8/4 練習曲ハ長調 Op.10-1
グランドピアノという楽器は、見た目はどっしりと構えていて、いかにも頑丈そうに見える。
だが、それでもやはり楽器であり、見た目よりもずっと脆く繊細な物なのだ。そして、楽器である以上避けては通れない物がある。それがメンテナンスだ。
日々の掃除、湿度管理はさることながら、ピアノにとって一番のメンテナンスと言えば調律である。
88鍵のそれぞれに張り巡らされた200本以上の弦を一本一本確認し、チューニングする。ギターなどのそれとは比べ程にならないほど煩雑で専門的な工程であり、そういった知識を持たない僕達が自力で行う事は不可能な作業だ。
「ご依頼頂きありがとうございます。調律師の曽我部と申します」
僕の目の前で品の良い老紳士といった身なりの人が頭を下げる。
白頭に口髭、仕立ての良さそうなスーツをぴしりと着こなし、片手には小さなキャリーケースを携えている。矢向さんの伝手を借りて依頼した調律師の人だ。
依頼をしたのはつい二日前なのに、こんなにも早く来て貰えるとは思ってもいなかった。
「あ、こちらこそ、どうも……岡田です」
すっと差し出された名刺を慌てて受け取る。そこには何やら難しい肩書と共に、曽我部一 スタンウェイ専門調律師と書かれている。
その身に纏う風格からも只者では無い事は僕でも分かる。
それに、あんなにも大きなピアノの整備だ。それなりの値段を請求されると思っていたが、メールで送られて来た見積書の値段は桁を一つ間違えているのでは無いかと思う程安かった。矢向さんのお陰だろうか。
「……失礼ですが、岡田薫子様のお孫様ですかな?」
「あ、はい。そうです」
まさかここで祖母の名前を聞くとは思っていなかった僕は少し驚く。だが考えてみると、祖母はそれなりに有名なピアニストだった。曾我部さんが知っていてもおかしくない。
曽我部さんは目を丸くした後、悲しそうに眉尻を下げた。
「なんと……この度はご愁傷様でした。葬儀に伺えず申し訳ありません。後程ご焼香を上げさせて頂いても?」
「はい、えっと、ありがとうございます」
一通りの挨拶が終わり、間が開く。
そしてその空隙を縫うように、僕の後ろに控えていた矢向さんがふわりと前に出て一礼する。
矢向さんは一時間程前から一緒に待っていてくれていた。
正直、僕一人だと気後れしてしまっていたと思うのでありがたい。
曽我部さんは矢向さんに向かって慇懃に頭を下げると、幾分か親しげに言葉を交わした。
「時雨様。お久しゅうございます。その後、お変わりはありませんか?」
「はい。その節はご心配をおかけしました。今回もお引き受け頂き、ありがとうございます」
「いえ、いえ。お元気ならば何よりです。お嬢様方のご用命とあれば、この老骨、何処へとも参りますよ」
「本当にいつもお世話になってます」
「こちらこそ、
「……はい」
やはり二人は旧知の間柄なのだろう。会話の中に知らない名前が混じる。朝陽、矢向さんの家族だろうか。
幾分か親しくなったとは言え、矢向さんについてはまだまだ知らないことが多い。
ただ、その名前が出た時、矢向さんの表情が少し固まったのが気になった。
曽我部さんもそれを察したのか、優しい笑みとともに矢向さんとの会話を切り上げると、こちらに目を向けた。
「早速ですが、ピアノの方を拝見させて頂いてもよろしいですか?」
「はい、よろしくお願いします」
◇
「ほう、これはまた……随分と珍しい。C型ですか」
広間に入った曽我部さんは中央に鎮座するピアノを見て目を丸くする。
そして、そのまま脚元にかがみこむと、何処からか取り出したペンライトでピアノの下腹を照らす。
