふーん。って違う!」

「声が大きいぞ。まだ寝ているやつもいるから、静かに頼む。」

「え?そうなの。あんた、誰かと一緒に住んでって違う違う。落ち着け。直ぐに話しを逸らさないようにしないと。」

 直ぐに話しが脇道に逸れてしまいそうになる自分を自制する。もしかして話しが逸れるように誘導されている?と思ったが、流石にそれは考え過ぎだと思う。一度深呼吸を入れてからゆっくりと言葉を選ぶ。


「ねぇ。私はどうしてあなたの家でお茶を飲んでいるの。」

「どうしてってお前、もしかして昨日のことを忘れているのか。」

「昨日の……。こと?」

 隠奇くんは、料理を盛り付けてトレーに乗せて持って来てくれる。私の前に並べられる料理はお米、お味噌汁、焼き鮭、漬物に卵焼き。――。わ、和食だ。

 隠奇くんのお店に和食のイメージはない。こんな料理も作れたんだなと思いながら手を合わせる。こっちはまる二日何も食べていなくてお腹がぺこぺこなのだ。

「いただきます。」

「どうぞ。」

 私が食事に手を付けると、隠奇くんも手を合わせて朝食を食べ始める。

「どうだ?」

 悔しいけど、この料理は凄く美味しかった。旅行先の旅館で出て来そうなくらい美味しく出来ている。私よりも料理上手なのではないだろうか。

「お、美味しいけど。」

「それはよかった。」

 隠奇くんは少しだけ満足そうな顔を見せたけれど、直ぐにいつもの感情のない表情に戻る。


「それで、お前は昨日のことを忘れているんだったか。」

「あ、そうだった。」

「おい。説明が欲しい訳じゃなかったのか。」

 ご飯が美味しくてつい忘れそうになってしまっていた。二日ぶりの食事だ。私は別に悪くない。……たぶん。


 駄目だな、今日の私。

 状況は相変わらず悪いままの筈なのに、気が緩んでしまっている。

 もう少しだけこのゆったりとした時間を――。

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