午後2時26分

英国租借地香港 中西区


 再開発の波から取り残された裏路地。無秩序かつ急速な発展は、このような場所を生む。昔ながらの猥雑で退廃的な空気は、懐かしさという曖昧なものによって消費されていき、いつしか無機質で空虚な場所へと変わっていく。

 雨風に晒され、汚れたコンクリが外壁の茶餐庁もそうだ。

 席に付いた周は煙草にマッチで火を点けた。昼も過ぎた裏路地の茶餐庁は、近所の老人が煙草片手に茶と甘味を囲んで世間話をする場所だ。

 地元の若い衆はおろか、珍しさを求める観光客すら近寄らない。そんな店が、周にとっては居心地が良かった。邪魔者は誰もいないが、誰かが確かにいる空間が。

 彼が警察に入ってから七年。何処で歯車がズレたか、遡れば彼の出生に関わってくる。

 周 泉は捨て子だ。正確に言えば両親不明であるが、周にとってはどうでもいいことだった。彼は生後間もなく、育った施設の前におくるみのまま段ボールに入れられ、放置されていた。

 手紙やメッセージの類は残されていなかった。

 施設の職員の話では、インターホンが鳴ったので門に行ってみれば捨てられていたという。へその緒は付いたままだったが、産湯に浸かった形跡と、今の今まで抱きしめられていたようでおくるみは温かかったらしいが、それが本当か確かめる術はない。

 みなしごを必要以上に悲しませない、施設職員の優しい嘘だったのかもしれないがやはり周には確かめる術はない。

 職員の義務的な優しさを受け、周 泉という名前も貰い、彼は健康に育っていったが成長した彼を待ち受けていたのは施設内の陰湿ないじめだった。

 小学生に上がった頃、周は「淫売の子」と呼ばれるようになった。施設にいる子供は皆似たような境遇であるはずなのにも関わらず、彼だけがターゲットにされた。

 理由は今になっても分かっていない。いや、理由などあってないようなものかもしれない。娯楽に乏しい環境の何かが欠けた子供達のコミュニティーに、正当性を求める方が間違っている。

 とにかく、周はいじめられた。直接的な暴力、陰口、悪口なんでもござれ。そんな中で、彼は明らかな抵抗はしなかった。

 殴れなかった訳では無い。殴ったところで、意味がないと幼いながらに察していたからである。殴れば一時的に収まるかもしれないが、数で不利であり、自分に逃げ場がないことは知られている。

 逆らうことで、「生意気な奴だ」と思われて行為がエスカレートするであろうことは分かりきっていた。周りが敵だらけで誰も頼れない。周の中から、人を信じる気持ちが消えていったのは必然と言えよう。

 結局、周へのいじめは中学へ入学する頃にピークを迎え、高校の頃には思い出したように陰口を叩かれる程度になっていた。

 周囲が大人になったと言えば聞こえはいいが、実際のところは代り映えしない反応に飽きており、たまにストレスのはけ口になっていたというのが実際のところだった。

 高校を卒業した周は警察に入った。大学に行ける頭はあったが、勉強をする意義を見出せなかったというのと、警察ならば人に舐められることはないという判断の上でだ。体術で犯人をいなし、銃を撃ち、逮捕するという行為に心のどこかで憧れていたという理由もある。

 警察学校をトップクラスの成績で卒業した周は、すぐに今の職場である刑事部捜査課に配属された。最初こそ、優秀な人材ということで歓迎されたが一か月後には腫れ物扱いにされる。

 周は人生をもって、人間付き合いが腐敗や慣れあいや庇い合いを生むことを知っていた。なので、彼はあまり人と付き合わなかった。

 自分以外の人間と、どう接していいか分からなかったとも言える。

 そこに人間不信から行われる単独プレーの数々と、優秀であるが故のやっかみが重なった結果、周は扱いにくいクセに口を出し、好き勝手に動き回る厄介者という評価を受けることになったのだ。

 無論、周にも悪い面は多々ある。しかし、周りの行動も常軌を逸していた。

 周に昇進の話が出れば、その度にカルテルを作ってお互いの成績を融通しあい、数字だけでは周よりも優秀な人間を作り上げ、そいつを担ぎ上げて周を巡査長へ留めさせるのだ。

 毎年刑事部に入ってくる若手などはそれに反発するが、いざ自分が昇進すれば給料も上がるし、警察は飯の数より星の数が絶対なので、いくら年上でも階級が下ならば顎で使える。

 学校などで年齢による上下関係を叩き込まれる都合上、年上を好き勝手出来るというのはかなりの快感を味わうことになる。そんな快感を前にして良心など、諸刃の剣だ。

 去年入ってきた新人刑事も、配属当初は周に同情して「先輩」と慕い、自分の親戚が経営する店へ飲みに誘っていたが、カルテルの手によって昇進し班長の座を手に入れると手のひらを返した。

 どちらが先輩か分からない態度を取り、今では完全に彼を舐め腐っている。

 つまり、周の人生は生まれた時から歯車がズレており、二十五歳の今では修正不可能なところまで来てしまったのだ。彼自身が悪いのか、周りの人間が悪いのか、それとも環境が悪かったのか。

 今となっては、それを考えるのも時間の無駄だが。

 火を点けた煙草を二本灰にしたところで、周が注文した料理が運ばれてきた。大きなイカとエビが入ったシーフードカレーと、薄いロースハムに固く焼かれた卵がこびりついたハムエッグだ。

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