そして何事かをメモした後、フットペダルの様子を見て立ち上がる。
今度は屋根を開き、突上棒を噛ませた後、弦の様子を確認し始める。
当たり前なのだろうが、手慣れている。
「えっと、珍しいんですか?このピアノ」
「いえ、物自体は一般的なモデルですが、コンサートグランドはあくまでホールで弾くための物ですからなぁ。それを家に置くとなると、並々ならぬこだわりが必要ですよ」
「そうなんですか?」
「ふむ……少し試奏させて頂いても?」
「あ、はい、大丈夫です」
曽我部さんは鍵盤蓋を開けると、丁寧に覆い布を畳む。そして、椅子に腰掛けて高さを調整した。
ゆったりとした動作で手を構えた曽我部さんは、須臾の後、全く意外な力強さで鍵盤に指を振り下ろした。
矢向さんの強音よりも更に強い、鼓膜を撃ち抜かれるようなフォルティシモ。
左手が大砲のように重い和音を撃ち込む間、右手はアルペッジョの連続で数オクターブを跨ぎ、鍵盤の上を縦横無尽に駆け巡る。
ショパン、練習曲10の1番。
長調の華やかで壮大な旋律から、しばしば滝や階段に例えられるこの曲。
だけど、曽我部さんが弾くそれはまるで雷雨のように聞こえた。激しい雨粒と雷が降り注ぐが如き弾奏。
しわがれた手が、衰えを全く感じさせない力強さと精密さで鍵盤を叩く。
壁越しに聴く矢向さんの演奏とは違う、直接体の芯を揺すぶられる程の過剰なフォルティシモ。
2分にも満たない驟雨は一瞬で過ぎ去り、落雷のような和音と共に雨音は止んだ。
「ふむ……438か9……なら440に」
何事かを確かめる曽我部さんの呟きに引き戻される。
凄まじい演奏だった。祖母や矢向さんの演奏に引けを取らないと感じる程。
まさかとは思うが、調律師と言う人達は皆これぐらい弾けるのが普通なのだろうか
「曽我部さんってもしかしてプロだったり……」
「いえいえ、まさか。こんな物はほんの手慰みですよ」
曽我部さんは僕の言葉に微笑むと、ゆっくりと部屋を見渡した。
「それよりも、お分かりになりましたかな。こんなに音を出しても濁らない。普通はこれだけのピアノをこの広さで弾くと反響で音が混ざるんですよ。相当設備が良いのでしょうなぁ」
この部屋には窓が無い。壁も学校の音楽室で見るような細かな穴が開いた物だ。入り口の扉も他の部屋に比べて二倍ほど分厚い。
換気が空調頼りだったりでかなり不便な部屋ではあるのだが、それだけ特別に作ってあるのだろう。
その時、隣に立って曽我部さんの演奏を聞いていた矢向さんが、不意にこちらに顔を寄せて来た。不意打ちの距離に僕は少しどきりとする。
「ほら、光さん。やっぱりここは凄い部屋なんです。だからもっと、大事にしてください」
「いや、まぁ、うん。大事にはしてるけど……」
「ほっほっ。随分と時雨様に気に入られてますなぁ」
そんな僕たちを見て、曽我部さんは好々爺とした笑い声を上げる。僕は矢向さんに気に入られている、のだろうか。何にせよ少し、恥ずかしい。
微かに火照った顔を誤魔化すために二人から目をそらす。
ただ、矢向さんはそんな僕を放って曽我部さんに不満げな声を投げる。
「光さん、全然ピアノを弾いてくれないんですよ。信じられません」
「それはそれは勿体無い。何とかせねばなりませんな。お任せくだされ」
曽我部さんは矢向さんの言葉に優しく頷くと、傍らのキャリーケースを開く。中には銀に輝く様々な工具が収まっていた。
「では、調律の方取り掛からせて頂きます。ピッチは如何なさいますかな?」
「ピッチ?」
「ヘルツですよ、光さん。基準音をどの高さに置くかの確認です」
聞き慣れない言葉に首を傾げた僕に、矢向さんが補足を入れてくれる。
とは言え、それだけではやっぱりよく分からない。
