午前5時00分

 英国租借地香港 深水埗区


 周は妙に肌寒いことに違和感を覚えると同時に、意識が覚醒した。

 見てみれば、普段掛けている布団が無い。

 何処にやったかと寝ぼけていたが、意識がハッキリしていくにつれて昨日の出来事を思い出す。

 殺し屋を助け、その逃避行に付き合うことを決めたこと。今日の朝イチで、闇武器屋に向かうことを決めたことも。

 横を見れば掛け布団が床に敷かれ、その上には自分の物ではないパーカーが脱ぎっぱなしになっていた。長い髪の毛が付いていて、耳を澄ませばユニットバスの方で物音がしている。

 李のリュックサックが開けられているので、着替えでもしているのだろうと周は検討を付けた。

 水のボトルをラッパ飲みし、煙草に火を点ける。一本の半分ほど灰になった頃、ユニットバスの扉が開く。

 長い髪を一本に結び、朝の支度を済ませたらしい李が出てくる。

 ショルダーホルスターには拳銃54式が収まっており、よく見ると撃鉄が起きていた。

 それは薬室に弾が入っている証拠であり、李がすぐさま戦闘をすることを想定していることの表れでもある。


「暴発しないか? それ」


 トカレフもとい54式には安全装置は無い。他の拳銃に比べると、暴発リスクは高いと言えよう。


「暴発するリスクより、すぐに撃てなくて死ぬリスクの方が高い」


 そう言い放つ李の眼は、眠りにつく前に見せた寂しげな眼ではなく仕事人の冷徹な眼差しであった。


「……自分で言うのもアレだけど、三合会の連中はそこらへんにいる。闇武器屋に、無事に辿り着けるかどうかも分からないわ」


 周は煙草を蒸かしながら、静かに話を聞いている。


「引き返すなら、今の内だよ」


 李の最終確認に周は口角を上げて答えた。


「何を今更。俺は、もう腹括ってんだ。……お前が殺し屋だって分かった時から」


 周の言葉に李は密かに胸をなでおろす。運よく巡り合えた人に見放されるのは、辛いからだ。



 早朝の香港に出る。街はまだ目を覚ましておらず、喧騒を奏でるのは当分先のことだ。

 だが、始発のバスや電車は既に動いている。通りに行けば、稼ぎたがりが転がしているタクシーも走っているであろう。

 周はジャンパーのポケットに手を突っ込み、歩き出そうとする。


「とりあえず、タクシーでも拾って……」


 彼が振り返って見たものは、三ドアハッチバックマツダ・ファミリアの運転席の窓に肘を付けている李の姿だ。

 刹那、李の肘が窓を突き破った。恐ろしいことに、割った音はほとんどしなかった。

 唖然とする周を横目に、李は慣れた手つきで運転席のドアを開けてシートに散らばったガラス片を道路へと散らした。

 更にステアリングの下に潜り込み、コード類を弄り始める。ものの数秒でエンジンの唸りが周の耳に届く。


「タクシーより、こっちの方が自由が利くでしょ」


 平然と言い放つ李。

 警察官の職業倫理が周の心を咎めるが、殺し屋に肩入れしている状況と、職務上正当な理由なく人を撃ったことを思い出す。

 職業倫理など、クソくらえだ。

 周はそう心の中で叫び、助手席側のドアを開けるよう頼んだ。

 ファミリアは朝の空いてる道路を爆走し、九龍城区の馬頭囲地区に入り込む。

 九龍城砦の南側にある地域で、昔ながらの一階が店舗、それより上が集合住宅になっているタイプの建物が立ち並ぶ。

 その一角に李は車を停めた。


「ここか?」

「違う。少し離れた所。そばに停めて、追っ手に壊されると面倒だから」

「……それもそうだ」


 煙草を備え付けの灰皿の中に落とし、車から降りる。

 李の案内で行き着いた先は、一回に日用雑貨販売の看板を掲げたマンションだった。


「ここ?」

「そう」


 李は通用口にあったインターホンを連打する。二人の耳にはインターホンを押すカチカチという音だけが聞こえるが、建物では鼓膜を破壊しかねない騒音に満ちている。

 そんな音を聞かされ、憤怒の表情を浮かべた建物の主が勢いよく扉を開けた。


「なんでい畜生! こんな朝っぱらから!」


 べらんめえ口調でがなり立てるは、五十絡みのちょび髭を生やした男だった。


「ストレスで髪が抜けたら、どうしてくれるんだ、ああん!?」


 男がつるっぱげの頭に手をやる。周は吹きだしそうになるのを堪えた。


「オヤジさん、私」


 ことの現況でありながら冷静な李が、落ち着いた口調で話しかける。


「銃と弾を売ってほしいんだけど」


 激怒していたオヤジも李の存在を認めると、急に冷静になった。


「ん? なんだ、オメェか……掟破ったって、本当か?」


 あまりに軽い聞き方に、周は面を喰らう。

 掟の価値は重く普遍的なものではなかったのか。そんな疑問が湧くも、オヤジの言葉で自分の認識が間違っていなかったことを知る。


「ここらのチンピラが、昨日店に来て、息巻いてたぜ。『殺せば、10万USドルをポンと出してくれる』って」


 既に李の死には懸賞金が駆けられていた。

 三合会の初老の男が、老人に詰められる前に布告していたのだ。


「へっへっへ、連中、アメリカ製の軽機関銃まで買い込んでったぜ」


 気色悪い笑みを浮かべたオヤジは、儲かったことが心底嬉しいようで目の前の女が自分が売った武器で蜂の巣にされるかもしれないのを、気の毒とも思っていないようだった。

 しかし、李も李で図太い神経をしていた。


「じゃあ、私にも武器を売ってよ。11万ドル出すからさ」


 堂々とした態度か提示した金額に惹かれたか、オヤジはよりいっそう気味悪い声で笑う。


「いいぜ。アメリカからソビエト、高級品から粗悪品まで、なんでもござれだ。好きなの選びな」

「ありがとう」

「礼なんていらねぇよ。それなら、一丁でも多くの銃を買え」


 オヤジの視線が周に向けられる。興味に満ちた目で全身を舐めるように見た後、李へ訊ねた。


「誰だ? このウブなニイちゃんは」

「ん? 私の相棒」


 いつの間にか相棒認定されていたことに、周は驚きつつも耳が熱くなっていくのを感じた。

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