午後1時48分

英国租借地香港 油尖旺区


 駅の近くにある広場。周はベンチに座りながら、李に取ってくるよう頼まれたコインロッカーの中身を手にし、それをぼんやりと見つめながら煙草を咥えていた。

 警察手帳と嘘の痴漢の通報を駆使して手に入れたロッカーの中身は、札束が詰まった封筒だった。額にして周の年収ほどが入っている。

 安月給とはいえ、周の収入は平均的なサラリーマンのそれとあまり変わりがない。警察官という危険を伴う仕事の報酬にしては、少ないというだけだ。

 そんな仕事を一年間こなして手に入れられる額が、今この手にあることに周は現実味を感じていなかった。

 しかも、この封筒の持ち主が自分と歳がそう変わらないであろう女であることも、現実味を感じさせない一因になっていた。

 身体を売ったとしても容易にはこの額は稼げない。それこそ、人でも殺して回らないと稼げない額だ。

 殺し屋。

 その三文字が周の脳裏で点滅する。

 しからば、彼女が持っていた拳銃の意味も分かるというものだと苦笑した。

 周は李の54式を思い浮かべる。

 銃口の先から銃身が少し伸びており、伸びた部分にはねじ切りの螺旋が刻まれていた。周はアメリカ映画でその改造を目にしかことがあった。

 その改造が発砲時に鳴る銃声を抑えるサプレッサーを装着するためのものであることも、映画を通して知っていた。

 ただの拳銃の不法所持なら色々な用途が想像できるものの、明らかに対人を想定した改造では用途は一つしかない。

 周は考える。集合住宅で死んでいた男は、やはり彼女を殺したのだろうか。殺したとして、何故殺したのか。

 しかし、疑問が二つ出たところで彼は推理するのを止めた。推理材料が少ないというのもあるが、別に自分が推理しなくとも事の張本人から聞けばいいだけのことだと思ったからだ。

 封筒を懐の深いところに仕舞った周は、煙草を靴底でにじりこの場を後にした。



 自分の姿を他の刑事になるべく見られたくない周は、人が少なくなる時間帯を狙い捜査課のオフィスに戻ってきた。

 そして彼は、電話番をしている婦人警官の一人に何か情報が入っていないか訊ねた。

 同僚の刑事からは嫌われている周だが、婦人警官の一部からは人気があった。

 その人気も周が嫌われる一つの要因になっていて、人気が仕事の役にあまり役立たないことから周も普段は無視しているのだが、今回は別だ。

 ことあるごとに物陰から周の姿を見て頬を赤らめている婦人警官は、本人に声を掛けられて舞い上がりながらペラペラと話した。

 捜査の焦点はやはり現場から消えた女の消息だった。

 香港中のタクシー会社やバス会社にローラーをかけ、行方を探っているようだ。幸いと言うべきか、有力な情報は掴んでいないらしい。

 タレコミもなく、早くも難航の気配が見えるとも婦人警官は付け加えた。周は安心すると同時に紙一重の状況であることを察した。

 何か一つでも情報が入れば、捜査陣はその情報を徹底的に洗うはずだ。それが九龍城砦に繋がるものであれば、あとは周が考えた通りになるだろう。

 それこそ、何処かの変わり者が周が相手したホームレスのような情報提供者に接触すれば、状況は一変する。

 うかうかはしてられない。だが、現状では動きようがない。出来るのならさっさと彼女を逃がすべきなのだろうが、手立てがないのだ。

 蛇の道は蛇。

 警官である自分が知らないことを、おそらく殺し屋であろう彼女は知っているに違いない。

 ならば、聞かなければならない。彼女自身が生き残るためにもだ。

 婦人警官に礼を言った周はオフィスを出た。寮へ帰る道中、彼はお使いの仕上げとしてスーパーに立ち寄る。

 水、缶詰にインスタントラーメン、酒、煙草、マッチを買い揃えて家路を急いだ。

 寮の部屋では李が場所を変えて座っており、机の上にはチョコレートバーのゴミと中身が半分ほど残った水のボトルが置かれていた。


「おかえりなさい」


 そう言う李の声は部屋を出た時より、いくらか柔らかい。

 周は抱えていた紙袋から買った物を、懐から封筒を出して机の上に並べた。


「……ありがとう」

「失礼なのは百も承知だけど、封筒の中身、見させてもらいました」


 李の表情は変わらなかった。


「聞かせて、もらいますよ。全部。貴女が何者で、何があったか」


 周は李と向かい合うように座る。そして、お互いに見つめ合って確信する。

 やはり、自分と同じ目をしていると。

 観念した顔をして、李は口を開く。


「じゃあまず、名前から話そうかな」


 一拍置き、彼女は周の眼を見た。


「私の名前は、李 宜。貴方の名前は?」

「俺の名前は、周 泉」


 こうして二人は、お互いの名前を知った。

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