8/3 エンターテイナー


「ちょっと遅くなっちゃったか」


 時刻は19時半、夏の只中とはいえもう日暮れだ。

 暗くなってしまった家路を急ぐ。

 バイトはいつも通りに終わったのだが、帰りの買い出しで少し時間がかかってしまった。特売だったのだ。

 晩御飯の事を考えながら歩くこと少し、ようやく自宅の影が見えてきた。

 すると、門の前に街灯に照らされてぼんやりと光る白い影が見えた。

 人影だ。まるで柳の下の幽霊のようなその姿、だけど僕はその正体に心当たりがあった。


「まさか……」


 僕は駆け足でその影に近づく。


「矢向さん!」


 予想通り、その影の正体は矢向さんだった。

 電信柱に寄りかかり、ぼうっと暮れなずむ空を見上げていた彼女の顔がこちら向き、佇まいを正す。


「おかえりなさい。光さん」

「あ、うん、ただいま」

「そろそろ帰って来られる時間かと思いまして。待ってました」


 そう言うと彼女は、いたずらが成功した子供のようにはにかんだ。

 不意打ちなその表情に僕は少しドキリとしてしまう。


「待ってたの?ずっと」

「いえ、ほんの三十分程です。あ、気にしないで下さい。私、暇つぶしのプロなので」

「何のプロ……?連絡してくれれば良かったのに、ってああそうだ、連絡先。いや、それよりも。取り敢えず、上がって!」


 物静かな住宅街とは言え、こんな時間に綺麗な女の子が一人で待ちぼうけをしている姿は、防犯的にも、或いはご近所さんからの目にも良くない。

 急な事態に大いに慌ててしまった僕は、取り敢えず彼女を家に上げることにした。


「ただいま」

「お邪魔します」


 勿論返ってくる声は無い。洗面所で交代に手を洗うと、リビングに入る。

 昼の間に蒸された空気に出迎えられ、僕はひとまず先にクーラーを付ける。

 僕は台所に買い物鞄を置くと、リビングの矢向さんに声を掛けた。


「どうしたの?って聞くまでもないか……ピアノ?」

「はい。毎日弾かないと鈍ってしまうので」

「あー……ちなみにそれって、矢向さんの家のピアノじゃダメなの?」


 僕は純粋な疑問を矢向さんに尋ねる。あれ程の腕前なのだ、おそらく彼女の家にも練習用のピアノはあると思うのだけど。わざわざ僕の家まで来る必要があるのだろうか。


「家のピアノは……その……」


 矢向さんの顔が俯く。そして気付く、この言い方じゃまるで彼女を邪険にしているようではないか。

 僕は慌ててフォローの言葉を重ねる。


「あ、ごめん。いや、別に僕は大丈夫なんだけど……」

「ここのピアノと比べてしまうと、もう戻れないんですよ。スタンウェイですよ?スタンウェイ。しかもC型。コンサートグランドを思いっきり弾ける環境なんて、なかなかありませんよ?」


