午後2時37分

英国租借地香港 中西区


 周がハムエッグの付け合わせであるキャベツの千切りを口に入れた頃。同じ茶餐庁の二階で、殺し屋の女性が中年の男と向き合っていた。


「李 宜さん。これが、今回の調査の結果です」


 男に李と呼ばれた彼女は、結局約束の時間に三十分以上遅れてやってきた。男の前にある灰皿には煙草の吸殻が六本あり、どれも根本の近くまで灰になっていた。

 彼がこの茶餐庁で待っていたというなによりの証拠だ。だが、男は李に対して怒りや不快感などの負の感情を見せず、淡々と茶封筒を差し出した。

 男は興信所の調査員だ。

 李の依頼でここ一か月の間、香港中を巡っていた。その結果が茶封筒の中身である。

 李は無表情だが、目には緊張の色が色濃く出ていた。茶封筒の中には、A4の紙が五枚入っていた。

 紙にはワードプロセッサーで打ち込まれた文字が印刷されており、右上には順番が振られていた。そして、五枚目の末尾にはこう書かれていた。


『――依頼人、李 宜の両親は日本に渡航した可能性が高い』


 李はその文章を見て、息を漏らした。


「結果は、そこに書かれた通りです。今後、ご両親を探すのなら、日本で探してみてはどうでしょう」


 興信所の男は、パイナップルジュースを一口飲んだ。李は改めて一枚目から読み直し、また五枚目を読んで息を漏らした。

 何故、彼女が両親を探すのか。二十二年前に、彼女は両親と生き別れていた。歳にして四歳、西暦にして1967年のことだ。

 李 宜はこの年に中国本土から香港へと逃れてきた難民一家の娘だ。

 六十年代後半から七十年代後半にかけて、中国では文化大革命による殺戮の嵐が吹き荒れていた。各地で毛沢東に心酔した紅衛兵達が無辜の市民を虐殺し、犠牲者は一説によると二〇〇〇万人もの死者を出したと言われている。

 地獄と化した中国本土から逃れた人々の中には、親戚を頼って新たな暮らしを始める者や、心機一転香港ドリームを掴もうとする者もいたが、大多数は理不尽な理由で突然殺されないだけマシのその日暮らしをしていた。

 安いが古い集合住宅か空き地にバラックを建て、コミュニティを形成する。

 しかし、そんな場所の治安など良い訳がない。

 売春に違法薬物、そして人攫い。李は攫われ、近い歳の子供たちが寿司詰めになったトラックの荷台へ放り投げられた。

 そのまま連れ去られた彼女は、順当に行けば変態達の慰み者か臓器売買の商品にされていた。

 嬲られるだけ嬲られた末に衰弱死もしくは、臓物を保存液漬けにされるか道はその二つしかない。しかし、現実として彼女は今も生きている。第三の道が彼女の前に出現したのだ。

 攫われた翌日。攫われた子供達を一時的に置いておく倉庫に、ある老人が現れた。老人は三合会専属の殺し屋だった。彼はつい一週間前に血を吐き、先日肺臓がほぼ病魔に侵されていることを宣告されていた。

 妻も子もいなかった彼は死までに残された時間で、弟子を取り自分の生きた証である人生の全てを費やして会得した暗殺・殺人術を教えることを決断し、倉庫には弟子を見繕いに来たのだ。

 そして彼女は、何人もいる子供の中から弟子に選ばれた。理由は分からない。彼は李に訊ねられても答えず、自分から話そうともせずに墓へ入ってしまったので永遠の謎となってしまった。

 老人が死んだのは李と出会ってから三年後、彼女が七歳の時だった。

 それ以降、李は老人の跡を継いで三合会専属の殺し屋をしている。

 だが、彼女は裏社会で二十年近く生きてきても、生き別れた両親との再会を望んでいた。

 殺しの仕事の合間に、香港中を巡って両親を探し回っていたが一向に見つかる気配は無い。もしかすると、香港を離れてしまったのではないか。彼女がそんな懸念を抱くのも無理はなかった。

 香港内なら三合会のコネで調査が出来るものの、香港の外となれば話は別だ。彼女の力ではどうしようもなくなり、とうとう一か月前、興信所の扉を叩いたのだ。

 興信所の男は七本目の煙草に火を点けながら、喋り出した。


「おそらくですが、貴女のご両親は、この地に絶望したんじゃないですかね。地獄から逃げ出したのに生活は貧しく、好転しない。それだけならまだ我慢できたかもしれないが、ご両親はその苦しみにプラスして貴女も失った。これで絶望しないで、いつ絶望するのだという話ですよ」


すっかり冷めた茶を啜り、李は唇を湿らす。


「……だから、日本に?」

「断腸の思いだったでしょうね。貴女を見捨てる形になる訳ですから。しかし、当時の警察は裏社会とも強く癒着してましたから、警察に期待も出来ず、自分で探すにも限界がある。だから、少しでも辛い思いをしないように、気持ちに区切りを付けるために、この地を離れるしかなかったのかもしれません。それに、当時の日本は敗戦からの経済成長の真っ盛りでしたから、一からもやり直し易かったでしょうしね」


 李は資料へと目を落とした。


「まだ、日本にいると思いますか?」


 調査員の眼を見て、彼女は訊ねられなかった。目は口程に物を言うからだ。


「分かりません。……なにせ、二十年以上も経ってますから。日本にいるのかもしれませんし、また別の国に行ったのかもしれないですし、亡くなっていても不自然ではない歳ですからね」


 調査員の声は平坦で、感情が籠っていなかった。内容も事実を述べているだけだが、あくまでも調査員は調査するのが仕事であり、依頼人のご機嫌取りで飯を食べている訳ではない。

 むしろ感情を籠めないだけ、この調査員は優秀だ。言葉というのは、感情の強弱だけで言葉が持つ意味合いすら変わってしまう。


「とにかく、一度日本に行ってみてはどうでしょう。それで、日本の興信所にも同じ依頼をしてみては。その資料を差し上げますので、日本の興信所に見せても構いません」

「……考えときます」


 李はリュックサックから、依頼料を調査員へ手渡した。調査員の男は、グラスのパイナップルジュースを飲み干してからその場を辞した。

 一人残された李。茶を飲み干し、書類にもう一度目を通す。


『二人が乗ったと思われる貨物船は、日本国の大阪港に停泊後、アメリカへ向かった模様』


その一文を読み、彼女は呟く。


「オオサカって、日本の何処なの?」


 彼女の師である老人は、彼女に暗殺・殺人術と共に生きるのに不便がない学を与えた。

 だが、その学の中に外国の地理は含まれていなかった。

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