8時15分の儀式

藍沢 理

8時15分の儀式

 僕は都内の広告代理店に勤める、ごく普通のサラリーマンだ。特筆すべき特徴もなく、これといった趣味もない。毎日、同じ時間に同じ電車で出勤し、決まった時間に帰宅する。そんな日々の繰り返し。特に変わったことなど起きるはずもない……そう思っていた。


 あの日は、いつもと変わらない月曜日の朝だった。4月の爽やかな風が街路樹の若葉を揺らし、新年度の始まりを感じさせる季節。


 目覚ましのアラームで目を覚ます。もろもろ済ませて、7時50分に自宅を出る。


 マンションのエレベーターで1階に降り、いつもの道を駅へと向かう。途中、いつもの角で近所の猫と目が合う。黒白のぶち猫は、毎朝同じ場所でこちらを見つめている。


「おはよう」


 思わず声をかけてしまう。猫は無表情のまま、琥珀色の瞳でじっとこちらを見つめ返すだけだ。


 駅に着くと、いつもの光景が広がっていた。スーツ姿の会社員、制服に身を包んだ学生たち。皆、スマートフォンを片手に、無言で電車を待っている。朝の静けさを、時折聞こえる電車の通過音だけが破る。


 定刻通り、7時59分に電車が到着した。ドアが開くと、乗客たちが一斉に乗り込んでいく。僕もその流れに乗って、車内に入った。


 座席に腰掛け、ふと周囲を見渡す。そのとき、違和感を覚えた。


(おかしいな……)


 車内の雰囲気が、どこかいつもと違う。乗客たちの表情が、妙に硬い。皆、前を向いたまま、動かない。


 スマートフォンを操作する人も、本を読む人も、居眠りをする人も誰一人としていない。ただ、虚ろな目で前を見つめているだけだ。その光景は、時が凍り付いた絵画そのものだった。


 違和感は徐々に不安へと変わっていった。心臓の鼓動が少し早くなる。額に薄く汗がにじむ。背筋に冷たいものが走る。


(何かおかしい。でも、何が?)


 その時、隣に座っていた女性が僕に向き直った。


「あの、すみません」


 突然の声に、僕は少し驚いた。声の主は、20代後半くらいの女性。艶やかな黒髪を一本のゴムで後ろでまとめ、ぴったりとしたシルエットの黒のスーツに身を包んでいる。清楚な印象だが、目元に疲れの色が見える。


「は、はい?」

「……今、何時ですか?」


 女性の声は、どこか虚ろだった。目は僕を見ているようで、どこか遠くを見ているようでもある。瞳に光がないのだ。違和感を覚えながらも、僕は腕時計を確認する。


「えっと、8時15分です」


 その瞬間だった。


 車内の空気が一変した。全ての乗客が一斉に立ち上がり、動き始めた。スマートフォンを取り出す人、本を広げる人、居眠りを始める人。まるで、沈黙の呪縛から解き放たれたかのように、皆が一斉に動き出したのだ。


 僕の隣にいた女性も立ち上がり、にっこりと笑顔を見せる。先ほどまでの虚ろな表情が嘘のように、生気に満ちた顔になっていた。


「ありがとうございます。助かりました」


 女性はそう言うと、ほかの乗客たちと同じように、普通に振る舞い始めた。彼女は鞄から本を取り出し、読み始める。その仕草があまりにも自然で、先ほどまでの異様な雰囲気が幻だったのではないかと思えてくる。


 困惑と不安が入り混じった複雑な心境のまま、僕は会社へと足を向けた。頭の中では、先ほどの出来事が繰り返し再生されていた。電車を降りる時も、駅のホームを歩く時も、会社に到着するまでも、さっきまでの異様な雰囲気は微塵も感じられなかった。


 エレベーターで自分のフロアに向かいながら、さっきの出来事について考える。


(あれは、一体何だったんだ?)


