午前10時19分

英国租借地香港 九龍城区


 再開発によって生まれた茶けた荒野。工事車両がひっきりなしに動き、造成地を形成していく。

 数年後にはここも、雨後の筍よろしく近未来的な高層ビル群がそびえ立つに違いなかった。

 そんな場所にそれはあった。

 それをある者は「子供が無秩序に積んだ積み木のよう」と表し、ある者は「自己増殖を繰り返す細胞」と、またある者は「コンクリートの塊をカオスで覆ったようだ」と表す。

 遠目から見たら黒ずんだコンクリート塊のように見えるが、近づいてみるとコンクリートの表面に窓やベランダ、テレビやアマチュア無線のアンテナが生え、漢字の看板やポスターがデザイン性も鑑みられず隙間なく設置、貼られている。

 揃えられた美しさはない、あるのは一種の退廃美のみだ。

 まさにカオス。

 再開発の波に飲まれず、鎮座するそこは九龍城砦。

 かつては英国の侵攻に備えて築かれた城砦だったが、香港の地が英国に支配されてからは城砦としては機能せずスラム街として発展、いや増殖を進めた。

 増改築を繰り返したスラムにもはや規律や整頓の概念は無く、地図など役に立たず構造を理解する者も住民の中でさえ数は限られる。

 人が生んだカオスと無秩序に警察すら管理を拒否し、城砦内部は無法地帯だった。

 闇医者に闇市場、操業許可がない違法工場、アヘン窟、売春宿。一度足を踏み入れたが最後、二度と外には出られないとも噂される地。

 しかし、ここにも確かに人のささやかな営みがある。フラッシュに目を晦ませ、子供の金切り声を聞きながら李はそれを痛感させられた。


「撮れたよ」


 カメラの後ろから出てきた女の声を合図に彼女は着ていたブラウスを脱いで、ショルダーホルスターとパーカーを着直す。

 すると、スラムでも物珍しい本物の拳銃という眺めていた子供が、玩具を奪われたとばかりに李を睨んで泣き出す。


「ずーるーいー! オレも鉄砲欲しーいー! ちょーだいー! ねぇー!」


 騒ぐ子供の頭をカメラを操作していた女性が、容赦なく引っぱたく。軽い良い音が鳴った。


「ビービー騒ぐんじゃないよ! あれはね、このお姉ちゃんの仕事道具なんだよ! 頂戴なんて言うんじゃないよ!」


 それでも泣き止まない子供に対して、女性もとい母親は伝家の宝刀を抜く。


「そんなに騒ぐんだったら、昼飯と夜飯は無しだよ!」


 子供がピタリと泣き止む。だが数秒後、今度は縋る相手を母親に変更して先程の倍の音量で泣きを再開する。


「いーやーだー!」


 進退窮まった母親は、依頼人である李にカメラを渡してきた。


「悪いけどね、これを旦那に渡してくれよ」

「はい」


 李は写真を撮った部屋を出て、共同廊下に接する部屋に入る。

 そこでは、四十絡みの男が真剣な眼差しで作業をしていた。


「陳さん」


 李が声を掛けると、彼は作業の手を止めて椅子の軸を回して身体を彼女の方へ向けた。


「あれ? アイツは?」


 カメラを手にしているのが愛妻ではないことに、陳は首を傾げる。


「奥さんなら、子供の面倒見てます」

「ああそう。……なんか悪いね、子供が騒々しいのはいつものことだから。勘弁してよ」

「構いません。あと、これ」


 カメラを渡すと、陳は上唇を舐めて作業机の上に置く。

 先程まで彼が向かっていたのは、香港のパスポートだ。でも、ただのパスポートではない。氏名や生年月日など通常であれば記されている箇所が抜けているのだ。

 つまるところ、それは偽造パスポート。そして陳と呼ばれる男は偽造身分証製造を生業とする、ニンベン師である。

 李は海外逃亡のために、偽造パスポートを作るべく前に依頼したことがある陳を頼ったのだ。

 突然の依頼かつ明日には仕上げてくれという無茶な注文に驚いていた陳だが、相場の三倍の額を積まれて彼は引き受けた。


「じゃあ、今から現像するから。明日、取りに来てくれよ」

「分かった」


 陳の工房を出た彼女は明日までの長い時間を指折り数え、込み上げてくる緊張と恐怖を懸命に抑えた。

 九龍城砦から香港の空の玄関口、啓徳空港まではすぐだ。

 パスポートが出来次第、空港まで行き日本の飛行機に乗れば勝ちだと、彼女は自分に何度も言い聞かせる。

 しかし、なんであれ今日は夜を明かさなければならない。

 今更自宅にも戻れず、身を寄せられるような友人もいない。

 一瞬、師匠と共に過ごした家が彼女の脳裏に浮かぶも、その家は師匠の死後すぐに人手に渡っていたことを思い出し、首を振った。


(迂闊に外に出るより、ここに隠れてた方がいいかも)


 入り組んだスラムはある意味、身を隠すのにうってつけと言えた。

 そしてしばらくの間、身を潜めても安心な所を考える。

 人の部屋は論外。営業している宿は、城砦を仕切る三合会系組織の息が掛かっている可能性がある。

 売春宿も同様だ、女がいるはずがないという思い込みから嫌疑の目から逃れられるかもしれないが、女の客は目立つ。

 この際、屋上に出て物陰で防水布でも被っていようかとも彼女は考えていたが、それらが自身の防衛本能から来る楽観視と願望であることをすぐに思い知らされる。

 たまたま見付けた商店で、キャップと水とチョコレートバーを買い支払いを終えて、屋上へ向かおうとした時だった。


「こんな時に、呑気に買い物とはな」


 低い男の声と複数の人の気配。

 左右を見れば、それぞれに三人の男が囲むようにして立っていた。

 その手には、警察から横流しされたであろうS&WのM10リボルバーが握られている。

 右側の真ん中に立つ男が口を開く。


「新義安、百歩蛇組だ。ここを仕切らせてもらってる」


 新義安。三合会の中でもかなりの勢力を持つ組織だ。どうやら李が掟を破ったことを、三合会に知られたようだった。


「李、だな。掟破ったヤクザモンの末路、分かってるだろうな」


 男の声は冷たい。なんとか説得し、見逃してもらうという手は通用しないのがこの時点で察せられる。

 李がパーカーの内部に手を入れ、54式のグリップを握ると男達もM10を構えた。


「李よ。今なら、楽に死ねるぜ」

「……それは、最後通牒ってわけ?」

「まぁな。長いことヤクザやってると、掟破りの一人や二人の最後に立ち会う。ありゃあ、人間の死に方じゃねぇ。せっかくの若い身だ、無駄に苦しむより鉛弾一発の方が、死体も綺麗に済む」

「ご忠告、恩に着るわ。けど、死ぬつもりも捕まるつもりもないの」

「……威勢がいいのは結構だが、後で後悔するぜ」


 話は終わりとばかりに、男達から殺気が発せられる。彼らが引き金を絞る刹那、李はトカレフを抜き左側にいた三人を瞬時に射殺した。

 リボルバーとオートマチックでは、引き金の重さに違いがある。リボルバーの方が重く、ストロークが長い。

 オートマチックでも重い物はあるがトカレフ含め54式は軽い部類に入るし、ストロークも短い。速射はトカレフの方が有利だったのである。


「死ぬつもりはないの」


 李は誰も聞こえないくらい小さな声で、そう呟いた。

 この瞬間。長い戦いの火蓋が、切って落とされたのだ。

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