午後3時38分

英国租借地香港 深水埗区


 香港警察に属する独身男性は、皆一律に寮へ入る決まりがあった。周もその例に漏れず、寮の部屋に一人暮らしをしている。

 建てられた当時は近代的ともてはやされた寮の建物も、三十年も経てば廃墟一歩手前だ。

 壁一面に食料品やら精力剤やらのポスターが貼られた玄関を通り、周は階段を上って二階の自室に入った。

 床は四畳の畳と、一畳の板の間で形成されており、設備としては洗面台とトイレ、流しと一口の電気コンロがセットになったミニキッチン、物干し用の狭いベランダ。

 一人暮らしにしても手狭だが、最近増えつつある一畳住宅という棺桶のような集合住宅の部屋に比べれば、広さは無論、好きに使えるトイレや水回りがあるだけ天国だった。

 周は装備をドアに付けたフックに引っかけ、着ていたシャツを部屋の隅に積まれた洗濯物の山の地層にし、ズボンも脱いでそのまま放置した。

 そして、小さな冷蔵庫からハイネケンの330ml缶を出し、一口啜る。彼の冷蔵庫には、酒と乾きものしかなかった。男やもめの冷蔵庫だとしても、荒廃しすぎだ。

 万年床を座布団、壁を背もたれにした彼は折りたたみテーブルを引き寄せてから、煙草に火を点ける。テーブルの上にある灰皿には、吸殻とマッチのゴミで出来た山が出来ていた。

 ビール、煙草、ビール、煙草と交互に消費していく。

 つまみも無し、語らう人も無しに酒を淡々と喰らう様は孤児の頃に一人で学校から帰っていた時から変わりがない。

 しかしそれも無理からぬことだ。マトモな人間関係も築けず、仕事している時以外では無為に過ごす彼が頼れるものは、ただ自身を受け入れてくれる煙草と酒と銃だけだった。

 むしろ、その三つに頼れるようになっただけ孤立無援だった子供の頃に比べれば、だいぶ救われている。

 しかし光の無い目をしている普段とは異なり、今日の彼の眼は情意で揺れていた。

 紫煙をくゆらせながらアルコールによって霧がかる思考で、彼が想いを馳せていたのは茶餐庁で会った女――李のことだった。

 周は彼女の名前は知らない。だがそれでも、彼女の眼のことはアルコールによっても脳裏から消えることはなかったのだ。


(どこで会った?)


 彼は考える。

 まず、警察官である可能性を否定する。そんな雰囲気は一切感じられなかったからだ。

 次に、自分が逮捕してきた犯罪者である可能性を否定する。どことなく危なげがあったが、捜査上で相対するようなチンケな犯罪者とはまとっている空気が違ったからだ。

 少なくとも、つまらない理由で人を殺したりはしない。彼は彼女をそう見ていた。

 そうなれば、交際関係が無いに等しい彼が顔を合わせる人間は、他に商店の店員やバスやタクシーの運転手しかいない。

 だが、彼女とは初対面であることは勘や記憶が知らせている。


(では、いったい何だったのか)


 周の脳裏に一つのワードがよぎる。

 運命の出会い。

 自分で考えたくせに彼は吹きだし、酒を口から少しこぼし、煙草の灰が布団の上に落ちた。


(ありえない)


 周は口の端をつり上げながら、煙草を灰皿に押し付けて布団の灰を手で払う。産まれてこのかた、彼の人生に彼にとって都合のいい運命など存在していなかったからだ。

 運命によってどんな風であれ自分の心が揺さぶられる女に会ったという方程式は、彼の中では成り立たない。

 それが成り立つのであれば、運命によって自分が育った環境はもう少しだけ生きやすかったはずだと結論付ける。

 世の中を拗ねていると思われるかもしれなかったが、彼にとって人が持つ自身への評価はもはや考慮する必要がないものだ。期待して裏切られるのなら、ハナから自分も他者へ期待しない。

 これがお互いのためとすら、彼は思っている。

 人間不信、ここに極まれり。

 ハイネケンを早々に空にした彼は、二本目に手を伸ばさずトイレへ向かった。

 速いペースで飲んだので、尿もいつもより早く溜まったのだ。便器に向かって放尿する間も、彼は薄ら笑いを浮かべていた。

 それほどまでに、彼にとって運命の二文字はあり得ないものだったのだ。

 疲れによる脳の誤作動。ストレスによる脳の誤作動。日頃の酒と煙草による脳の誤作動。

 それらしい理由を並べながら、彼女との出会いの必然性と彼女から感じた神秘性を否定しようとする。

 しかしながら、彼の心は否定できなかった。それは彼の心のどこかで、李との出会いが運命によるものだと思っていることの証左でもある。脳はどれだけ誤魔化せても、心だけは誤魔化せない。

 だからこそ、周は戸惑った。

 洗面台に手を付け、頭を振ってみるが戸惑いは消えない。試しにと顔を洗ってみても消えなかった。頭を上げれば、鏡に濡れた顔面を下げる自分が映っている。

 そして気が付いた。何故、李の眼に見覚えがあったかということに。

 彼女の眼と周の眼は同じ目をしていたのだ。勿論、李と周の間に血の繋がりはない。

 顔も似ていないが、同じ目をしていた。

 孤独で冷たい、同じ精神の色をした眼を。

 思わず息を漏らした周は、その場にへたり込んだ。口が自然と動く。


「……また、会えるかな」


 ここ数年、心にすら浮かばなかったポジティブな言葉だった。

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