 頭の中で様々な可能性を巡らせる。睡眠不足による幻覚? それとも、単なる気のせい? しかし、あまりにもリアルな体験だった。幻覚にしては鮮明すぎる。


 仕事中も、あの奇妙な出来事が頭から離れなかった。企画書を作成しながらも、つい先ほどの光景が頭をよぎる。資料をめくる指が、時折止まる。


 同僚の田中が、そんな僕の様子に気づいたようだ。


「佐藤さん、大丈夫っすか? なんか元気ないみたいだけど」


 田中は心配そうな顔で僕を見ている。彼に話そうかとも思った。しかし、あまりにも非現実的な話だ。誰も信じてくれないだろう。


「ああ、大丈夫だよ。ちょっと寝不足でね」


 そう言って笑顔を作る。田中は納得したように頷き、自分の席に戻っていった。


 結局、その日は何事もなく終わった。帰りの電車では、朝のような異様な雰囲気はなかった。車内には、疲れた表情で帰宅する会社員たちの姿。スマートフォンを操作する人、本を読む人、居眠りをする人。いつもと変わらない光景が広がっていた。


(気のせいだったのかな……)


 そう自分に言い聞かせながら、僕は家路についた。しかし、明日の朝への不安は、僕の心に忍び寄る影のように、消えることはなかった。


 翌日。


 また同じ電車に乗り込む。車内に入る前、少し躊躇する。しかし、仕事に遅刻するわけにはいかない。深呼吸をして、車内に足を踏み入れた。


 空いている席に座ると、昨日と全く同じ光景が広がる。動かない乗客たち。虚ろな目で前を見つめる人々。そして、昨日と同じ女性が隣に座り、僕に話しかけてきた。


「あの、すみません。今、何時ですか?」


 僕は慌てて答えた。声が少し震えている。


「8時15分です」


 そう言った途端、昨日と全く同じように、乗客たちが一斉に動き出した。魔法の呪文を唱えたかのように、世界に色が戻る。


 それ以来、僕はこの不思議な朝の儀式の一部となった。毎朝8時15分、僕が時間を告げると、電車は動き出す。


 最初のうちは、この状況に戸惑いを感じていた。毎朝、電車に乗る前に胃が締め付けられるような感覚。心臓が早鐘を打つ。しかし、日が経つにつれ、次第に慣れていった。


 2週間が過ぎた頃には、この奇妙な儀式が日課の一部になっていた。怖いわけではない。ただ、少し不安だ。そして、好奇心も芽生えていた。


(もし、僕が寝坊して、この電車に乗り遅れたら……電車は、ずっと動かないままなのだろうか?)


 そんな疑問が、常に頭の片隅にあった。しかし、その疑問を確かめるほどの勇気はない。もし、自分の行動で何か取り返しのつかないことが起きてしまったら。そう思うと、ぞっとする。


 しかし、それ以上に気になっていたのは、隣に座る女性のことだった。毎日同じ質問をする彼女は一体何者なのか。なぜ、毎日同じことを繰り返しているのか。彼女にとって、この儀式はどんな意味を持つのだろうか。


 ある日、思い切って彼女に話しかけてみることにした。8時15分の儀式が終わった直後、彼女が本を取り出そうとしたその瞬間を狙って声をかけた。


「あの、毎日すみません。僕、佐藤と言います」


 しかし、彼女の反応は予想外だった。


「え? なんのことですか?」


 彼女は困惑したような表情を浮かべた。初めて会った人に話しかけられた時のような、そんな反応だ。


「いえ、毎朝時間を……」


 僕が言葉を続けようとしたその時、電車が急停車した。


 ガタン! という大きな音とともに、乗客たちが前のめりになる。僕も体勢を崩し、隣の女性に頭をぶつけそうになった。


 そして、車内が真っ暗になった。


 パニックが起きるかと思いきや、不思議なことに車内は静まり返っていた。誰も声を上げない。子供の泣き声さえしない。暗闇の中で、時間が止まったかのような静寂が支配していた。


 数秒後、車内灯が再びついた。しかし、光景は一変していた。


 乗客たちの姿が消えていたのだ。


 僕の隣にいたはずの女性も、姿を消していた。車内には僕一人だけが取り残されていた。


 恐怖で体が硬直する。冷や汗が背中を伝う。心臓の鼓動が耳元で鳴り響く。喉がカラカラに乾く。


(どうなっているんだ……これは夢か?)