 勢いよく顔を上げた矢向さんの言葉には鬼気迫るものがある。

 確かに、この家とあのピアノは、祖父母が持ち得る全てを使って築いた結晶とも言える物だ。ピアノを愛する矢向さんにとっては垂涎の環境なのかもしれない。


「あ、う、うん。そうなんだね」

「光さんはもっと自らの恵まれた環境を大事にするべきです!」

「それは、まぁそうかもしれないけど……」


 どうして僕は怒られているのだろうか。

 取り敢えず僕はコホンと咳払いをすると、少し真面目な顔を作って彼女の目を見る。


「僕が居る時ならいつでも弾きに来て貰って良いんだけど、今日みたいなのはちょっと危ないからさ。来る時に連絡貰えると助かるかな」

「それはその……ごめんなさい」


 それまでの勢いが収まり、矢向さんはしゅんとする。

 ピアノの事になると少し大胆になる彼女だが、聞き分けと良識はちゃんとあるみたいだ。

 おそらくこれから先は守ってくれるだろう。僕は苦笑うと、声を和らげる。


「別に怒ってないよ。あー……それで、LINE教えて貰っても良いかな?」


 別にやましい事ではないのだけど、こうやって女の子に連絡先を聞くのは少し緊張する。


「はい、是非」


 断られたらどうしようなどという僕の心配は杞憂で、矢向さんは微笑むと手提げ鞄の中からスマホを取り出した。

 かなり古い機種だ。その割には新品のように傷一つない。物持ちがいいのだろうか。


「えっと……友達登録?ですよね……どうするんでしたっけ」

「ホーム画面に行って貰って、うーん、ちょっと貸してもらっても大丈夫?」

「はい。すいません、よろしくお願いします」


 彼女の手元は覚束ない。物持ちが良いと言うよりは、あまり使っていないというのが正しいのだろう。

 僕はスマホを借りると、二台のスマホを操作して、登録を済ませる。

『やむかいしぐれ』のアカウント名に初期アイコン。

 ただ、プロフィール画像にはピアノの写真が設定されていた。

 ヤマハのアップライト。家のピアノだろうか。


「はい、出来たよ」

「ありがとうございます!」


 彼女はいそいそとスマホを受け取ると、ゆっくりと画面をタップする。

 ややあって、僕のスマホに通知音。


 ”よろしくお願いします”


 矢向さんからだ。彼女はニコニコと何かを期待するようにこちらを見ている。

 僕はトーク画面を開くと、猫のスタンプでそれに答えた。よろしくお願いします。画面の中で、デフォルメされた猫が楽しげに笑っている。


「何かあったら気軽に連絡してくれていいから」

「はい!」


 彼女は花が咲くような笑顔を浮かべると、スマホを鞄に仕舞った。


「それで、ピアノなんだけどさ、ちょっと遅い時間だから、今日は短めでお願いしたいんだけど……大丈夫?」


 彼女の力強い強音の弾き方は、分厚い防音壁を隔てていてもハッキリと聞こえて来る程だ。今日はいつもより遅い時間だ。大丈夫だとは思うが、万が一ご近所トラブルになるといけないので少し我慢して貰う必要がある。

