1989年4月3日

午前8時00分

英国租借地香港 深水埗区


 李が目を覚ましたのはベッドの上ではなく、硬い床の上だった。

 目を覚ましても、意識は眠気に半ば支配されていた。いつもは規則正しい生活をしている彼女だが、昨晩は違った。

 馴れ馴れしい男を忘れるべく、痛飲していたからだ。ジャックダニエルを一瓶空けたおかげで、男の影を振り切ることは出来た。

 しかし今度はアルコールで朧げになった意識の中、茶餐庁で出会った男のことを忘れられなくなってしまう。

 どこで会ったか、彼は何者か。考えてみたが、アルコールによって思考は滑り答えらしい答えは欠片も掴めず、彼女は意識を失った。

 鋼鉄の肝臓と元来のアルコール耐性と若さによって地獄同然の二日酔いは免れているものの、耐え難い喉の渇きが意識が覚醒していくにつれて露わになっていく。

 縋りつくようにして冷蔵庫を開けた李は、ペットボトルの水をラッパ飲みする。 

 500mlを数秒で空にすると、喉の渇きは大分マシになった。飲み殻をゴミ箱へ投げ捨ててから、彼女はもう一度冷蔵庫を開ける。

 先程飲んだペットボトルが最後の物で、冷蔵庫の中には瓶の青島ビールが一本と萎びたセロリが一個あるだけだった。

 人間の身体と言うのは正直なもので、喉の渇きが癒えると今度は腹の虫が鳴り出す。昨日の夕方から液体しか腹に入れていないので、さもありなんであるが。

 考える余裕が出てきた李の頭は、近くのスーパーで食料品と水を購入し、その足で昨日請けた仕事の報酬を取りに行く計画を立てる。

 それが一番効率的で、ルート的にも行きやすいものだった。そうと決めた彼女は、適当に服を選ぼうとする。ジーパンとシャツに上着を羽織る、いつものパターンに定まりそうになった時。

 玄関のチャイムが鳴らされた。

 李の視線が玄関のドアへ注がれる。この場所を知る者は少ない。それも、三合会の幹部クラスでしか。

 わざわざこんな時間に訪ねてくるということは、何か緊急の用事かもしれない。警戒はするが、覗き穴もチェーンも無い古い集合住宅では瞬発力こそが最大の警戒方法だ。

 キャビネットの上に置いてあったショルダーホルスターから54式を抜き、コッキングする。右手に握り、後ろに回して隠し持つ。扉をゆっくりと引き、五センチ程開いたところで彼女は自分の浅はかさを呪った。