 パニックになりそうな気持ちを必死に抑えながら、僕は立ち上がった。足が震える。よろめきながら、ドアに向かって歩き出す。しかし、ドアは開かない。ドアコックを操作しても、岩のように固く閉ざされたまま。


 窓の外は、真っ暗な闇が広がっている。駅のホームどころか、外の景色さえ見えない。この電車は、現実世界から切り離された異次元の空間に迷い込んでしまったかのようだ。


 その時、車内アナウンスが流れ始めた。


『お客様にお知らせいたします。現在、車両に異常が発生しております。復旧作業を行いますので、しばらくお待ちください』


 普段と変わらぬ独特なトーンのアナウンス。しかし、その内容が現状と著しくかけ離れていることに、僕は戦慄を覚えた。冷たい恐怖が背筋を這い上がる。


(誰に向けてのアナウンスなんだ? ここには僕しかいないのに)


 そう思った瞬間、背後から声が聞こえた。


「あの、すみません」


 ゾクッとする感覚とともに、ゆっくりと振り返る。そこには先ほどまで隣に座っていたはずの女性が立っていた。しかし、その姿は少し違っていた。輪郭がぼやけている。霧の中に浮かぶ幽霊のような、そんな不思議な存在感だった。


「今、何時ですか?」


 彼女の声は、どこか遠くから聞こえてくるよう。僕は震える手で腕時計を見る。針が8時15分を指している。しかし、時間が凍結したように秒針が動いていない。


「8時……15分です」


 その瞬間、目の前の光景が変わった。


 乗客たちが元の位置に戻っている。車窓の外には、いつもの街並みが広がっていた。先ほどまでの出来事は、悪夢のように消え去っていた。


 隣には、例の女性が座っていた。彼女は何事もなかったかのように本を読んでいる。


 僕は混乱したまま、会社に向かった。しかし、この日を境に、僕の「普通の日常」は完全に崩れ去ってしまった。


 その日以来、僕は毎朝、緊張感を持って電車に乗るようになった。8時15分の儀式は、僕にとって単なる日課ではなく、この現実世界を維持するための重要な役割となった。


 時には、あの暗闇の世界に迷い込むこともある。そのたびに、僕は恐怖と戦いながら、8時15分を告げる。すると必ず、元の世界に戻ってくる。それが、僕の新しい日常となった。


 怖いわけではない。ただ、少し不安だ。そして、好奇心も募る一方だった。


(もし、僕がこの電車に乗らなくなったら……この世界はどうなってしまうのだろう?)


 そんな疑問を抱きながらも、僕は今日も電車に乗り、8時15分を告げる。それが、この世界の「正常」を保つための、僕の小さな、しかし重要な役割なのだから。


 ある日、僕は再び隣に座る女性に再び話しかけてみることにした。8時15分の儀式が終わった直後、彼女がいつものように本を取り出そうとしたその瞬間を狙って声をかけた。


「すみません、毎日お世話になっています。僕、佐藤と申します」


 彼女は少し驚いたような表情を浮かべたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。


「あ、はい。私は藤井と申します。毎日お世話になっています」


 彼女の反応は、前回とは打って変わって自然だった。まるで友人同士の会話のようだ。


「あの、毎朝時間を聞いてくださいますよね。あれは……」


 僕が恐る恐る切り出すと、彼女は少し困惑したような表情を浮かべた。


「え? 時間ですか? ああ、そういえば今朝、時計を忘れてしまって……。申し訳ありません、ご迷惑をおかけしました」


 彼女の言葉に、僕は戸惑いを隠せなかった。毎日繰り返されている儀式のことを全く覚えていない反応だった。


「いえ、そうではなくて……毎日、同じ時間に……」


 僕が言葉を続けようとした時、突然、車内が揺れた。ガタンという大きな音とともに、電車が急停車したのだ。


 そして、再び車内が真っ暗になった。


(また、あの世界か……)


