午後2時59分
英国租借地香港 中西区
シーフードカレーとハムエッグを胃に収めた周。
会計をしようとレジの前に立つが、端数を支払う小銭を見つけられない。紙幣を出せば十分払える金額だが、お釣りで小銭が増えるのを周は嫌がるタチだ。
そうして財布を引っ掻き回していると、彼の肩に店を出ようとそばを通りかかった李の肩がぶつかった。衝撃で財布を落とし、小銭が床にぶち撒けられる。
「あっ!」
金を落とした周は勿論、会計待ちの店員と周と李の声が重なる。
店員以外の二人が慌てて、床の小銭を拾い集める。そして、二人で一銭も失くすことなく拾い集めた。
「すいません。……ボーっとしてまして」
「気にしないでください。こちらも、小銭探すのに夢中になってましたから」
ここで二人は顔を見合わせた。お互いにこの時が初対面。だが、二人ともお互いの顔、特に目に見覚えがあった。
どこで見たかは思い出せなかったが、見たことあることだけは自信を持てるという奇妙な感覚に二人揃って一分ほど硬直する。
しかしどこで会ったかは思い出せず、「何処かでお会いしました」なんてことも聞けず結局、小銭を渡し渡されする際に「これ」と「どうも」と短く言葉を交わして二人は別れた。
李は裏路地を周の顔を思い浮かべながら、ぼんやりと歩く。
思い出せないことが魚の小骨が喉に刺さったように、否応なく意識させられた。周の顔が彼女の好みに当てはまるかと問われれば、そうではない。
それでも、忘れられず気になるのだった。
彼女は考える。もし、日本に行っても両親が見つからず、手掛かりすら消えてしまったら。広い世界に自分は独りぼっちになる。
親しい友も、損得無しで頼れる人間もいない。もしかすると、あの男が妙に気になるのは自分の中の孤独が膨れ上がっていっているからか。
ここまで考えて、柄にもないことをと思っても、完全には否定できなかった。
(また、会えるだろうか)
歩いてきた道を振り返り、茶餐庁の方を見る。すると、ビルとビルの隙間から見たことのある顔が横からヌッと姿を現す。
しゃくれた顎とこけた頬にまとわりつく青髭、細い目には隠そうともしない下種な感情が黒光りし、短い髪も脂ぎっていた。そのくせ、彼が身に着けている作業着からは微かに洗剤の匂いがした。
「よぉ、宜。奇遇だな」
男は顔面にはそぐわない高めの声で、馴れ馴れしく李の名前を呼ぶ。男は李の同業者、三合会専属の殺し屋だ。
だが、師から全ての技術を教わり後継者として育てられて三合会内でも一目置かれている李とは異なり、彼はチンピラ崩れだった。
つまらないことで人を殺してしまい、三合会に泣きついて警察から匿う代わりに汚れ仕事をさせられている。
殺し屋と呼ぶにもおこがましい三下であるのだが、下請けという立場上、扱いは支払われる報酬の額以外は二人とも変わらない。そのせいか男は勘違いして、やたらと李へ馴れ馴れしい態度を取っている。
李も拒否しているのだが、つまらないことで人を殺すような男に思慮ある行動を求めるのは大間違いと言えよう。
「そうね。……それじゃあ」
歩幅を広げ、足の動きも早めるも、男も早足になって付いてくる。
「おいおい、そりゃあないだろ。せっかく会ったんだ、同じ仕事するよしみで、茶でも飲もうぜ」
「残念だけど、茶なら飲んできたの。ついでに言うと、お腹も減ってないし、甘いものは嫌いなの」
李は男が口にしそうなベタな誘い文句の全てを、先手を取って潰す。
あまりの手際の良さに、ヒャヒャヒャと引きつった笑い声を挙げる。
「つれないな」
「悪いけど、付き合ってる暇は無いの」
そう言い切った彼女は、男の方に目もくれずに走り出す。裏路地から大通りへ出る頃には、男の姿は見えなくなっていた。
李は安心したが、念には念を入れて香港の交通渋滞に一役買っている紅白のタクシーを呼び止め、乗り込んだ。
何故マフィア連中から一目置かれているプロの殺し屋に、チンピラ崩れの三下が声を掛けても平気なのか。
殺されはしないやと想像力を働かせ、声を掛けるにしてももう少し下手に出ないのか。普通の神経と立場をしていればそう思うだろうが、男の舐めた態度は三合会の掟が関係していた。
同士を殺すべからず。
時代の流れなどで幾つもの掟が変化、または消えてきたが、幾ら時代が進もうともも一文字たりとも変わったことがない条項だ。
三合会黎明期の混沌の時代。多数の組織が生まれては消滅、吸収、抗争を繰り返す日々に三合会の面々は疲弊していた。
これではせっかく結成した三合会が空中分解してしまうという危惧もあった。それを防ぐために作られたのが上記の条文を始めにした、掟である。
どんな理由であれ、内ゲバや殺し合いを始めた組織や人間は外部の殺し屋などを用いて謀殺してきた。
恐怖政治の方法ではあるものの、他地域のマフィアに取り込まれて三合会が消滅するのだけは何千、何万というヤクザ者のためにも防がなければならなかったのだ。
上記の掟が出来て以降、何人もの人間が殺されてきたが二次大戦前後にはかなり落ち着いてきた。掟を破る者は数年に一人や二人となっていた。
だが、いやだからこそそれを悪用しようとする者が出てきたのだ。
どんなことをされようとも、同じ三合会の人間を殺せば自分が殺される。どんな悪評をまき散らされようとも、命が保障されるのだからどんな無茶苦茶も出来てしまう。
失う物が無い者ほど、それをやろうとする。李へ言い寄って来た男は、その典型例と言えた。
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