午後1時17分

英国租借地香港 湾仔区


 香港の中心市街地に建つ香港警務処本部。

 8年後の97年にある中国返還に備えた再開発の波に乗って、リニューアルされた本部の建物は全面ガラス張りの現代建築。

 警察としての威厳の面には欠けるものの、機能面に関しては申し分ないものだった。

 その五階に、刑事部捜査課のオフィスはあった。立ち並ぶスチールデスクの間を、むさ苦しい男達が殺気立ちながら右往左往。机の上に積み重なる書類やファイルの束、その間からはいくつもの紫煙が狼煙のように昇っている。

 電話がひっきりなしに鳴り、電話番の婦人警官のメモを取る手も止まらない。

 取り調べを終えた周は、取り調べ室で仕上げた報告書を直属の上司である班長に手渡した。班長は二十五の周より一つ下だったが、階級は周の一つ上だ。

 周の階級は下から二番目の巡査長であり、その階級はどんなに不真面目でも十年ほど勤めれば与えられる謂わば名誉級であって、待遇は一番下の巡査よりほんの少しだけマシな程度だ。

 班長は小馬鹿にした目で、仏頂面の周と報告書を交互に見た。そして、報告書を読み終わると小さく舌打ちをした。まるで、いちゃもんを付けようとしたところ、いちゃもんの付けようが無い物を読んだように。

 班長は報告書をバインダーに挟み。


「周さん、もう、今日はアガっていいですよ」


 とヘラヘラしながら言った。明らかに舐めた態度を取る班長を舞えにしても、周は仏頂面を崩さない。


「いえ……。定期の射撃訓練がありますので、もう少しだけ残ります」


 月一の射撃訓練は全警察官に義務付けられているが、周の言葉に班長は不快な感情を露わにする。自分の言う事を聞かないで真っ直ぐ家に帰らないのが、気に食わないようだった。


「そうですか。いやね、今日はご活躍だったようですから、疲れてると思ったんですがね」


 気を遣っているようで、言葉の端々に棘がある。しかし、相変わらずの仏頂面で周は受け流す。


「いえ、警察官として犯人を迅速に確保しただけです。……では、失礼します」


 一礼し、オフィスを出る周の背中を班長含めた多数の刑事達が睨みつける。その中には、つい先程まで周と行動を共にしていた刑事達もいた。誰かが「仏像野郎が」と吐き捨てる。当然、その蔑称は周の耳にも届いていた。だが、それでも彼の表情は変わらなかった。

 周は五階から階段を使って地下一階まで降りた。彼は普段から、建物内の移動は階段と決めている。地下一階にはパトカーが停められた駐車場と、射撃場があった。

 射撃場の受付で身分証を提示し、耳当ての部分が黄色いヘッドホンのようなイヤーマフと、四十個の九ミリパラベラム弾を受け取る。

 イヤーマフを装着した周は、防音仕様の重い鉄戸を開けた。射撃場は、最大百メートルの射撃レンジが六つ並んでおり、そのうちの半分が既に埋まっていた。イヤーマフ越しの銃声が鼓膜を震わす。衝撃や音はイヤーマフによってかなり軽減されているが、それでも完全には消えない。

 周は訓練に勤しむ制服の後ろを通り、右端のレンジに入った。そこで、彼はホルスターから拳銃を抜いた。

 拳銃は、数年前から刑事課と特殊部隊に支給されている、ベルギーFN社が製作したブローニングハイパワーだ。量産された自動拳銃にしては史上初の複列弾倉を採用しており、開発当時では驚異の十三発の九ミリパラベラム弾を装填できた。ハイパワーの名は、そこから来ている。香港の地を租借しているイギリスでも、軍や警察で使用されている。

 周はハイパワーと二つの予備弾倉、受付で貰った弾をレンジのカウンターへ置いた。彼は改めてハイパワーを握り、安全装置を解除する。そして、ゆっくりと構えた。

 五メートル先の的へ狙いを付ける。照門と照星を重ね、的の中心を狙う。陰口や侮辱を受けても動じなかった目に、青白いものが宿る。

 引き金を絞り、弾が発射される。弾倉の半分ほど撃ってから、彼は撃ち方をダブルタップした。

 十四回目の発砲でスライドが下がり切ったまま、動かなくなる。薬室の一発と弾倉の十三発分だ。

 ホールドオープンしたハイパワーのマガジンリリースボタンを押し、空になった弾倉を抜いて、予備弾倉と交換する。

 レンジの壁にある操作盤を弄り、的への距離を十メートルにする。周は同じように弾倉内の弾を撃ち切ってから予備弾倉に交換し、今度は的への距離を二十メートルにした。

 合計四十発撃ってから、彼は貰った弾を弾倉に込めた。予備弾倉をホルスター横のポーチにしまい、余った弾倉をハイパワーに挿し込んでコッキングする。それから、もう一度弾倉を抜くと、薬室に行った一発分の弾を押し込んだ。

 最後の仕上げに、的を目の前まで動かして命中度合を確認する。

 四十発中、三十八発が命中しており、更に五発が中心にある直径三センチの円に収まっていた。

 銃は良い。こちらが丁寧に扱っていれば、必ず期待に応えてくれるから。周は的に空いた穴を見つめながらそう思っていた。だが、心に空いている穴は銃相手に埋まることなく冷たい風が吹きすさいでいる。

 彼は、人の愛を欲していた。

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