何かいいことあった?
漫才に情熱を注いでいるとはいえ、日常そのものがすぐに変わるわけではなかった。
くがっちは相変わらず工場で検査業務を行っている。
ただ一つ言えることは、入社直後より格段と仕事の手際が良くなっていることだ。
「久我さん、段替えするからこっち来てー」
「はい」
くがっちが他のオペレーターと一緒に溶接治具の段替えを行っている。
万が一治具を落としたりしたら取り返しがつかないので、ハンドリフトを使って慎重に作業をしている。
この作業自体は初めてではないものの、いつ行っても緊張が走るというものだ。
くがっちの表情もいつになく真剣だ。
段替えをちょうど終えたところで休憩のチャイムが工場に響き渡る。
くがっちがちょうど休憩スペースの椅子に腰かけた時だった。
「どうしたのさ? 最近なんかいいことあった?」
班長の佐々山から急に声をかけられた。
相変わらずノリが軽そうな雰囲気を醸し出している。
「い、いや特には」
急にくがっちも聞かれたのであたふたしている。
「もしかして、これはもしかするのか? 女か?」
「ではないです」
佐々山のあてが外れた答えに、くがっちが即答する。
「えー違うのー? どんな子か教えてもらおうかと思ったのに」
「残念ながら」
「もったいぶらないでくれよー。しゃあない、また教えてもらうとするか」
佐々山があっけらかんとした雰囲気でくがっちに接していた。
変にねちっこくないところが彼のいいところであると言える。
だからこそ、くがっちも接していくことが出来ると言ったところだろう。
佐々山と話をしていたこともあり、手に持っている飲み物が思いの外残っていることにくがっちが気付いた。
そんなこともあり、手にしている飲み物を急いでくがっちが飲み干し始めた。
中途半端に残しておくわけにもいかない。
そうしているうちに休憩終了のチャイムが鳴ってしまった。
そして帽子をかぶり直し、くがっちは落ち着いた表情で仕事に戻るのだった。
一方、悟も悟で目の前の業務に邁進していた。
心なしかいつもよりタイピングが速い気がする。
普段よりも心が軽いのだろう。
それが何故かは今の悟にはハッキリと分かる。
家に帰ったらどんなネタを考えてやろうかと今から楽しみにしている、というのが最大の理由だろう。
「三島がそんなに嬉しそうに仕事をするのは久しぶりに見た気がするな」
急に課長の藤島が後ろから声をかけてきたので、悟は驚いていた。
「そうですか?」
「何だ、何かいいことあったんだろう?」
「いや特には……」
「これはあれだな、彼女だなー!」
「ではないですね」
藤島が茶化して来たものだから、悟はそれなりの対応をしてみせた。
正直言って全くの的外れなのだが。
「元気ならそれで結構! あとはあれだな。レチノールだな」
「どうしたんですか急に?」
藤島が急に何か言い出したので、悟が戸惑っている。
本当にこの藤島という人は突然話を切り出すことが多いものだ。
「スキンケアだよ。芸能人ほどではないにしろ、俺たちは人前に出る仕事だからな。会社の営業窓口の肌がボロボロだったりでもしたら、それだけで色々心配されてしまうさ」
「は、はい!」
藤島の『芸能人』発言にちょっと驚く悟。
適当に言われたとはいえ、芸能事務所に入った悟からするとびっくりするような話だった。
「え、そんなにビックリするようなこと言ったかな?」
当の藤島本人もポカンとした顔で話をしていた。
「やっぱ若いうちは色々楽しんだ方がいいのかもなー、そんじゃ俺は帰るから、おつかれさん!」
「お疲れ様です。こちらもそろそろ帰ります」
藤島がそそくさと退社するのを見送った悟も、仕事を切り上げる準備をし始めた。
「ただいまー」
「おかえりー、さとるー」
悟がアパートに帰ると、くがっちがコンビニ弁当を買って待ってくれていた。
「たまにはこういうのもいいんだよな」
「今度はぼくが晩ご飯作ってあげよっか?」
「くがっちはもうちょい修行したほうがいいな」
ご飯を食べながら、悟とくがっちが談笑していた。
「そういえばさ、職場の人から急に『最近いいことあったのか?』って聞かれてさ」
「くがっちもそんなこと言われたのか?」
くがっちの言葉を聞いて悟が驚きの表情を浮かべている。
「さとるはどんなこと聞かれたのさ?」
「『彼女出来たのか?』だってさ……」
「ぼくも同じこと聞かれたよ!」
「偶然ってやつかな?」
「だろうな」
「運命感じちゃうね」
「気持ち悪いなあおい」
くがっちが急にキモいことを口にし出したので、悟が引いてしまっている。
何故くがっちの口からあのような言葉が自然に出てくるのかは不明だ。
「多分アレだ、それだけ俺たちが」
「充血してるってこと?」
「充実だろ! 目ん玉血走ってねーよ!」
「漫才、楽しいもんね」
「楽しいだけじゃない、もっと上を目指せそうな気がするんだ」
楽しいだけじゃない。
漫才でもっと高みを目指していきたい。
悟はそんなことを最近思うようになってきていた。
確かにデビューしたてのひよっ子なのは間違いない。
「なあ、くがっち」
「どしたの?」
「俺、漫才の賞レースに出て力を試してみたいんだ」
「ぼくもそう思ってた」
悟の思いに気付いていたかのように、くがっちも力強く返事を返す。
こうして、二人は次のステージへと歩みを進めることとなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます