午後1時30分
英国租借地香港 中西区
中心市街一等地に建つ高層ビル。そこは香港で成功した者が借りられると、もっぱらの評判であった。
そんなビルの二十階に、ある一人の男がいた。
食料品卸業で財を成しており、香港でも指折りの富豪だ。
仕立ても生地も良いスーツを身にまとい、匂いだけで高級品と分かるコロンを香らせているが、今の彼から感じ取れるのは焦りだった。
三日前のことだ。彼は香港三合会と手を切った。
彼は創業以来、九龍城塞にある三合会系組織が運営する食品工場から商品を安く仕入れ、卸相手に売っていた。
これまでは利益の二割を組織に納めることで取引がなされていたが、一週間前、突如として利益の半額を納めろと組織は要求してきたのだ。
正確には、組織に報告する分の売上と実際の売上よりも少なく報告していたのが、組織にバレたのだ。誤魔化していた分の補填として、利益の五割を要求してきたのである。
その要求を彼は跳ね除けた。
それだけではなく、組織との取引も辞めた。グローバル化も視野に入れている今、黒社会との繋がりがあるのは会社として致命傷に成りえる。いいきっかけだったと、その時は思えた。
だが、冷静に考えてみれば自身の不利益になるようなことを三合会が受け入れるか。それに気がついた時には後の祭り。組織との取引の際に用いていた電話番号は、既に通じなくなっていた。
警察に通報したようともしたが、その際に自身の罪も話さなければならなくなる。粛清されるのも嫌だったが、逮捕されるのも彼は嫌だったのだ。
進退窮まる状況。極度の緊張と焦りから、尿意を覚えた彼は滝のような汗を流した。鍵が掛かる社長室に閉じこもっている方が安全だが、生理現象には逆らえない。
生きるか死ぬかを天秤に掛けた場合、小便を漏らした方がマシであるがつまらないプライドと、これまでの人生で築きあげた常識が彼をトイレへと駆り立てる。
せめてものと買った、護身用のダガーナイフを手に個室に入った。放尿し、ホッと一息ついたところトイレの外から足音がした。会社員が履いているような硬い革靴の音ではない、スニーカーか運動靴が発する柔らかい音だ。
乾いた口から僅かばかりの唾を集め、飲み下す男。ナイフの柄を、両手が真っ白になるくらい握りしめる。
足音が入口付近で途切れ、別の音がしだした。何かを設置しているような音。それが聞こえなくなると、再び足音がして隣の女子トイレに気配を感じた。
ナイフを握る力が、僅かに緩む。続いて、水音がしてモップで床をこする音へと変化していく。
清掃業者か。男はまたホッと一息ついてから、レバーを倒して水を流した。廊下を覗くと、「清掃中」と赤字で記された黄色い立て看板が女子トイレ前に置かれていた。
すっかり安堵した男は、先程までしたモップの音がしなくなっていることに気が付かないまま、社長室へと戻ろうとした。
そんな彼のすぐ後ろで、タイヤがバーストするのに似た衝撃と轟が響いた。
「あれ?」
男はその場に倒れた。驚く速度で意識が遠のいていく。彼が人生で最後に見たのは、薄緑の作業着を着て、銃口の先に筒を装着した自動拳銃を持った女だった。
女が自身へと近づいていくのと同時に、彼は意識を失った。
倒れた男の身体へ、女は弾倉に残っていた七発の七・六二ミリ弾を撃ち込んだ。
これで男は完全に死んだ。彼女は空薬莢を回収し、女子トイレに引き返した。流し台の蛇口を捻り、加熱した銃口の先の筒――サプレッサーを冷やした。
湯気が出なくなってから、銃――54式拳銃から外した。
54式拳銃は、ソビエト連邦が製作したトカレフという自動拳銃を中華人民共和国がコピーした代物だ。大量生産されたのでかなりの量が大陸の闇市場に出回っており、弾も手に入れやすい。
本家トカレフは貫通力に優れているが、54式は本家よりも初速に優れておりそれによって貫通力も上がっており、大陸系の殺し屋が重宝する銃の一つだ。
女は作業着のジッパーを下ろし、ショルダーホルスターに54式とサプレッサーを仕舞った。そのまま作業着を脱ぎ捨て、セットのズボンも脱いだ。
作業着の下には別の服を着ていた。流し台の上に置いておいたリュックサックから、上着を出して羽織り、作業着を畳む。
最後に革手袋を外し、リュックのポケットへ仕舞い込んだ。最後に女は鏡で身だしなみを確認した。
濡羽色の肩甲骨まで伸びた髪を右に流し、顔は整っていながらも表情は無く、近寄りがたい雰囲気を漂わせていた。
男は殺した時のまま倒れており、出血は止まっていた。身体の血が流れきったのだ。
死体へ背を向け、非常階段から地上に下りる。
彼女は近くの公衆電話からある番号に掛けた。ワンコールで通じるが、電話口の相手は何も言わない。
「終わったわ」
彼女はそれだけ告げて、受話器を下ろした。
これで翌日にはいつものコインロッカーに、報酬が置かれている。一仕事終えた彼女は、腕時計を見た。時刻は午後二時になろうとしていた。
彼女の目が揺らいだ。仕事の最中には欠片すら出さなかった感情が、そこにはあった。
約束の時間が近づいていると、女は足早に公衆電話を離れる。
ベージュのパーカーにグレーのシャツ、黒のズボンという格好は街にすぐ溶け込み、目立たなくなる。人殺しと、何人もの人間がすれ違っていった。
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