午前9時23分

英国租借地香港 深水埗区


 香港警察本部刑事部捜査課に対する出動要請が、所轄の警察署から出たのは二十分前のことだった。

 事件発生現場は深水埗区の古い集合住宅。

 男性一人の転落死。

 初動捜査を行った制服警官によると、事件発生直前に三階のある部屋から男女が争い合う音が、事件発生直後には髪の長い若い女が同じ部屋から飛び出してくるのを近所の住民が目撃している。

 それだけなら、痴話喧嘩の末に殺してしまったという絵が描ける。

 しかし、事態は急転直下する。

 死亡した男が六年前に殺人容疑で手配されていたことが判明したのと、争っていた部屋から男の指紋が付いた実弾が装填されたリボルバーが発見されたからだ。

 所轄は三合会など裏社会の関わりを主張、事件の全容解明のために本部捜査課に出動要請が出たのである。

 周は同僚と共に李の部屋――彼はこの部屋が彼女のものだと知らないが、そこで捜査をしていた。

 同僚が血痕やら割れたガラスやらに注目する中、彼はベッドの下に落ちていたテープに目を付けた。

 ベッドの下にも最近テープを剥がした痕跡があり、ここの部屋の住人が去る直前に剥がしたのだと周は推理する。

 粘着面には何も付いておらず、試しに彼は臭いを嗅いだ。

 何の変哲もないガムテープの臭いに混ざって、嗅ぎ覚えのある香りを感じる。

 ガンオイルの臭いだった。

 どう考えても、うっかり付くような類の代物ではない。殺された男もそうだが、ここの部屋の住人も銃を所持していたことになる。

 所轄が裏社会の関与を疑ったのも、早計ではなかったのだ。

 それから周は部屋を出て、聞き込みを行う。本来であれば、コンビを組んでいる刑事や同僚達と足並みを揃えて動くのだが、彼とコンビを組む者はいないし彼も足並みを揃える気は無い。

 聞き込みをするも、得られる情報は所轄の警官から聞いた情報と大差なかった。

 強いて言えば、住人である女の情報が詳しかったぐらいだ。

 年頃は二十代で髪が長く、逃走時の服装はジーパンにグレーのパーカーだという。

 周は女の逃走経路をなぞりながら、通りの方へ出た。

 通りにはひっきりなしに自動車やバイクが走っており、その中にはタクシーやバスもいた。逃走するのにはそう苦ではない。

 最近、空港や駅などで設置が開始されだした監視カメラが一台でもあれば、簡単に追えるのだがと周は嘆息する。

 しかし、ここで諦めるわけにはいかず通り沿いに聞き込みをすべく、車道に背を向けた時。


「兄さん、兄さん」


 不意に彼を呼ぶ声がした。声を発したのは、歩道脇で座り込んでいた物乞いだった。

 ボロボロのコートを着た物乞いは、どこからか拾ってきたであろう段ボールの切れ端に「お恵みを」と下手くそな字で記した物を持ちながら、もう片方の手で手招きをしている。

 無視するのも難だと、周は返事をした。


「アンタ、警察だろ?」

「だったら?」

「へへ、あっこの集合住宅から逃げて来た奴のこと探してんだろ? 良いこと教えてやろうと思ってよ」

「ふーん。言ってみろよ」

「いんや、タダじゃ教えらんねぇ。金くれよ。一食買える分でいいからよ」


 やっぱり。周は心の中で大きなため息をついた。


「さっきよ、制服のお巡りにも声掛けたんだけどよ、無視しやがって。おまんま食い上げだからよ、食い下がったら、『乞食罪で逮捕するぞ』なんて言いやがって。だからよ、まだ誰にも教えちゃいねぇぜ」


 物乞いやホームレスが警官相手に情報屋まがいのことをするのは、別段珍しいことではない。

 大半の警察官は無視するか、話の警官のように脅すが捜査課の中には、ホームレスを上手く使っている者もいる。

 だが、周は持ち前の人間不信と他の刑事への反骨心から普通の情報屋も利用していなかった。

 しかし、今日は違った。普段なら無視するところ、彼はズボンのポケットから煙草とマッチを出して煙草を一本、物乞いへ勧める。


「金は、情報を聞いてからだ。これを受け取って素直に話すか、欲張って煙草も金もフイにするかはお前が決めろ」


 彼の心境の変化は、やはり李との出会いが効いていた。また彼女と会うべく、少しでも徳を積もうと無意識のうちに算盤を弾いていたのだ。

 無論、物乞いはそんなことも露知らず煙草を咥えて、図々しく火を要求した。


「へへ、慌てる乞食は貰いが少ねぇって言うもんな」


 マッチを擦り、物乞いの煙草に火を点けてやると彼は美味しそうに煙を吸い込んだ。


「へへへ、久しぶりにシケモク以外吸ったぜ」

「さっさと話せ」


 なんだかんだ周も煙草を咥えて、火を点けた。


「アンタらが追ってるのは、髪の長い女だろ? 二十代くらいで、グレーのパーカー着た」

「そうだ」

「その女が乗ったタクシーの運営会社は『新緑交通』って名前だ」


周は手帳にメモしながら物乞いへ確認する。


「嘘じゃねぇだろうな」

「嘘なんかじゃないぜ」


 裏を取るべきだが、試す価値はある情報だった。

 周は財布から、物乞いが要求した額に少しだけ色を付けて渡す。


「へへ、ありがとよ」

「これで嘘だったら、地の果てまで追いかけまわすからな」

「おらぁ、陰口は言っても、嘘だけは言わねぇからよ」


 物乞いの言葉を鼻で笑い、周は新緑交通に電話を掛けるべく近くの交番へと走った。

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