午前10時11分

英国租借地香港 沙田区


 1973年に着工開始した沙田ニュータウン。

 埋め立てによって出来た黄土色の大地にマンションや団地がポツリポツリと建って、大きな都市が形成されようとしている。

 かつて海だった城門川を望むガソリンスタンド。

 その敷地の隅に立ち、周は景色を煙草をふかしながらぼんやりと眺めている。

 李はランサーに給油しながら、周の様子を観察していた。

 香港の中心市街地から、「遠くへ」という意識の下で車を約二時間走らせて辿り着いたのは、未完成の町。

 マンションには住人もいるし、都市機能もあるのだが、やはり何も無い造成地や建設途中の建物が目立つ。

 ニュータウンが完成した暁には、殺風景なこの地に高層マンションが建ち並ぶ近未来都市になる。

 周はそれを想像するが、苦笑と共に打ち消す。


(完成したとしても、俺は見ることないんだろうな)


 周と李は生きるか死ぬかの綱渡りを、現在進行形で行っているのだ。

 それの結果は生か死。その二つしかない。

 生きていれば香港を去るし、死ねばその双眸には何も映らない。

 周は短くなった煙草を地面に捨て、踏みにじって火を消した。ヘビースモーカーの周とはいえ、ガソリンのそばで煙草をふかしはしない。


「ガスは?」

「満タン」


 車に乗り込んだ二人は山を下り、未完成の街へと入っていく。

 建築資材を積んだトラックや生コン車とすれ違いながら、ドヤ街の方へと走る。

 このようなニュータウンや再開発地区の近くには、安宿や飯屋や飲み屋が密集するドヤ街があるものだ。

 こういう仕事に就いているのは、中国本土からの出稼ぎ組や脛傷を持つが故にマトモな仕事に就けない者達だ。

 そういう連中に対し建設会社は、現場近くの安宿を借り上げて給料から幾分か「住居費」という名目でさっ引いて労働者へ割り当てているので、基本的にアパートなどを借りない。

 そんでもって、そのおこぼれに預かろうと新たな宿が出来たり、飲食店が出来る。少しすれば、立派なドヤが形成されるのだ。

 ランサーをドヤの一角にある定食屋の前に停める。

 二人共腹を空かせていた。昨晩のインスタントラーメン以降、マトモな飯を口にしていない。

 店は開いていたが、客は一人だけだった。

 遅い朝食にしては遅すぎるし、早い昼食をとるにしても早すぎる時間帯だ。

 テーブル席に座る唯一の客も、キクラゲと卵と豚肉の炒め物を肴にビールを傾けている。

 見れば客の足にはギプスがはめられており、壁には松葉杖が立てかけられていた。

 おおかた仕事中に怪我を負い、派遣元か建設会社から見舞金をたかって悠々自適の休暇中といったところか。

 二人はカウンター席に並んで座り、メニューにザッと目を通した。

 中国料理は北京・上海・広東・四川の四体系に分けられるが、どこの人間が来ても満足できるようにか様々な料理が書かれている。

 周はトマトと卵の炒め物と羊肉とネギの醤油炒めを、李はチンゲン菜と海鮮の炒め物を二人前頼んだ。主食は卵チャーハンだ。

 出てきた料理を、二人は旺盛な食欲で胃に収めていく。

 見事な喰いっぷりは、料理人が厨房から顔を出すほどだ。

 労働者相手の濃い味付けと多めの盛り付けは、つい二時間前に死線をくぐっていた二人の胃臓に沁みわたった。

 李は爪楊枝で歯に挟まったチンゲン菜を取り除き、周は食後の一服をしながらこれからのことを話しだした。

 ほとぼりが冷めるまで大人しくしているという方向性は二人の中で定まっているが、具体性のある計画を立てるためだ。


「ここらへんの安宿で過ごす?」

「人気が多すぎやしないか? 李はともかく、俺は警察に顔写真握られてるからなぁ……」


 警察手帳に貼られた顔写真。そのデータベースは警察本部のサーバーに眠っている。

 しかし、いつでも叩き起こせる状態にある。


「しかも、警察だってミクロで見れば馬鹿ばかりだが、マクロで見ればおっかないところだ。頭数活かして、そこらへんに写真をバラ撒くさ」

「……止める方法はないものね」

「警察署で乱射でもするか? ハリウッド映画みたいに」

「まっぴらごめんね」

「俺も」


 新しい煙草を咥え、短くなった煙草で周は火を点けた。


「でも、検問はあと二・三日で落ち着くよ。長期の検問は、市民感情ってヤツに差し支えるから」

「それまで、山にでも籠もるつもり? そうなれば、三合会の方が厄介になるわ。連中、なりふり構わずやって来る」

「賞金でも掛けられるかな?」

「十中八九ね」


 たった一日で、立場が逆転してしまった。

 懸賞金を掛ける側から、掛けられる側へ。無論、望んでこの側へ来たので、文句は言えないが。

 周はそう心の中で独りごつ。


「それに、私達には厄介な追跡者がいるしね」

「……確かに」


 李の言葉に周は苦笑するしかなかった。


「けれど、このまま逃げ回ったところでジリ貧なのに違いはない」

「そうね。でも、正面切って戦えるだけの力は無いわ」


 それは周も百も承知だ。


「なら、正面切って戦わなければいい」


 煙を吐きながら、彼は人差し指で頭を突いてみせた。


「頭を使おう」

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