 彼女は少し残念そうに頷くと、遠慮がちにこちらを見る。


「では、30分だけ、ダメですか?」

「それぐらいなら大丈夫だよ」

「ありがとうございます!」


 勢い良く頭を下げた矢向さんは、はたとそこで動きを止める。

 そして、何かを伺うようにゆっくりと顔を上げた。


「光さん。何かリクエスト無いですか?」

「リクエスト?」

「はい、私、何かお返しがしたくて。光さんが聴いてる曲なら、大体は弾けると思います!あ、クラシック以外でも大丈夫ですよ?楽譜はあるので!」


 そう言うと矢向さんは鞄から大きなタブレットを取り出した。今度は最新型。スマホがあの調子だっただけに少し驚きだ。

 彼女はずいぶん手慣れた操作で、画面を操作すると、こちらに見せる。どうやら楽譜のサブスクリプションサービスのようだ。


「選び放題です」


 少し得意げに胸を張る矢向さん。

 なるほど、彼女は楽譜代わりにタブレットを使っているらしい。

 最近はプロの演奏会でも見られる方法だ。楽譜はどうしても嵩張るので、書き込みや捲りやすさの面からみても、やはり電子譜面は便利らしい。

 矢向さんも一昨日のレクイエムの時は紙の譜面を使っていたが、普段使いはこっちだという事だろうか。

 アプリの譜面一覧を見せてもらうと、クラシックから最近の曲まで、確かに僕が聴くジャンルは大体網羅してそうだ。


「うーん、そうだなぁ……」


 とは言え、いきなりそんな事を言われても正直、少し困る。

 リクエストしたとて、直接聴けるわけでも無いのだから。ただ、折角の好意を無下にするのも忍びない。

 僕は少し考えると、丁度ピッタリな選曲を思いつく。


「じゃあさ、別に普段聴いてる曲じゃないんだけど……」


 ◇


 矢向さんが広間へと消えていった後、僕はキッチンへと向かう。

 晩御飯を作るのだ。まずは米を洗って早炊きにセットする。

 壁の向こうからは、いつも通りのハノンの音階が聞こえて来る。

 いつもより少しテンポが速い。44番から始まっているし、短縮版と言った所だろうか。


 微かな音に耳を傾けながら、僕はボウルに片栗粉を開けると、少量の水と一緒に混ぜ合わせる。

 さらに小麦粉を加えた後に、冷蔵庫からバイト前に準備しておいた鶏肉を取り出す。

 鍋にサラダ油を注いで、コンロで火にかける。


 壁の向こうの音階が止まる。

 暫く後に、右手だけで弾かれた特徴的な音階が響いて来る。

 本奏前の試し弾きだろう。

 いつものクラシックの演奏とは違う、ポップでリズミカルなその旋律。

 今回矢向さんにリクエストしたのは、ラグタイムと呼ばれるジャンルの曲だ。


 油の温度を見ながら、鶏肉に衣をまぶしていく。

 今日の献立は唐揚げだ。

 そして、壁の向こうからも本奏が始まった。

 印象的なフレーズと共に始まるその曲の名前はスコット・ジョプリンのジ・エンターテイナー。

 洋画のテーマ曲として使用された事で名を馳せたこの曲は、日本でもバラエティ番組やゲームなどで度々耳にする機会がある。

 BGMにしては少し贅沢かもしれないけど、僕にとって料理の曲と言えばこの曲だった。


 十分に温まった油に鶏肉を入れる。油が弾ける音が響き、鶏肉がきつね色に染まっていく。

 その間に僕は買い物袋からトマトとキュウリを取り出す。

 まな板に並べたそれを、微かな曲のリズムに合わせて輪切りにしていく


 シンコペーションと言う音楽用語がある。

 詳しい説明は省くが、音を強く出す場所、即ち強拍の場所をズラすのだ。

 そうする事によってリズムに変化が加わり、曲に躍動感が加わる。

 エンターテイナーはその代名詞とも言える曲だ。

 コミカルに踊る右手のメロディー。マーチを刻む左手の伴奏。矢向さんの力強いスタッカートは、やはりこの曲によく映える。

 揚がった唐揚げを一度取り出して、まだ揚がっていない鶏肉と入れ替える。

 壁から聴こえてくる曲は2度目のAメロを終え終盤、Cメロへと差し掛かっている。

 それと同時に、米が炊ける匂い。

 炊飯器を見るとあと5分と表示されている。

 約束の時間と同じぐらいに炊きあがるだろう。


 やはり30分という時間はあっという間だ。矢向さんも物足りないだろう。少し申し訳なくなる。

 サラダを盛り付けている間にジ・エンターテイナーの演奏が終わる。

 残り時間も少し、今日はここまでだろうか。

 だけど、矢向さんの演奏は止まらなかった。

