午前10時38分

英国租借地香港 九龍城地区


 タクシー会社「新緑交通」で得られた情報は以下の通りだった。

 事件発生直後、あの物乞いがいた通りで犯人の特徴に当てはまる女が、タクシーを拾っていた。

 行先は九龍城砦。実際に犯人を乗せたという運転手から確認を取り、裏を取る。

 周は交番から新緑交通へタクシーを頼み、九龍城砦へと乗り付けた。正規の運賃にプラスしてチップを払うと、運転手は恵比寿顔して去っていった。

 そして彼は、目の前の城砦を見上げる。

 そこかしこにある看板の間に洗濯物が干してあり、スラム独特の生活臭を感じ取った。建物と建物の隙間から城砦内部に入る。

 周は城砦内の行ける所まで行き、犯人の朧げな気配も探そうとしていた。

 出会った人に声を掛け聞き込みをしながら、奥へ奥へと進んでいく。次第に太陽光が乏しくなり、薄暗くなる。出会う人々も、カタギから裏社会系の層へ変わっていった。

 化粧が濃い娼婦、入れ墨を頭まで彫ったヤクザ者、アヘンで精神を崩壊させた者までいた。

 聞き込みの収穫も無いまま、奥に入り込んだので設備もどんどんと古くなっていき、パイプの水漏れが生ませた水溜りを踏むのも一度や二度では済まなくなり、電気が消えた電球を目にするのも多くなってきた。

 そのうち音まで失くなってくる。子供の声も発電機の音も電話のベルも、何も聞こえない。

 耳朶を打つのは自分の呼吸音と、微かにする心音だけだ。


(不思議な気分だ)


 周はそう思った。

 一説によると、九龍城砦の人口密度は最盛期にニューヨークの百二十倍とも言われている。計算すると、畳一枚に十九人いることになるとも。

 なので、城砦内は常に音で満ちていたという。だから音がしないなんてことは、ありえないのだ。

 しばらくその場で立っていた彼だったが、静寂は前触れもなく終わりを告げた。

 破裂音が彼の近くで鳴ったのだ。おまけに、その破裂音に彼は聞き覚えがあった。


(銃声?)


 流れるように、周は腰のホルスターからハイパワーを抜いて安全装置を解除する。

 破裂音は散発的に続いており、音がする方へ彼は走り出した。

 音は段々と大きくなっていき、音源に近づいているのが感覚的に分かる。この角を曲がればというところで、周は呼吸を整えた。

 訓練で何百発と撃ってきた彼だが、人に向けるのは初だった。果たして自分は撃てるのか。鉄火場を前にして、彼は自問する。


(……いや、撃つべき時に撃たないでどうする)


 ここまで来て引き下がる訳にはいかず、周は無理矢理覚悟を決めた。

 銃声が途絶えたタイミングで、ええいままよと彼は飛び出す。


「警察だ!」


 通路には二人の男が立ち、周のすくそばの物陰には髪の長い女が彼を見つめていた。

 女の手には弾切れになってホールドオープンした54式と予備弾倉がある。

 周は固まった。

 女が昨日、茶餐庁で出会い、会いたいと想った人だったからだ。

 女――李も驚いていた。まず警官の乱入に驚き、その警官が気になっていた男だったことにまた驚く。

 しかし、それは二人の問題であって百歩蛇組の組員にはどうでもいいことであり、警官の乱入に怯んだもののすぐさま銃を構え直し、無防備に身体を晒している周を撃とうとする。

 我に返った周も狙いを定めようとするが、この場で一番鉄火場に慣れた李の動きの方が早かった。

 54式をリロードせず、バックアップのM49を抜いて連射する。二発外したが、残りの四発はしっかり二人の男へ命中した。

 物陰から出て、周の手を取る。


「こっち!」


 周も一瞬戸惑ったが、彼女の手を握り直し共に走った。彼等の後方では、やられた二人の後続が追いつき周の背中へ銃口を向け、撃ちまくる。

 咄嗟の判断で周は片手で撃ち返し、一人の肩へ九ミリ弾を当てた。

 死なずに怯んだのが効き、銃撃が止む。

 死んでいたり死んだも同然ならそのまま放っておけるが、なまじ肩などの死にはしないところに当たった場合、放っておけなくなるのだ。

 肩に当たったのはマグレだったが、これ幸いと二人は走るのに専念して九龍城砦の外に出た。

 太陽はてっぺん近くに昇っておりかなりの時間、城砦の中にいたことを認識させられる。もっとも感慨に浸る暇なく、二人は道路に飛び出してタクシーを強引に止めて乗車する。


「なんでぇ! テメェら、 死にたいのか!」


 怒った運転手を金で黙らせた周は、自身の寮の住所を告げる。

 李は城砦から追手が出てこないまま車が走り出したことに安堵し、全身の力が抜けていくのを感じた。



午前10時55分 城砦内。百歩蛇組事務所。


 李へ警告した男が、組長へ報告をしていた。


「五人死んで、二人怪我しました。怪我した奴は、いつもの闇医者の所へ運ばせました」


六十代の組長は煙草を蒸しながら、男――若頭の話を聞いている。


「女は……見失いました。若い連中使って、城砦の中を捜索していますが――」


すると、組長がポツリと呟いた。


「逃げたか」

「は?」

「お前、女がとっくに逃げたと思ってんだろ。顔に書いてある」

「……ええ、掟破りと言ってもプロの殺し屋です。引き際ぐらい弁えてるでしょう」

「だろうな。若ぇ連中も適当な所で引き上げさせろ、そしたら死んだ連中の葬式の準備だ」

「追わないんですか?」

「馬鹿野郎。組員全員殺す気か」

「すいません」

「若ぇのにも伝えろ。シマの外に出たなら、それは俺達の管理外だとな」


 煙草を灰皿に押し付けながら、心底嫌そうに組長は言う。


「まったく、殺し屋相手にしてたら面倒なことになるな」


 若頭はそれに同調し、お互いに深いため息をついた。

 ヤクザ稼業も楽ではないのだ。

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