午前6時07分
英国租借地香港 中西区
朝のニュースが流れてから数分。
香港警察本部の通報回線はパンク寸前だった。髪の長い若い女など、香港だけでも何万人といる。
見たかもしれない、いたかもしれない。
こんな感じの曖昧な通報が何万と押し寄せるのだから、パンクしかけるのも当たり前と言えた。
緊急通報係と広報課の人間は『ここにお電話を』というテロップを付けさせた上層部と、テレビ局の人間を恨んだ。
一部が修羅場と化す警察本部。しかし、一部だけであって他は安穏としている。
受付嬢は欠伸を噛み殺しながら、訪れる市民にハンバーガー屋のゼロ円スマイルの方がマシな笑顔を振りまいていた。
そんな彼女は、本部の前に一台のタクシーが停まったのを見た。香港ではよく走っている紅白のツートンカラーで、側部には「新緑交通」と会社の名前が書かれている。
運転席から額が広い丸顔のタクシー運転手が、降りて受付へと歩いてきた。
「何か御用で?」
「いや、ラジオで聞いたんだがね。あの、『若い髪の女』について」
「左様でございますか。では、捜査課の方にお繋ぎいたしますので――」
「いや、昨日、刑事さんに話したんだよ。……でも、ラジオじゃ依然として捜索中ってなってるから気になってさ」
受付嬢はタクシー運転手を見た。冷やかしにも、嘘をついているようにも見えない。
受付嬢が内線に掛け、運転手の発言をほぼそのまま伝えると即座に捜査課の刑事達がやってきて会議室へと通した。
自販機のコーヒーを啜りながら、運転手は証言する。
「ラジオで流れてた、『若い髪の長い女』なんだけどね。俺、昨日乗せたんだよ。似たような特徴した人を、事件が起きた現場のすぐそばで、時間も近かった」
「で? ウチの刑事に証言したって?」
「そうそう。同じ日に会社から『すぐ帰ってこい』って無線が入ってさ。帰ったら、若い刑事さんがいてね。例の女を乗せた時のことを根掘り葉掘り聞かれた」
「若い刑事、ね。身分証は出しました?」
「ええ。名前は……周さんだったかな」
周。その名前が出た途端、空気がピリついた。
捜査課の内情など知る由もない運転手は、刑事達の渋面を見て首を傾げる。
運転手に背を向け、刑事達は声を潜めて話をする。
「そういえば、あの野郎、昨日から姿見せてねぇな」
「どうせ、お得意のスタンドプレーだろ」
「けど、それにしてもおかしくねぇか? ここまで姿見せないのは」
「手詰まりなのに、オフィスにも戻って情報を探らないってのもな……」
しかし、ここで内緒話をしたところで何が分かる訳でもなく、運転手へ「ご協力ありがとうございました」と送り返した。
オフィスに戻った刑事達は、他の同僚や電話番の婦警に周が戻ってきたかや伝言が来てないかを訊ねる。
すると、婦警から捜査状況について話を聞かれたという証言を得られる。
だが、他の刑事からは「見たかも」「いたかも」という曖昧な情報しか得られなかった。
その不自然さは刑事達を勘繰らせるには十分だった。
現れたのは人が少なくなる時間帯。
人目を避けているかのような行動。
実際に今も姿を見せていない。
刑事からの報告を受けた班長は、周を探れと指示を出した。
「じゃあ、寮に行ってみます」
「何かあったら、すぐに電話しろ。俺はデスクにいるから」
今の今まで土気色だった刑事達の顔色が、血色よくなっていく。
浅ましい人間の本領発揮というべきか。
周がその場にいれば心の底で呟いただろうが、彼はこんなことになっているとは露知らず弾倉への弾込めに精を出していた。
同時刻。九龍城区。
九龍城砦では、李の行方の手掛かりを探しに来た大陸一の殺し屋がワルサーを抜いていた。
銃口を突き付けられているのは、ニンベン士の陳だ。
彼の隣では、彼の妻が子供を庇い震えている。
子供は何が起きているか分からないという風情だが、恐ろしいことが起きているのは本能が理解しているようで目を瞑り、頭を抱えていた。
「金ならある。……嫁と子供には手を出すな」
陳は一家の大黒柱として、毅然とした態度で接するが殺し屋は眉一つ動かさない。
「金は要らん。だが、正直に答えろ」
「……?」
「李という女が昨日、来たはずだが?」
「あ、ああ。偽造パスポートを作るよう頼まれた」
「ヤツが掟破りなのは知っているはずだ。何故、協力した?」
「彼女がここを去ってすぐに、彼女が掟を破ったと知らされたからだ。現に、知ってからは彼女の偽造パスポートを作ってない。……そこのゴミ箱に捨てたさ」
殺し屋は足でゴミ箱を引き寄せ、中身を見た。
目立つゴミが一つ入っている。それは作りかけのパスポートであり、貼られた顔写真は確かに李の物だ。
殺し屋は鼻を鳴らし、ワルサーの安全装置をかける。
そして、陳達に興味を失い背を向けて彼等の元から去った。
廊下では案内を任されていた百歩蛇組の構成員が、煙草を吸いながら殺し屋を待っていた。
「思ったより、早かったですね」
構成員の言葉を無視し、彼は逡巡する。
一度は海外逃走を考えたが、襲撃に遭いその考えを改めざる負えなかったはずだ。
ほとぼりがある程度冷めてから、行動を開始するに違いない。
その間、身を守る必要がある。
身を守る道具は――。
「君」
「はい?」
吸殻を床へ捨てた構成員へ訊ねる。
「このあたりで、商売っ気の強い武器屋はないかね」
構成員は訊ねられるまま、がめつい老人が経営する闇武器屋について口にした。
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