母の背中と天ぷらと

ロゼ

一話

「終わったな」


 父の小さな声で現実に引き戻された。


 未だに夢だと思いたいのだが、父の腕の中ですっかり姿を変え、小さくなった母に嫌でも現実が押し寄せてくる。


「お腹空いてない? 何か作ろうか?」


「そうだな……そういえばここ数日まともに食べてなかったか」


 こんな時に明るく振る舞うのもおかしなものだが、少しでも元気を出していなければ崩れてしまいそうだった。


 冷蔵庫を開けると、母が買っておいた食材が綺麗に整理され、行儀よく収まっている。


「ナス、ピーマン、ごぼうに人参……あ、海老もある」


「天ぷらにしようかって言ってたからな……」


「じゃ、天ぷら作ろうか?」


「……そうだな」


 天ぷらに出来そうな食材を冷蔵庫から取り出し台所に立つと、小さい頃から母に少しずつ教えられた料理の記憶が蘇り喉がキュッと詰まりそうになった。


 ナスはヘタを切り落とし縦に半分に切る。


「大きい方が食べ応えがあっていいのよ」


 母のナスの天ぷらは縦半分に切ったナスに細かな切込みを入れたもので、とてもではないが一口では食べきれなかった。


 母がやっていたようになすに切込みを入れた。


 ピーマンは半分に切りヘタと種を取り除く。


 ごぼうと人参はささがきにした。


「ごぼうはね、水に晒さない方が味が濃くなって美味しいのよ」


 普通は水にさらすと思うのだが、母はごぼうを水にさらすことなく使っていた。


 玉ねぎは角切りに、エビは背開きにして背わたを取り除く。


 玉子と冷水をよく混ぜ、ふるった小麦粉に流し入れざっくりと混ぜすぎないように混ぜ合わせた。


「香りの少ないものから揚げていくのよ。でもかき揚げは一番最後ね」


 ナス、ピーマン、ごぼうと人参、エビ、玉ねぎの順番で揚げていく。


 最初は大きかった泡が小さくなり、小気味の良い揚げ音が小さくなれば油から出してよい合図。


 夏野菜が大好きで、夏になると暑い中台所で天ぷらを楽しそうに揚げていた母の背中を思い出す。


「お母さん、楽しいの?」


「楽しいわよー。揚げ物って泡や音で『そろそろ食べ頃ですよ』って教えてくれるでしょ? その合図にちゃんと気付いて上手く揚げられた時なんて嬉しくなるじゃない?」


「よく分かんない」


 揚げ物を嫌がる人がいるのに、本当に母は楽しそうに揚げ物を揚げていた。


 鼻の奥がツーンとして涙が溢れそうになった。


 天ぷらを揚げながら、大根おろしと天つゆを用意した。


「出来たよ」


「ああ、すまない」


 テーブルに並んだ天ぷらはお世辞にも母のもののように見栄えよくは出来上がらなかったのだが、父は黙々と箸を進めている。


「美味しい?」


「ん? ああ、美味いよ」


「お母さんのようにはいかないね」


「いや、十分だ……美味い」


 ナスの天ぷらを一口頬張ると、大きな口を開けて実に嬉しそうに天ぷらを食べていた母の姿が浮かんできた。


 目頭が熱くなり、それまで堪えていた涙が堰を切ったように溢れてきた。


「お母さん、最後苦しかったかな?」


「あんなに綺麗な顔をしてたんだ……きっと苦しまなかったさ」


 昼寝をしている間に心臓発作を起こしたらしい母は、父が帰宅した時には既に冷たくなっていた。


 ソファーでまるで今にも起きてきそうな顔をして横たわっていたのだという。


 母の最後の姿と対面した時、呼びかければ目を覚ますのではないかと錯覚するほど穏やかな顔をしていた。


「母さんにもお前の天ぷら食べてもらわないとな」


 赤い目をした父が食器棚からお母さんのお気に入りだった皿を手に戻ってきて、大皿に雑に盛られた天ぷらを一種類ずつ皿へと取り分けている。


「お前が作ったんだ、母さんもきっと喜ぶな」


「こんなに不細工な天ぷら、喜んでくれるかな?」


「母さんなら『美味しい、美味しい』って大口開けて食べてたさ」


「そっか……そっかぁ……」


 流れる涙を拭いもせず、玉ねぎのかき揚げを口にする。


「ねぇ? 玉ねぎって普通細く切ってない?」


「お母さんはこっちの方が好きなの。シャクッとしてて食感がいいじゃない? 食べた! って気になるでしょ? 甘みも強い気がするし」


 時々変なこだわりを見せていた母の優しい笑顔が、まるでまだそこにいるかのように鮮明に浮かんでくる。


「うっ……ふっ……」


 父は私の頭をポンポンと軽く撫で、母のいる和室へと消えていった。


 母と過した二十年という月日は長いようであっという間で、まだ何一つとして親孝行さえ出来ていない。


「エビはしっぽが美味しいのよ!」


 しっぽまで綺麗に食べていた母を真似てエビを口に放り込んだ。


「固い……固いよ、お母さん……」


 返ってくる返事はない。


 私はこれから、母のいない時間を生きていく、父と二人で。

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