1989年4月4日
午前4時44分
英国租借地香港 北区
中華人民共和国との境に置かれた、文錦渡口岸出入境検査場。ここで香港と中国間での入出管理を行うのだが、現在は閑散としている。
理由は時間にある。
国境開放の時間は旅行者が午前7時から午後8時まで、貨物は旅行者よりも少し長く午後10時まで。
つまり、まだ国境は開かれていないのだ。
早めに行って待つにしても、まだ二時間以上もある。誰がいないのも近づかないのも当然である。
しかし、中国側から一台の車が走ってきた。
ハードトップ型の黒いトヨタ・マークIIである。マークIIは封鎖されている国境ゲートの前に止まったかと思えば、短く四回クラクションを鳴らす。
すると、脇にある管理棟のドアが開き警備員の格好をした中年の男が出てきた。
中年男がマークIIの窓をノックすると、パワーウィンドウがゆっくりと下ろされる。
運転席から顔を覗かせたのは、六十は過ぎている老人の括りに入れても問題ない男だった。
中年男が初老の男へ訊ねる。
「三合会への客ってのは、アンタかい」
「そうだ」
初老の男は即答した。その声には若干、険があった。くだらないことを聞くなと言いたげな。
にも拘わらず、中年男は探るような目つきで初老の男や乗っている車、そして後部座席に載せられている四つの大きなボストンバックを見た。
中年男の視線がボストンバックに向けられた瞬間、初老の男の手が動いた。
中年男の顎に冷たい物が突きつけられる。
それは、拳銃の銃口だった。
ワルサーP38。二次大戦の時に独軍が採用していた骨董品だが、初老の男のそれはよく手入れされていた。
まるで、男の几帳面さとプロ性を象徴するかのように。
「余計な詮索はするなと、聞いていなかったのかね」
中年男は慌てて、非礼を詫びウィンドウから離れた。そして、本来するべきだった封鎖されたゲートを開ける作業に取り掛かる。
ゲートが完全に開くと同時に初老の男は、中年男へ目もくれず香港市街へ向けて車を走らせた。
しばらく走ると、幹線道路に入り建物も高くなっていく。
初老の男はハザードランプを焚きながら、車を路肩に寄せ、備え付けられた自動車電話の受話器を取った。
そして、契約の通り老人の携帯電話へと連絡をした。
挨拶もせず、老人は標的である李の情報を告げる。
かつて香港裏社会に名を轟かせた殺し屋、黒き疾風こと黑风の生涯唯一にして最高の弟子。李 宜。
師匠のような老獪さはまだ無いものの、若さ故の力強さがある。また、若い男が協力者として付いている可能性がある。
現在の居所は不明だが、九龍城砦に足を運んでいたことなどを教え、以後もこの番号で連絡を取り合うことを約束し電話を切る。
初老の男はシートに身を預け、深く息を吐いた。
黑风。
その名を耳にしたのは、彼が殺し屋として活動を始めたばかりの頃だった。
「三合会に逆らえば、香港に黒き疾風が吹き荒ぶ」と言われ、恐れられていたのだ。
しかし、黑风も人間であることに変わりはなく、二十年ほど前に肺を病んで死んだ。
遺灰が海に撒かれたとも、これまで始末してきた連中と同じく高温の窯に放り込まれて灰も遺らなかったとも、なんとも言えない噂がしばらく立っていたのを、初老の男は思い出す。
その噂が立ち消えになる頃、香港で黑风の名を継ぐ者が現れたという噂も耳にした。
黑风の隠し子や当時香港で二番目の殺し屋が継いだなんて、面白みのない内容ばかりだったので、当時の彼は無視していた。
だが、実際に継ぐ者がいたのである。正確には、継ぐ者というより出来の良い弟子程度だが。
(若い女だったとはな)
初老の男は驚いていた。
驚いていたが、やることに変わりがあるわけでは無い。
(まずは、九龍城砦だ)
標的を狩るにも、居所や目的が知れないと探しようがない。
初老の男はそれを探ろうと、動き出した。
時を同じくして、香港にあるテレビ局とラジオ局各社に香港警察本部長のハンコが押された、一通のファックスが送られた。
昨朝発生した殺人事件の犯人逮捕の為の協力願い。
そう題付けられたファックス紙には、朝のニュース番組で「不審な髪の長い若い女」について放送しろという要求が記されていた。
香港警察本部は、今事件における通常捜査から公開捜査へと切り替えたのだ。
もっとも、発生から一日もしない内の公開捜査への切り替えの理由は、捜査の手詰まりが理由ではなく三合会から香港警察へのお願いがあったからである。
香港警察本部長へお願いの電話を掛けたのは、屋敷で老人に詰められていた方の初老の男だった。
男は本部長がかつて行っていた、数々の汚職を引き合いに出し。
「こんな汚職よりも簡単なことだ。それに、今回は真っ当な業務の内ですからな」
と何処か八つ当たるように言った。
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