「音の高さみたいな……?ごめん、それで何が変わるの?」
「ヘルツが高ければ音が華やか聴こえます!国際標準は440なんですけど、最近は442が流行りみたいで、コンクール用のピアノも442で調律されてたりするんですよ!」
「へぇ……そうなんだ」
おそらくは本当に初歩的なことなのだろうけど、矢向さんは上機嫌に答えてくれる。
たった2Hzの違いでそこまで変わるのだろうかとも思うが、結局調律と言うのはそういう微妙な違いの修正だという事だろう。
矢向さんの言葉を次ぐように、曽我部さんが頷く。
「後は、他の楽器と合奏する場合も442で調律させて頂く事が多いですな。そういったご予定は?」
「いえ、今の所、特には……」
「いずれは、と言った所ですかな?見た所、薫子様は440で調律なさっていたようですが……ふむ。弦もまだ若いですから442で調律も可能ですよ。如何なさいますかな」
「ええと……」
一応の理解は得たが、それでも僕にこだわりがあるわけではない。
だから、僕は矢向さんに任せる事にした。
「矢向さんは、希望とかあったりする?」
「私は440の方が好きですが……ですが、光さんのピアノですから……」
「別に、僕のじゃないよ。それに、弾く機会は矢向さんの方が多いだろうから」
「……でしたら、440でお願いしても良いですか?きっと薫子さんもそう言われると思いますから」
「うん。わかった」
少し申し訳なさそうな顔でそう言う矢向さんに頷くと、僕は曽我部さんに向き直った。
「曽我部さん、440で調律をお願いします」
「承知致しました。……ふむ、そういう事でしたら整調の方も時雨様に合わせてもよろしいですかな?」
「整調?」
「簡単に言ってしまえば鍵盤の押し心地の調整です。細かい部分ではありますが」
「はい。では、その辺りもお任せします」
◇
その後、僕は矢向さんに付き添って曽我部さんの調律を見学させて貰っていた。
僕は、調律という作業は弦を調整するだけの物だと思っていたのだけど、それは全くの間違いだった。
曽我部さんはピアノの外板を外し、その複雑な内側までをも露にした。
僕は鍵盤の下があんな風に開くのだという事を今日、初めて知った。
弦を叩くハンマーや、ペダルと連動するダンパー。或いはアグラフと言う聞いた事の無い部品まで、その全てを曽我部さんは一つ一つ丁寧に調整して行った。
その都度、矢向さんが説明してくれた事もあって、想像以上に見ていて飽きない作業だった。
そして、数時間に及ぶ作業が終わり曾我部さんがキャリーケースを閉じる。
「ご確認お願い出来ますかな?」
「えっと……矢向さん、頼めるかな?」
今回は彼女のために調整してもらったのだから、僕よりも適任だろう。
それに、僕にはこの2人の前でピアノを弾ける度胸は無い。
「わかりました」
矢向さんは厳かに頷く。そして、ピアノ椅子に腰かけると、長く息を吸って、吐いた。
ただ、矢向さんはそのまま動こうとしない。
どうしてだろう、と考えたのも一瞬。そうだ、彼女は人前では演奏が出来ないのだ。
取り敢えず、外に出ようと僕は隣を見る。だが、先に動いたのは曾我部さんだった。
「終わりましたら、またお呼びください」
「はい、ありがとうございます」
◇
曽我部さんと共に廊下に出る。しばらくすると扉の向こうから矢向さんの演奏が聞こえて来た。
練習曲10の1番、曽我部さんが試奏したのと同じ曲目だ。
少し失礼かもしれないが、曽我部さんが手慰みと言った理由がわかった。
矢向さんの演奏は昨日よりもずっと研ぎ澄まされていた。
今まで微妙に噛み合っていなかった部分がピタリと嵌ったような。
文字通り矢向さんとピアノが一体になってしまったような、自然さがそこにはあった。
