午後6時54分

英国租借地香港 中西区


 香港島・ビクトリア・ピークの中腹。ビクトリア湾を広く望めるここは、第二次大戦前の英国統治時代から続く高級住宅街だ。

 そこに建つ一軒の屋敷。そこはかつて1842年から始まった英国統治の際に、入植したある英国人将校の屋敷だった。

 極東の地で栄華を極めていた将校だったが、1941年に日本軍が香港に上陸した際に発生した香港の戦いにて戦死。その家族は屋敷を放棄する形で英国へ逃げた。

 権利が宙ぶらりんになった屋敷を日本軍は放置したまま、1945年に敗戦、香港から去る。また英国統治に戻ったが、将校の家族も独軍による英国本土空襲によって全滅しており権利などあってないようなものだった。

 そこに目を付けたのが、当時香港へ進出したばかりだった三合会である。三合会のトップがそこで暮らし、香港裏社会を牛耳ってきたのだ。


 ネオルネッサンス様式の屋敷。その応接室には、二人の男と一人の女がいた。

 男の片方は、喪服の如き黒い背広に身を包んだ初老の男。眼光は鋭い。

 もう片方は、シルクのパジャマにカシミヤ織りのナイトガウンを羽織った九十過ぎの老人だ。眼光は初老の男に比べると若干鈍いが、貫録によってそれを補っている。

 年齢や服装という要素を差し引いたとしても、二人が漂わせている極道的空気によって上下関係は丸分かりだ。

 そんな分かりやすい二人に対し、女性の方は複雑だった。その格好が絵にかいたようなヴィクトリアメイドだからだ。

 黒色のロングワンピースにシミ一つない純白のエプロンドレス、そしてメイドの象徴たるホワイトブリム。

 屋敷の空気にはマッチしているが、男二人に漂う極道的空気には絶望的なまでのミスマッチを起こしている。

 メイドはアジア人らしい切れ目の眼を閉じ、老人の側で厳かに随えている。

 男二人が向かい合う間にあるテーブルには、彼女が淹れた緑茶が湯気を立てていた。


「まだ、捕まんねぇのか」


 老人が茶を音を立てずに啜った。初老の男の額に冷や汗が滲む。


「はい……。やはり、黑风黒き疾風の唯一にして最高の弟子なだけあります」


 口の中も喉も渇ききっているのに、初老の男は茶には手を付けず弁解に注力する。


「黑风の弟子だろうが、掟は掟だ。草の根分けて、ボットンの糞溜めの中でも探して、殺さにゃならん」

「……仰る通りです」


 しかし、男の弁解など老人に聞く訳もなく正論によって黙殺される。

 張り詰めた空気が男の息を詰まらせた。


「俺も実質隠居の身だから、細けぇことには口出ししねぇできたが……こうなりゃあ、話は別だ」


 老人が後ろへ手を出すと、メイドはどこからともなく携帯電話を出してそこへ握らせた。

 折りたたみのガラパゴス携帯はおろか、ストレート型の携帯も無かった時代である。老人の手に握られたのは、現在の固定電話の子機よりも二回りも大きい代物だ。

 老人はゆっくりとボタンをプッシュした。まるで、男への当てつけのように。


「大陸一の殺し屋を雇う」

「……殺し屋には、殺し屋という訳ですか」


 マフィアが殺し屋に敵うはずがないとばかりの言い草に、老人は語気を強めた。


「勘違いするな。相手が強い強くないの話じゃない。我々三合会のプライドの話なんだ。あまり言いたくはないが、お前達のその体たらくが、ここまで事態を悪化させたんだ。お前は、それが分かっているのか」


 脊椎がドライアイスに置き換わったような恐怖に、男は抗う術を持たずただひたすらに頭を下げるしかなかった。

 そんな男に愛想か興味が失せた老人は、ため息をつくことすらせず発信ボタンを押す。

 通話自体は三分も経たずに終わった。

 仕事を頼みたい旨を伝え、法外な額の成功報酬と前金を告げ、向こうが香港に着き次第連絡することを約束して電話を切ったのだ。

 携帯電話をメイドへ押し付けた老人は、顔を洗った直後みたいになっている男へ釘を刺した。


「殺し屋雇ったからって、お前らが休んでいい訳じゃねぇからな」

「分かっております」

「……本当に分かってんなら、ここで呑気に座ってる場合じゃねぇよな」


 真意を読み違えたことで男は失禁しそうになるも、ここで失禁しようものなら問答無用で殺される理由を作るだけだと慌てて膀胱を引き締めた。

 男は生きて屋敷から出られることに安堵しながら、玄関から辞する。

 男を見送り両開きの扉を閉めるメイドの手には、いつの間にかFN社製の小型自動拳銃、M1910の.32ACP弾モデルがあった。

 扉を締め切ると同時にメイドが主人に訊ねる。


「よろしかったのですか? 粛正しなくて」


 杖を突きメイドの後ろに立っていた老人は答えた。


「あんな奴、殺したところで面倒なだけだ。それに、ああも恐怖していれば何か妙案でも思いつくかもしれないでな。追い詰められた人間の底力は、計り知れんぞ」


 M1910をワンピースの袖口の中へ仕舞いながら、メイドは頷いた。


「しかし、それは掟破りにも通ずるのでは?」


 そんなメイドの指摘などたかが知れてるとばかりに、老人は口端を吊り上げて笑う。


「底力があろうと、追い詰められていることには変わりない。冷静な殺し屋には勝てないさ」


 老人の僅かに開いた口から、笑い声とも呻き声ともつかない音が漏れた。

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