午後12時09分

英国租借地香港 深水埗区


 平日の真昼間ということもあり、寮の中には誰もいない。

 そうでありながらも、周は人目を気にする素振りをしながら自室へ李を招いた。

 家具や物がほぼ無かった李の部屋とは対極の汚部屋だったが、李は躊躇うことも気にすることもなく部屋へ上がった。汚部屋でも安全が確保されているだけ、先程の状態よりもマシということもあるが。

 周は鍵を閉めてから、そそくさと灰皿に出来た山や酒の瓶や缶を片付けだす。

 人間不信の彼もデリカシーや常識が全て欠落している訳では無いのだ。

 ある程度、足の踏み場を作ってから立ち尽くしていた李に適当に座ってくれと促した。

 彼女は言われるがまま、万年床の向かい側に座った。

 周はいつものように万年床へあぐらをかく。

 座布団なんて気が利いたものは部屋に無い。仮にも客人を床に座らせていることに気が付いた周は場所を交換しようと持ちかけるも、お構いなくの言葉で封殺される。

 それからしばらく、会話は無かった。

 互いに何をどう話すべきか腹が決まらなかったのだ。

 周が沈黙に耐えかねて煙草に火を点ける。先端が焦げ葉に火が移ったのを見計らって、軽く吸い込んで味わってから吐き出した。

 煙草の吸い方には、肺喫煙と口腔喫煙の二種類ある。

 彼の吸い方は口腔喫煙だ。ニコチンの吸収率は肺喫煙に比べると悪いが、肺に煙を入れない分肺が真っ黒けになるリスクは格段に低い。

 だが、煙草を味わおうにもそこらの安煙草では辛いばかりで味もへったくれもあったものではない。

 ラム酒やバニラなどでフレーバーを付けた物か、高級な葉を使った煙草でないと口腔喫煙は出来ない。

 周が吸っているのは、日本製でラム酒によってフレーバー付された煙草だ。

 輸入物なので値は張るものの、安煙草の何倍も美味い。

 それだけの価値はあると、彼は思っている。

 煙を吐きまた咥えようとしたタイミングで李が口を開き、周へ訊ねた。


「私を、捕まえないの?」


 周の動きが止まる。李は畳みかけるようにして、言葉を続ける。


「私を、追いかけて来たんでしょ。……刑事さん」


 周は彼女の言葉を肯定して、煙草を咥える。しかし、先の火が明るくなることはなかった。


「なら……どうして、捕まえないの?」


 李は知りたがっていた。目の前に座る男が、何をもってして自分を必要以上に助けたのかを。

 真っ当な刑事なら、こうして自分の部屋へ連れ込まず真っ先に警察署へ向かったはずであり、昨日会っただけのそれも財布を落とさせて小銭をぶち撒かせた自分に対して何故ここまでするのかを。

 下心があってここまでした訳ではないのは彼女は察していた。

 今朝殺した男が浮かべていた下種な目はしておらず、今も周の眼は何かを考えているように揺れていたからだ。

 そんな彼がやっとのことで出した返事は。


「なんとなく」


 という、曖昧なものだった。

 しかし、李は問い詰めることはしなかった。彼の眼が答えとは裏腹にあまりにも真剣だったからだ。

 演技でやっているとすれば、アカデミー賞間違いなしの眼をだ。信頼とまでは行かなくとも、今日明日で手錠を掛けられるようなことはない。

 彼女の直感がそう告げていた。

 放置されて短くなった煙草を二回ほど吸ってから、周は立ち上がる。


「……一旦、署の方に戻ります。捜査が何処まで進んだか……城砦でのことが知られてないか、確かめに行ってきます」


 自分の保身というより、李のためだ。九龍城砦まで行ったことが知られたら、そこから芋づる式に今隠れている場所もバレてしまう可能性があるからだ。

 城砦まで行ったことが知られていたら、すぐさま場所を移す。知られていなければ様子を見る。彼はそう心に決めた。

 扉のノブに手を掛けると、李がお使いを頼んできた。


「外に出るなら……何か、食べる物買ってきてくれる?」

「食べ物」


 周は内容を反芻しながら、脳へ刻み込んでいく。


「なるべく、お腹に溜まるやつを。……あと、油尖旺区にある香港鉄路の旺角東駅。そこのコインロッカーの334番に入ってる物も取ってきてほしいの」

「旺角東駅のコインロッカーの334番」

「鍵は女子トイレの奥の個室のタンクの中に貼りつけてあるわ」

「鍵は、女子トイレのタンクの中」


 女子トイレというのがネックだったが、頼まれたからにはやろうとするのが周の美徳と言えるだろう。


「……じゃあ、なるべく早く帰ってきますから。気を付けて」

「貴方も。……貴方も、顔が割れてるから、気を付けて」


 周は精いっぱい笑って見せて、大丈夫であることをアピールしてから部屋を出た。

 李は周がいなくなってからすぐ残された部屋で、寂しさを感じていた。繋いでいた手を急に離されたような、そんな感じをだ。

 そして、そんな気分を味わっていることに軽い衝撃を受けた。

 何故、信用材料が一時的に警察から匿ってくれていることだけの男を頼りにしているのか。

 報酬を代わりに取りに行ってくれと頼んでしまうくらいに、自分はあの男を信頼しているのか。

 男が心変わりして大金を持って逃げる可能性や、逮捕される可能性もゼロではないのにも関わらず。


(……分かんないな)


 しかし、彼女はすぐに分からせられる。安心したからか尿意を覚え、トイレに入った際だ。手を洗おうと洗面台の前に立つと、鏡に自分の顔が映る。

 頭部の中心に収まっている、二つの眼。

 眼に映る感情の揺らぎや、奥底にある自分を形成する何かが鏡を通して自分に伝わってくる。別段、それはおかしいことではなかった。

 殺人現場となった自宅の鏡でもまったく同じに映るはずだ。問題は、それらの感情が先刻部屋を出て行った男と同じだったことにある。

 向かい合っていた時は気が付かなかったが、彼は自分と同じような感情をして、自分と同じような潜在的願望を抱えている。

 それが分かった途端、李は急に周の顔が見たくなった。名前も生い立ちも知らない彼が、どんな人間か知りたくなったのである。

 しかし今更追いかけて外に出るわけにもいかず、彼女は周が座っていた場所に背中を預け彼の帰宅を待った。

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