午前7時22分
英国租借地香港 九龍城区
李は周が駆け出すのを視界の端で捉えた。
それから、AKSの銃口だけを柱の陰から出して発砲する。牽制射撃である。
李は適度に撃っては撃たれ返されを繰り返す気でいた。
手榴弾など一時的にこちらの行動を阻害する者や、別の敵などの決め手がなければこの膠着は破れない。
要は時間稼ぎである。
李はその目で殺し屋を見ていた。
春先とはいえ暑そうな分厚くボロボロなコートを纏った老人。漂わせる雰囲気は彼女の師匠そっくりであった。
まともに銃火を交えようものなら、即座に殺されると思わせる迫力を彼女は感じ取ったのである。
だからこのような戦法を彼女は選んだのだ。
そして殺し屋は、李の目論見通り撃ってきた。柱が銃弾によって削られ、細かな破片や粉が舞う。
銃撃が途切れたタイミングでもう一度、撃ち返そう。
李はこうした守りの思考の中にいた。
だが、殺し屋は逆だ。依頼通り、李を抹殺する。言わば、攻めの姿勢の中にいたのだ。
殺し屋は年に似合わぬ素早さを用いて、MP40を撃ちながら一気に間合いを詰めていく。
銃声が近づいて来るのを聞き取った李は、銃口を通りへと向けながら商店の奥、裏口へと後退しだす。
殺し屋が李の目の前に現れたのと、李が裏口のノブに手を掛けたのはほぼ同時。
また、同じタイミングで殺し屋の銃が弾切れを起こす。
(しめた)
李が思ったのも束の間、目にも止まらぬ速さでMP40を捨て、コートの内側にある二丁の拳銃――ルガーP08とワルサーP38を握り構えた。
その速度は李がAKSを持ち上げ、引き金に指を掛けるよりも速かった。
何十年と殺し屋稼業を続けてきたからこその動きと表すべきか。同じ訓練を続けてきた熟練の兵士の銃捌きが見事なのと、同じ理屈だ。
万事休す。一か八か、二丁拳銃の命中率の悪さに賭けてしまおうかと李が思った時。
車のクラクションが轟いた。
周の運転するマツダ・ファミリアがクラクションを高らかに、殺し屋目掛け猛烈な勢いで突っ込んでくる。
殺し屋は二丁拳銃の先をファミリアに向け、交互に発砲した。
しかし、フロントガラスを割るだけで姿勢を低くしていた周には一発も当たらない。
ワルサーはMP40と同じく二次大戦時のロートルで、ルガーに至っては一次大戦時の博物館行な代物だ。弾倉の装弾数は、
周が持つハイパワーが13発。この頃、既に米軍に採用されていたベレッタM9が15発、同じく既にオーストリア軍に採用されていたグロック17が17発装填出来るのに対し、殺し屋のそれは二つとも8発しか装填出来ない。
82年に自衛隊が採用した
銃弾の数で押し切ることも出来ず、よもや轢かれるか撥ねられる訳にもいかず、殺し屋は下がるしかなかった。
その場を凌いだ周はサイドブレーキで車を無理矢理、商店の前に停める。
李は荷物を抱え、ファミリアの助手席へ飛び込んだ。
スキール音を立てながら猛然と去っていくファミリアを、殺し屋はただ見送る真似はしない。
ナンバーを暗記し、MP40を回収するとすぐさま自分のマークIIに乗り込み、車載電話の受話器を取る。
そして香港警察の緊急通報番号をプッシュする。
「九龍城区で、手配中の殺人犯を見ました。銃を乱射した後、男が運転する車に乗っていきました。ナンバーは――」
あくまで無垢な市民を装い、殺し屋は受話器を置いた。
それから、助手席にあった鞄を開ける。
中にあったソ連製のPPS-43サブマシンガンとアメリカ製のM1911A1を出し、今まで使っていた銃を後部座席へ無造作に放り投げた。
車を動かし、二人が消えた方面へとハンドルを切る。
マークIIが吐き出した排ガスが大気に溶け、残されたのは滅茶苦茶にされた一軒の商店と何が起きたか理解できていない周辺住民と、地面に散らばる空薬莢だけだった。
肩で息をしながらハンドルを握る周と、後ろを頻りに確認する李。
ただ茫然と道路の流れに乗っていたが、やがて赤信号にハマり流れが止まる。
これ幸いと二人は深呼吸をし、シートに身を預けた。
「……あれが、殺し屋か」
更に落ち着くべく周は煙草を咥え、シガーライターで先端を焦がす。
「そう。……あれが、殺し屋」
AKSの弾倉を交換しながら、李は周の呟きに返事をした。
本物を前にし、だらしなく笑うしかない周とは対照的に李は表情を引き締める。
「三合会も、何処であんな凄腕を探してくるんだか」
「蛇の道は蛇。あれクラスの連中がわんさか出てこないことを、祈るしかないわ」
煙を吐き出し、窓を開けようとする周だがフロントガラスが割れて換気しなくていいことに気が付く。
「……車、変えないとな」
「多分、ナンバーも覚えられたろうしね」
「殺し屋って、凄いな」
緊張から解放され、何とも言えない会話を繰り広げる二人だった。
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