午前8時18分
英国租借地香港 深水埗区
独身寮にある周の部屋はもぬけの殻であった。
しかし、二人分のインスタントラーメンのゴミと、机の両端に並んだビールの空き缶、床に敷かれた掛け布団には周の物とは到底思えない長い髪がこびりついていた。
家探しに来た刑事は、管理人の老人を叩き起こし電話を掛ける。
「班長、周の野郎は黒ですよ。犯人、匿ってやがったんだ!」
実際に周は李を匿っていたし、状況証拠はそうとも読み取れる。
しかし、状況証拠だけだ。周が髪の長い人間を部屋に招き、ラーメンとビールを口にしたのは確かだが、髪の長い男だっているし女だとしてもそれが殺人事件の犯人だとは限らない。
黒に近いグレーであるはずなのに、刑事達はそれらの可能性を真っ先に排除し自分達の都合の良いように捉えている。
このような捜査をする人間の優秀さなど、たかが知れる。周が刑事として優秀なのは間違いはないが、他の刑事の無能さもまた確かなのだ。
それで周に嫉妬して陰湿なイジメをしては、世話ない話だ。
たまたまヤマが当たっただけの無能達は湧き上がり、的外れな推理を飛躍させ、周を指名手配することを決めたのだった。
同時刻 観塘区
路肩に並ぶ路駐車の列にファミリアを捨てる。その列から、不用心にも鍵が掛かっていなかった錆まみれのトヨタ・スターレットに李は目を付けた。
エンジンを直結して動かし、適当に道路を流す。
咥え煙草でハンドルを握る周。彼は吸殻を備え付けの灰皿に突っ込もうとするも、本来の持ち主は非喫煙者だったようで灰皿には小銭が三枚ほど入っていた。
彼は一瞬だけ躊躇ったが、小銭を隅に寄せてから煙草の火を消した。
「これから、何処に行く?」
「武器も手に入れたし、三合会が本気出してきたのも分かった。となれば、やることは一つ」
前の方を指差し、李は野性的な表情で言う。
「逃げるのよ」
「仰せのままに。……でも、何処へ?」
「とりあえず、海に向かって」
「了解」
クラッチを踏み、シフトを繋ぎ車を走らせる。
観塘区は香港で有数の工業地帯であり、工場の煙突を見ながら沿岸の道路に出る。
春の暖かな陽気の中、高速道路の下にある公園では子供が無邪気な声ではしゃいでいた。
母を待つのか、父を待っているのか。子供の数は意外と多い。
「海に出ましたけど?」
「このまま真っすぐ進んで。そうしたら、コンビニが入ってるビルがあるはずだから」
「……そこは?」
「運び屋が事務所を構えてる」
「運び屋? 三合会なら、とっくに手配が回ってるんじゃ」
「なにも、三合会だけが香港の裏社会を仕切ってはないわ。イギリス人に韓国人、変わったところでアメリカ人……一言で括ってしまえば、沢山の外国人グループがあるってこと」
「じゃあ、その運び屋はその外国人グループだと?」
「そう。日本人がやってるの」
「日本人」
周は李の定めた最終目的地が日本であることを思い出す。
「麻薬とか銃器とかの密輸をやってるみたいだから、外国に出るツテを持ってるはず」
「……その運び屋とは親しいのか?」
「仕事道具の関係で、一回だけ会ったことがあるわ」
李の言葉を聞いた途端、周の胸に不安の黒雲がたちこめだす。
溺れる者は藁をもつかむなんて言うが、たった一回しか会ったことがない人間などこの状況では藁以下ではないか。
しかし、口には出来なかった。反対するだけの材料も代替案も彼は持ち合わせていないからだ。
そうしているうちに、一階にコンビニが入居している雑居ビルが見えてきた。
「あそこよ」
周はスターレットを路肩に寄せ、エンジンを切った。
それぞれの荷物を手に、階段を昇る。件の日本人が構えるオフィスは三階に入っていた。
「邪魔するわ」
ノックも無しにオフィスへ乱入する李。部屋にいた日本人達は、突然の来訪に仰天する。
オフィスにいるのは五人。その中で一番若い男が食って掛かる。
「誰だテメェ!」
乏しい語彙と光度不足の眼光で精いっぱいの威嚇をするも、殺し屋と刑事を怯ますにはいささか威力が足りない。
二人は若い男をシカトし、奥の机に収まっている四十がらみの男へ向かっていく。
「久しぶりです、藤森さん」
李はニコリともしないで挨拶するが、かたや藤森と呼ばれた男の方は彼女を見るなり愛想笑いを浮かべだした。
「李ちゃんじゃないの。どうしたのぉ? なんか、大変なことになってるらしいじゃない」
黒目の比率が大きい瞳をいやらしく光らせ、藤森は李を舐めまわすように観察する。
「ええ、ですからお力をお借りしたくて」
そんな瞳を意にも介さず、李は淡々と要件を告げる。
三合会に追われ、このままだと命が危うい。なので海外に逃走する。そのためのルートを紹介してもらいたい。
要件を聞いた藤森の瞳のいやらしさは、目に見えて増しだした。
「李ちゃぁん、オイラ達は運び屋だけど、人間は専門外なんだよねぇ」
藤森の開いた口の中では、唾液か何かしらの分泌部が糸を引いていた。
周は一気に藤森に対し、生理的嫌悪を抱く。
「無理は承知。でも、ツテがゼロとは言わせないわ」
「そりゃあ、ゼロとは言わないけどね。……高くつくよ」
「構わないわ」
例によって即答する李を見た藤森は、黄ばんだ歯を剥いて笑い。
「交渉成立」
と気色悪い声で言った。そんなタイミングで、周と藤森の目が合う。
「そういえば、気になってたけど、そのトッポイ兄ちゃんは、どこの誰ちゃんよ」
喧嘩を売っているとも取れる発言だが、周はいつものように堪え、紳士的な笑顔でこういい返した。
「私は、彼女のボディーガードですよ」
その瞬間何とも言えない張り詰めた空気が、オフィスに満ちていくのをその場にいる全員が肌で感じた。
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