 僕は恐怖に震えながらも、準備をする。しかし、今回は様子が違った。


 数秒後、車内灯がついた。しかし、乗客たちの姿は消えていない。みな、普通に座ったままだった。ただし、全員が僕の方を向いている。


 そして、全員が同時に口を開いた。


「今、何時ですか?」


 その光景は、あまりにも異様で、僕は言葉を失った。隣の藤井さんも、僕を見つめながら同じ質問を繰り返している。


 震える手で腕時計を確認する。


「は、8時……15分です」


 その瞬間、世界が歪んだ。


 車内の風景が渦を巻くように変形し始めた。乗客たちの姿が溶けていく。僕は恐怖で叫び声を上げようとしたが、声が出ない。


 気がつくと、僕は見知らぬ場所に立っていた。


 そこは、巨大な時計塔の内部。無数の歯車が複雑に絡み合いながら回転している。その中心に、一つの大きな時計盤があった。


 時計の針は8時15分で止まっていた。


「よく来てくれました、佐藤さん」


 背後から聞こえた声に振り返ると、そこには見知らぬ老人が立っていた。白髪と白髭を蓄えた、穏やかな表情の老人だ。


「あなたは……誰ですか?」


「私は、この世界――新宿区の時の管理人です。そして、あなたは私の後継者として選ばれました」


 老人の言葉に、僕は困惑した。


「後継者? 僕が? でも、なぜ僕なんですか?」


「それは、あなたが毎日、正確に時間を告げてくれたからです。この世界の時間は、誰かが正確に認識し、宣言することで流れ続けるのです。そして、その役目を担える人間を、私は長い間探していました」


 老人の説明を聞きながら、僕はこれまでの出来事を思い返していた。毎朝の奇妙な儀式、突然の暗闇、そして今日の異変。全てが8時15分で繋がっていく。


「では、あの電車の中の出来事も……」


「そうです。全て、あなたを試すための仕掛けでした。そして、あなたは見事にその試練を乗り越えたのです」


 老人は微笑みながら、僕に近づいてきた。


「さあ、佐藤さん。この世界の時間を守る重要な役目を、あなたに託したいと思います。受け入れてもらえますか?」


 僕は戸惑いながらも、ゆっくりと頷いた。これが自分の運命なのだと、どこかで感じていた。


「はい、お引き受けします」


 その瞬間、大きな時計の針が動き出した。カチカチという音が、塔内に響き渡る。


 老人は満足そうに微笑んだ。


「ありがとう、佐藤さん。これからは、あなたがこの世界――特に新宿の時間を守っていってください。そして、いつかあなたも、次の後継者を見つけることになるでしょう」


 老人の姿が徐々に透明になっていく。そして完全に消える直前、最後の言葉を残した。


「新しい時の番人よ。あなたの仕事を始めてください。敵は多いですからね」

「え、敵ですか? なんですそれ、聞いてないんですけど……」


 老人はニヤリと笑みを浮かべ、あとは任せたと言わんばかりの顔で消え去った。


 気がつくと、僕は再び電車の中にいた。周りの乗客たちは、いつも通りの朝の風景を作っている。しかし、僕の中で何かが変わっていた。


 腕時計を見る。8時16分。時間が動き出していた。


 これからは、僕が時を守る番人となる。怖くはない。ただ、少し不安だ。絶対に寝坊できない。でも、それ以上に、新しい使命がとても不安で鼓動が高鳴る。


 ――敵の存在。


 新宿の時間を乱す存在がいるとみていいだろう。


 つまり、あの老人に厄介ごとを押しつけられたのだ。


「はぁ……」


 僕のため息は、電車の走る音にかき消された。




=了=

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

8時15分の儀式 藍沢 理 @AizawaRe

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