午後12時50分

英国租借地香港 沙田区


 人気が無い所を一通り回った殺し屋であったが、ターゲットの痕跡すら見つけられず人里へ下りてきた。

 しかし彼は諦めず香港警察の偽造身分証を手に、大陸の殺し屋は安宿を回っていた。


「若い男女を、見ませんでしたかね」


 受付に座る老婆は馬の小便みたいな色をした茶を啜りながら、心底興味なさそうに呟く。


「若い男女ねぇ……」


 声には、何処か人を馬鹿にするような響きがある。


「見てないね。来たら分かるさ、若い男女なんて、こんなところに泊まりに来ないからね」


 口周りの筋肉が弱いのか、番茶の雫と唾を散らしながら老婆はまくし立てる。

 態度こそ最悪だが、嘘は言っていないと殺し屋は察した。


「邪魔したね」


 礼を述べて辞そうとするも、老婆の関心などとうに殺し屋には無く下品に茶を啜る音だけが他人事のように響いていた。

 殺し屋は安宿から出ると、大きなため息をつく。

 既に何軒も安宿を回っていた殺し屋だったが、何処も似たような対応と返事ばかりであった。

 更に昼休憩中のドヤ住民の視線が、彼に突き刺さる。

 とても居心地が良いとは言えない環境だが、彼は仕事だと割り切って別の安宿へ向かった。

 ヤニとカビと微かなアルコールの臭いが、殺し屋の脳に届く。どこもかしこの安宿も、似たような臭いを充満させているのでとっくに慣れていた。

 そこの宿のロビーにはテレビが置かれており、茶や酒の瓶や缶を持った宿の利用者が食い入るように眺めている。


「らっしゃい。何泊されます?」


 管理人らしい中年男が、眠そうな顔をしながら殺し屋へ訊ねてきた。

 昼食用か、彼が顔を覗かせるカウンターの後ろではインスタントラーメンが煮える音がしている。


「ああ……いや、泊まりに来たんじゃなくて、こういう者です」


 慣れた動きで、懐から身分証を出して見せる。

 その動きは、殺し屋だと知る者以外は警察だと信じ込んでしまうほど、こなれていた。

 管理人の目に警戒の色が現れる。

 心なしか、労働者の声が潜まりテレビの音量も小さくなった。

 盗みや殺しをやらかし、警察に追われて日雇い労働者の中に紛れ込むのは珍しいことではない。

 2007年の日本でも、英国人女性を殺害し逃亡した市橋達也が大阪西成のドヤ街に、逃走・整形資金を稼ぐために潜伏している。

 更に2024年には、指名手配犯写真日本代表の桐島聡が神奈川の工務店に住み込みで働いていることが判明している。

 もっとも、それらは1989年からすれば遠い未来の事であるが、殺し屋は長年の経験からそのことを知っていた。

 だが、彼の目的は周と李だ。そのような連中など、ハナっから眼中になかった。


「若い男女を探してましてね。男は背が高くて、女は長い髪を一本に結んでるんですが」


 お前等なぞに興味は無いという意思表示を込め、少し大きな声で殺し屋は訊ねた。

 管理人は警戒心を緩めることはしなかったが、両目を瞑って腕を組んで記憶を探りだす。


「……いや、ないねぇ」


 片目を開け、テレビの所にいる労働者を示す。それは暗に客層を指摘する行為であった。

 女っ気のない中年から初老の男達。


 「こんなところに、そんな奴らが来るはずもないだろ」


 声にこそ出ていないが、管理人の片目はそう雄弁に語っている。

 これが仕事でなければ、殺し屋も頷いていただろう。

 だが、管理人や警察権力に怯える労働者達が嘘をついているようにも見えない以上、銃で脅すことも出来ない。

 せめてもの抵抗として、この場にいる労働者全員に聞き込みをしようかと殺し屋が動いた時。


『――臨時ニュースをお伝えします。九龍にて、銃による凶悪事件が多発しております。市民の皆さんは、不要不急の外出を止め、テレビやラジオに耳を傾けてください。繰り返します――』


 テレビが緊急事態を知らせる。

 音声と同じ内容のテロップが流れる画面には、中継車が撮影しているらしい何処かの路上が映る。

 野次馬が道路をほぼ埋め尽くしており、黒い制服に身を包んだ警官が奥に行かせまいと必死になっている。


「あれまぁ」

「銃だってよ」

「午後の仕事、休みになんねぇかな」

「九龍だろ? 遠いからな、無理だろ」


 労働者が好き勝手なことを口にする中、殺し屋は目を見開いてテレビから流れるアナウンサーの声を聞いていた。

 彼の勘が告げる。

 ターゲットはそこだと。

 そこに何の根拠も無い。証拠も無い。論理性も無い。

 あるのは殺し屋の狩人としての、研ぎ澄まされた感覚だけである。

 狩るべき獲物を見つけた狩人にも、殺気を放つタイプと殺気を殺す瞬間まで出さないタイプがいる。

 大陸の殺し屋は後者であった。

 殺気を隠し、あくまでも紳士面を崩さず殺し屋は安宿を辞する。

 管理人と利用者は最後まで彼を、本物の警察官だと思っていた。

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