やはり初日の鬼気迫る本気の演奏では無い。だが、間違いなくその時の演奏よりもしっくりと来る演奏だった。
調律一つでここまで印象が変わるのかと驚く。
それはやはり、曽我部さんの調律の技術が卓越していると言う事なのだろうか。
「……本当に、お変わり無いようで……」
目を瞑ったまま、矢向さんの演奏に耳を澄ましていた曽我部さんが、ポツリと呟いく。
そこには懐かしさと喜び。そして何故だろうか、少しの悲しみが混ざっているように聞こえた。
僕はその様子になんとなく声をかけられずに黙っていた。
暫くの後、おもむろに瞼を開いた曽我部さんと目が合う。
数秒の沈黙。その目に見据えられた僕は、声を出せない。
「岡田様は、お弾きになられないのですか」
「……はい」
「……そうですか」
また少しの沈黙。
曽我部さんにしてみては不思議だろう。当人が弾きもしないピアノの調律を依頼されたのだから。
扉の先の矢向さんの演奏は結末へと向かい、一層の激しさを増している。
その演奏を聴く曽我部さんの深い皺の向こうの瞳に微かな感情の影が過ぎる。
そして、曾我部さんはもう一度僕を芯と見つめ直した。
僕はその視線に知らずのうちに背筋を伸ばす。
「年寄りの
「えっと、何でしょうか」
「お嬢様の……時雨様の想いを、どうか無碍にはしないで頂けますか」
そして告げられた曾我部さんの言葉には切実さがあった。
「それは……どういう」
「お嬢様がここで演奏をされる理由。そこにはきっと岡田様へ向けた何かが、必ずあります」
「それは、なんとなくわかりますけど……」
矢向さんがわざわざ僕の家で演奏をする理由。彼女は良いピアノだからとは言っていたが、勿論それだけが理由ではない筈だ。
祖母への追憶、僕自身への関心、或いはもっと別の何か。その理由は定かではないが、それぐらいは僕にも察せられていた。
「ええ。ですから、その想いが、目的が何であれ、それを無碍にはしないで頂きたいのです。……それが例え、岡田様にとって受け入れ難い物であっても」
「……」
僕にとって受け入れがたい事。それは、何なのだろう。
いや、少しの予想はつく。だが、それを受け入れられるかはまた、別の問題だ。
「どうか、時雨様の事を、よろしくお願いします」
「わかり、ました」
でも、僕にはそれを正直に伝える度胸は無く、ただ、目の前で頭を下げる曽我部さんに曖昧な言葉を返す事しか出来なかった。
そしてガチャリと音を立てて扉が開く。いつの間にか矢向さんの演奏は終わっていた。
「終わりました。……どうかされましたか?」
「ああ、いや、何でもないよ」
「ええ」
「そうですか?」
矢向さんは不思議そうに首を傾げる。
「……それで、整調の方はいかがでしたかな?」
「はい、完璧です。本当にありがとうございました」
「それならば重畳です。また不調があればご用命ください」
「はい」
調律の方は、無事終了したという事で良いのだろうか。
スマホを見る。それなりに良い時間だ。
「良ければお茶にしませんか?お代の方もお渡ししたいので」
「お構いなく。……ですが、お言葉に甘えさせて頂きます」
「でしたら、私、お菓子を買って来たので一緒にどうですか?」
「フルーツゼリーですかな?」
「はい。わかりました?」
「ええ。時雨様がお好きでしたから」
曽我部さんは懐かしむように微笑む。
矢向さんはあどけなく笑うと少し早足にリビングへと歩いていく。
僕はその背中を、一呼吸遅れて追いかけた。
白鍵のリベラ 絵暮 @molecule
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