 聴いた事の無いフレーズ。 少しテンポは速めに急ぎながら。特徴的なリズム進行とシンコペーション。この曲もラグタイムだろうか。

 僕はそこまでこのジャンルに詳しい訳では無いので、その曲名はわからない。

 ただ、スキップするかのようなそのメロディーは踊り出したくなるような子気味よさがあった。


 唐揚げを二度揚げしながら、壁向こうの演奏に耳を傾ける。

 相変わらず、上手い。強拍と弱拍のコントラストがはっきりとしているのに、音の粒はしっかりと揃っている。余計な力が入っていないのだ。

 ただ、今の矢向さんの演奏には、初日の魂を削るかのような痛々しさは無かった。

 それはホッとする事でもあったし、同時に少し、残念に思ってしまう事でもあった。

 あのレクイエムは、やはり特別だったのだろうか。

 僕は半ばで終わってしまったあの演奏の続きを、いつかまた聴かせて貰いたいような。でも、それを聴いたら全てが終わってしまうような。

 背反した思考に思いを馳せた時、軽快な電子音が鳴り響く。ご飯が炊けたようだ。

 それと同時に壁の向こうの演奏も終わる。丁度30分だ。


 ◇


 リビングの扉が開く。僕はコンロの火を止めると彼女を迎えた。


「光さん、終わりました」

「おかえり。ごめんね、せっかく来てもらったのに」

「いえ、無理を言ったのは私ですから……いい匂い。夜ご飯ですか?」

「うん、今日は唐揚げを作ったんだけど」


 その時、くぅと小さな音が鳴った。

 見ると矢向さんが少し気まずそうに、顔を赤くして目をそらす。時刻は八時を過ぎたところだ。彼女が何時に家を出てきたのかは分からないが……。


「あー……矢向さん、晩御飯って食べて来て……」

「ない、です」

「だよね、えっと。良かったら……食べていく?」


 余計なお世話かもしれないが、お腹を空かせたま帰らせるのも気が引ける。

 そんな僕の言葉に、矢向さんはパッと顔を輝かせた。


「良いんですかっ!?」

「あ、うん。そこまで大した物は出せないけど……」

「唐揚げ、好きなんです!」


 なんとなくの既視感は、昨日のフルーツゼリーの一件だろう。

 あの時は恥ずかしがっていたが、今度の矢向さんは今にもスキップしそうな勢いだ。

 余程嬉しいのだろうか。お嬢様然としていて、普段から良いものを食べていそうな矢向さんが、そこまで喜ぶのは少し意外だ。


「何かお手伝いする事はありますか?」

「えっとそれじゃあ、盛り付けを手伝って貰っても良いかな」


 ◇


「スワイプシー?聞いた事無いや……」

「ジョプリンの名曲です。光さんが知らなかったのは意外ですね」

「実はあんまりラグタイムは詳しくなくてさ……」

「あら。ラグタイムはピアノで弾いても楽しい曲が多くて、結構オススメですよ!」

「折角だし聴いてみるよ。また今度オススメ教えてよ」

「はい、是非!」


 夕食を食べ終えた僕は矢向さんを駅まで送っていた。

 長閑な住宅街とは言え、この時間だ。彼女を一人で帰らせる訳にもいかない。

 家から駅までは20分程だ。腹ごなしの散歩には丁度良い。


 晩御飯の唐揚げは想像以上に矢向さんに好評だった。

 と言うよりも、彼女は思っていたよりも健啖家だった。

 その細い体のどこにそんなに入るのだろうという疑問を覚えるぐらい、あっという間に彼女はぺろりと完食して、少し遠慮しながらお代わりを所望した程だ。

 明日の分も作ったつもりだったのだけど、結局全部2人で食べきってしまった。

 少し献立の予定は崩れたがまぁ、矢向さんは満足そうなので良しとしよう。


 駅前のタクシーロータリーに着く。

 人影は疎らだが、ここまでくれば滅多なことは無いだろう。

 矢向さんはこちらを向くとぺこりと頭を下げた。


「ここまでで大丈夫です。今日はご馳走様でした」

「こちらこそ。一人で食べるのも寂しいからさ、矢向さんが居て助かったよ」

「本当ですか?真に受けますよ?」

「まぁ、いつでも食べに来てよ」


 苦笑いで返した僕の言葉に矢向さんは少し考え込む素振りを見せる。

 そして、微かに微笑んだ。


「でしたら、今度はお魚が食べたいです」

「えっ?」

「ふふっ冗談です。では」


 矢向さんはいたずらっぽく笑うと、小さく手を振る。

 そのまま、彼女は夜半の煙のようにゆったりと流れて、駅の方へと吸い込まれて行った。




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