夜明けの香港

タヌキ

1989年4月2日

午前10時27分

英国租借地香港 黄大仙区


 区内に幾つも建てられた公営集合住宅の一つ。鉄筋コンクリート造の五階建てで、収入が低かったり安定しない住民が住んでおり、住宅内の治安はお世辞にも良いとは言えない。

 住宅の壁も塗装がひび割れ、剥がれ、雨どいからは錆の筋が垂れていた。

 酔っ払いの怒声と赤ん坊の泣き声、真昼間から励む誰ぞの喘ぎ声がどこからともなく耳へと入ってくる。

 そんな住宅の前に二台のセダンが停まった。車から降りてきたのは、六人の男達だ。

 皆一様に髪が短く、体格がよい。しかし、軍人のような殺気立った気配は無く、ドッグタグも首から下げていなかった。

 彼らの腰には特殊警棒と手錠、そしてオートマチック拳銃が収まったホルスターが装着されていた。六人は香港警察の警官だ。それも、刑事部捜査課に属する刑事だ。

 そんな六人がこの住宅に来た理由は一つ。三日前に同じ区で発生した、殺人事件の犯人が潜んでいる可能性が高いからだ。

 事件自体は単純だ。金の貸し借りで揉め事を起こし、借りた側が貸した側を包丁で刺し殺した。関係者への聞き込みから、すぐさま被疑者が割れた。事件後から連絡が取れなくなっていることや、自宅へ帰っていないこと、凶器に残された指紋と自宅の指紋が一致したことにより犯人だと確定した。

 捜査の結果、犯人の男は所謂ジゴロで、何人もの女から多額の金を借りていたのが判明した。借りた金は博打に溶かしていたようだ。そして、何人もいる愛人うちの一人との連絡が二日前から取れないことが分かったのが一時間三十分前。その女の家が六人がいる古びた集合住宅であることと、そこが犯行現場から徒歩圏内であることが分かったのが四十五分前のこと。

 女の部屋は集合住宅の三階、西側に一つだけある階段から三つ目の部屋だった。

六人の内、最も強面な男がぞんざいに口を開く。


「おい、周。お前がノックしろ」


 周と呼ばれた男、もとい周 泉は六人の中で一番若く、六人の中で一番整った顔をしていた。イケメンの括りに入るかは人によるが、少なくとも他の五人のように一目で刑事かヤクザだと思われるような顔はしていない。

 刑事の悩みの一つに、刑事だと看破されるかヤクザだと思われて無駄に警戒されることがある。

 部屋の中に犯人が潜んでいた場合、如何にもな刑事面がノックするよりも周がノックした方が警戒されにくく、また犯人が発狂してドアから突っ込んできても真っ先に襲われるのが周であることが他の刑事の狙いでもあった。

 その意図を察しつつも、周は仏頂面ながらドアをノックした。


「すいません、下の部屋の者ですが」


 このようなご近所トラブルを装う声掛けは、彼が独自に考えた手法だ。どんなに犯人が警戒していようとも、在室しているのを知られているのに居留守を使えば不審がられるし、不審がられた結果、警察に通報されるのを犯人は最も恐れる。だからこそ下手に宅配便を名乗ったり、警察だと明かすよりもドアを開ける確率は高い。

 前者は心当たりがなければ怪しまれるし、後者は言わずもがな。そんな周の作戦が功を奏したか、ノックからすぐに物音がして扉が開かれる。

 扉の隙間から顔を出したのは、三十代後半の女だった。彼女の肌に乗っている化粧は崩れ気味で、髪も乱れており、服装はパーカーとパンツだけ。これだけでも中で何をしていたかは察せられるが、ダメ押し気味に女からは栗の花の臭いがした。

 臭いを間近で嗅いだ周は勿論、漂ってきた臭いを嗅いだ他の五人も、犯人か少なくとも男の在室を確信した。


「すいません、うるさかったかしら」


 女が申し訳なさそうな表情を作るが、周はそれを無視して扉を全開にした。その流れで女を押し、室内へ押し入る。

 何が起きたか理解できずに喚きだす女をよそに、他の五人も土足で部屋に上がる。

 男は寝室の布団の上で、生まれたままの姿で煙草を咥えていた。片手にはライター。今から一服しようとしていたらしい。

 布団の周囲には、湿り黄ばんだティッシュペーパーやピンク色の使用済み避妊具に、酒の空き缶が散らばっていた。

 その男の人相は、手配中の男まんまであった。唖然としている男に、一番強面の男がドスの利いた声で告げる。


「警察だ。お前を殺人容疑で逮捕する」


 それを聞くや男は飛び上がり、開けっ放しにしていたベランダへと逃げた。

 「待て」とお定まりのセリフを口にするが、男はそのままベランダから飛び降りた。狙ったか偶然か、男の身体はゴミ袋の山へと沈んだ。

 五人の男が慌てて踵を返し玄関へ戻ろうとするが、周は冷静に男と同じように欄干を乗り越え、ゴミ捨て場へダイブした。

 逃げたはよかったものの舗装されているとはいえ、小石や砂利が散らばる路上を素足で走るのは無理があったようで、男は百メートルほど走った後に躓き、地面を二度転がった。

 追いついた周は擦り傷まみれの手に、手錠をかけた。


「10時41分。逮捕」


 そう男へ告げる周の声は低く、よく通る声だった。

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