 忘れたくて痛飲したはずの顔面をぶら下げた、チンピラがそこにいたからだ。

 尾行でもされていたのだろう。そんなことをしても、おかしくない人間だ。咄嗟に閉めようとするも、腕力では男の方に軍配が上がる。

 扉が全開にされ、男が「おじゃまします」も無しに上がり込んでくる。

 李が54式を構えると、男も後ろ手で扉を閉めながら腰に挿していた、アメリカS&W社製のリボルバー、M27の3.5インチ約8.9センチモデルを抜いた。


「おいおい、止めてくれよ。客人に対して失礼だろ」


 相変わらずの高い声は、自分が何をやらかしているかその重大性が分かっていないようだった。


「出てって」


 対して李は昨日、彼をあしらった時のような余裕ある振る舞いではなく、仕事中のような空気を発している。


「出てかなかったら、俺を撃つか?」

「………………」

「撃てねぇよな。『同士殺すべからず』だもんな」

「………………」

「それに、騒いで警察呼ばれても面倒だろ?」

「………………」

「だったらよ、おとなしく――」


 そう言いながら、男はスボンのベルトを外そうとする。

 李は男の身の程知らずさと、下種さに呆れ果てた。だが同時に、男の言うことも事実であることを理解していた。

 彼女は大きなため息をつくと、54式をキャビネットに置く。


「へ、へへへ。最初からそうしてれば――」


 男の声はそれ以上続かなかった。次に部屋の空気を震わしたのは、人の声ではなく打撃音。一瞬にして男の前に移動した李の拳が、彼の鳩尾にめり込む音だ。

 間髪入れず、男の顔面に華麗な左フックを叩き込んだ。

 並の人間ならこの時点で気絶していただろうし、李もそれを狙ったのだが男は違った。

 呼吸がままならず、脳震盪で意識朦朧なのに李へ反撃を開始する。


「このっ……くっされアマ!」


 体重と腕力に物を言わせ、彼女を押し倒す。M27は殴られた際に落としたらしく、李の細い首に手を掛けた。


「下手に、出てりゃ……良い気になり、やがって……」


 脚は男の尻が乗っかり動かせず、腕の自由は利くものの首に掛かる手は剥がせない。

 力比べでは勝てないと悟った彼女が目をつけたのは、男が手放したM27だった。意識を失う前に銃身を握り、グリップの部分で殴りつける。

 首から手が離れ、黒ずんでいた視界が一気に開けた。李は咳込みながらも、とにかく男から離れるべく後退る。

 頭の傷に手を当てながら、男は支離滅裂なことを喚き猛牛の如き形相と勢いで突っ込んできた。

 殴りが効かないのならと、頭部狙いの回し蹴りを繰り出す。暴走状態の男に避けるなんて選択肢は存在せず、頭部――正確にはこめかみにクリーンヒットする。

 これで倒れるかと思いきや、男は最後の力を振り絞って隠し持っていたバタフライナイフを出し刃を展開させた。


「ぶっ殺してやる!」


 この期に及んでも、ナイフ片手に突っ込んで来る形だったので対処は容易だった。ナイフを持つ手を掴み、一本背負い投げをする。

 投げ方からなにまで理想的だったものの、李は一つ見当違いをしていた。

 自分が既に、部屋の際まで追い詰められていたことだ。

 古い集合住宅にベランダやバルコニーなんて洒落たものはなく、男の身体は窓ガラスを突き破り、地面へと墜落していった。

 下を見下ろせば、アスファルトに真っ赤な花が咲き、前衛芸術なオブジェが出来ていた。ひと目見て、死んでいることが分かる。

 やってしまった。

 彼女はその場にへたり込みそうになる。

 周と見つめ合った時よりも、動揺していた。理由や過程はどうであれ、三合会に属する者が三合会に属する者を殺した。

 立派な掟破りを犯したのだから、無理は無い。

 それでもへたり込んだところで意味がないことは理解できたので、彼女は堪えた。

 どうすればいいか。昂ぶる心臓を押さえながら、彼女は考えた。死体が外にあり、かなり騒々しくした。

 これで警察が来ることは間違いない。汚職は失くなったと警察の広報は声高に叫んでいるが、三合会とのパイプは根強く残っている。

 死んだ男が三合会の人間だと分かって、自分が消えたとなれば三合会は自分を血眼になって捜索するだろう。

 捕まったら最後、どれだけしらばっくれても最後には真実を吐くことになる。自首したところで、拷問が免除されるだけだ。

 その後は推して知るべし。結末は死のみ。少しでも長く生きたいのであれば名を変え、顔を変えて遠くに逃げるしかない。彼女は死ぬわけにはいかなかった。

 そうとあらば、彼女はすぐに動くしかなかった。

 まず、服を着た。それからショルダーホルスターを装着する。

 リュックサックに部屋に隠していた現金とトカレフの予備弾倉と弾を入れ、バックアップ用にベッドの下にテープで留めていたS&WのM49を腰の後ろに挿す。

 戻る気は無いので鍵も掛けないまま、共用廊下へ飛び出す。

 李が思っていたよりもうるさくしていたので、廊下には住民が数人、話をしていた。

 飛び出してきた彼女に声を掛けようとするも、それを全て無視する。

 道路に出て、タクシーを止める。おでこが広い丸顔の運転手が行き先を訊ね、李は「九龍城砦」と一言告げる。

 顔こそいつもの無表情だが、拳を握っては開いてを繰り返し、額や背中は冷や汗で濡れていた。

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