午後12時06分
英国租借地香港 黄大仙区
ランサーの警察無線を聞きながら、周は検問を避けて市街へと入る。
警察官として周の脳には香港市街の地理が入っており、検問の場所さえ分かれば後はどうにでもなった。
そしてある裏路地でサイドブレーキを下ろした。エンジンはついたままだ。
李は54式にサプレッサーを装着すると、パーカーのチャックを上げた。フードを目深に被り、彼女はドアへ手を掛ける。
「いってくる」
「いってらっしゃい」
互いに笑みを交わした二人の間には、確かな自信と双方への強固な信頼が芽生えつつあった。
周が考えた作戦はこうだ。
適当な組事務所に押し入り、一人を残して血祭りに挙げる。
自分達を捜索しているので事務所にいる三合会構成員は、少ないと予想出来る。
その生き残った奴に適当な仲間を呼びつけさせた後、警察にも通報する。
すると、武器を持っておっとり刀でやって来た三合会構成員と、警官隊が鉢合わせることになる。
これを繰り返すことで、三合会と警察を同時に混乱、疲弊させられる。
疲弊が重なればミスを起こしやすくなる。
その隙を突けば、状況を打開出来るかもしれないと考えたのだ。
もっとも周とてこれが、やぶれかぶれな手段なのは理解している。
撹乱からの突破は兵法としても行われていることであり、発想自体は間違いではない。
だが、彼らが置かれている状況は端的に言えば孤立無援である。
後方に行けば味方がいる保証はない状態での突破は、装備が整った軍隊でさえ自殺行為と断じる。
しかし、何度も書くように何かを賭けなければ状況は変わらないのだ。
だから二人は自分の命を種銭として、危険な賭けにベットしたのである。
周が煙草を三本ほど灰にした頃、李は帰ってきた。
彼女が車に乗り込むと、濃い火薬の臭いが周の嗅覚に上書きされる。
普通、閉鎖空間とはいえ硝煙の臭いで煙草の臭いを上書きは出来ない。
周が硝煙の臭いを強く感じたのはそこに李の苦労を感じ取ったのと、大変なことを押し付けたという罪悪感があるからだ。
李自身は慣れたことなので、押し付けられたというより適材適所と思っているのだが。
「そうそう、お土産があるんだ」
おばちゃんの飴玉よろしく彼女がフードのポケットから出してきたのは、紙幣の束と一丁の自動拳銃と二本の予備弾倉だった。
紙幣は香港ドルが大半だったが、英ポンドや米ドルも数枚混じっていた。
拳銃は二次大戦後に中国が作ったワルサーPPKのコピー、64式拳銃である。
「この金……」
「殺した連中が溜め込んでた金。逃走資金はあるに越したことないでしょ」
「拳銃は?」
「ヤクザ相手にするのに官給品のハイパワーじゃ、格好つかないでしょ」
格好。良くも悪くも合理的判断をしがちな周にとっては、新たな価値観であった。
そのせいか若干動揺する彼に、李は合理的な説明をしてみせる。
「それに、警察も来るのに官給品で付いた線状痕を残してもいいの?」
「ああ……」
拳銃から発射された弾丸や銃から弾き出される薬莢には、科学捜査官が泣いて喜ぶほどの痕跡が残っている。
銃の指紋とも呼ぶべき線状痕や火薬成分。
弾丸や薬莢から口径や弾種を鑑定し、そこから使用銃を絞り込んで使用者が何処で銃を調達したかも割り出せる。
特に警察の官給品の場合、不正使用時の捜査を円滑にするために線状痕がデータベースに登録されているのだ。
「警察には、しばらく三合会同士の抗争だと思ってもらいましょ」
「だな」
周は64式と弾倉を受け取ると、李へ提案をした。
「次の事務所は、俺がやるよ」
彼の言葉は、追い剥ぎまがいのことを彼女だけにさせられないという男気と、危険なことを任せる訳にはいかないという罪悪感から出た言葉であった。
「え?」
「不満がある訳じゃない、申し訳ないくらいだ。……だから、やりたいんだ」
彼女は虚を突かれた顔をしたものの、その一言で察したようで、無理に引き留めることはしない。
64式を周はサイドブレーキ下の物置にソッと置いた。
そのままの流れでサイドブレーキを下げ、周はランサーを走らせる。
少し走ったところで、猛スピードで走り抜ける初代ハイエースとすれ違う。
李は振り向きざまに、殺し屋として培った動体視力で車内を捉える。車内には、ソードオフした散弾銃とリボルバーらしき短銃を持った男達がいた。
「……三合会の加勢ね」
「それじゃあ、こっちも……」
周が無線のボリュームを上げる。
『――警ら中の各移動。黄大仙区内の暴力団事務所で発砲事案発生。発生場所は――』
読み上げられた住所はドンピシャの場所であった。
無線から流れる声が、周辺のパトカーがそこへ向かっていることを教える。
「……早く、次のところに行かなきゃね」
「……ああ」
周は頷き、煙草を咥えた。
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