8/2  ハノン

「矢向時雨さん?知らないけど。お義母さんの知り合い?ピアノはアンタが良いなら好きにしなさい」


 母からのLINEは素っ気ない物だった。生前の祖母と唯一交流があったのが母だった。もしかすれば、矢向さんの事も知っていると思ったが、空振りに終わってしまった。

 僕はスマホをポケットにしまうと、意を決して広間の扉を開いた。

 昨日、矢向さんが帰ってから換気をしたお陰で、もう空気は澱んでいない。

 時刻は昼過ぎ。昨日と同じなら、そろそろ矢向さんが来る時間だ。


「連絡先、貰っておけば良かったな」


 昨日、彼女に何時に来るかを確認し忘れていたのだ。気付いたのはついさっき。だから僕は少し勿体無いが、先に広間の冷房を付けておくことにした。

 リモコンを操作すると、天井のクーラーが低い唸り声を上げ、埃っぽい臭いと共に、生温い空気を吐き出し始めた。

 しばらくすれば十分に冷えるだろう。後は彼女が来るのを待つだけだ。

 部屋から出ようと振り返った僕の目に、変わらず部屋の真ん中で沈黙しているグランドピアノの姿が映る。

 昨日はあれ程雄弁に声を上げていた彼も、弾き手が居なければジッと黙ったままだ。


「……」


 僕はピアノに近づくと、鍵盤蓋を開く。赤い覆布を取ると、88の白黒鍵が姿を見せた。

 白鍵をそっと押し込む。記憶よりもずっと軽く沈んだそれは、想像よりもずっと大きな音でレの音を鳴らした。


「確かにちょっとズレてる……?」


 矢向さんが指摘した調律のズレ。確かに微かな違和感がある。僕ですらそう感じるのだから、彼女にはもっと酷く聴こえるのだろう。

 そのまま、他の鍵盤も押していく。途切れ途切れの単音の音階、昨日彼女が見せた超絶技巧とは天と地の差だ。


「……まぁ、少しだけ」


 僕はピアノ椅子に座る。高さの調整は必要なさそうだ。そう言えば、矢向さんは女性にしてはかなり背が高かった。

 両手を鍵盤の上に構える。掌は卵を包むように優しく、だけど指先には充分に力を巡らせて。

 左の小指と右の親指が一オクターブを置いて同じ音を押し込む。

 60の練習曲によるヴィルトゥオーゾ・ピアニスト、またの名をハノン。

 ピアノを習う人の大半が通り、そして呪縛のように縛られ続ける、一連の練習曲。昨日、矢向さんがレクイエムを弾く前に弾いていた物だ。

 かく言う僕も、ピアノに触れたのは数年ぶりの筈なのに、その譜面だけは記憶の底からすぐに浮かび上がってきた。

 音楽性を求めるべくもない単純な音型の連続ながら、それを弾きこなすためにはそれなりの修練が必要となる。

 僕は神経を集中させて指を動かす。だけど、この短く不格好な指は、思い通りになんか動いてくれやしない。

 どこからか声が聞こえて来る。


『粒がそろってない』

「うるさい」


 分かっている、幻聴だ。記憶の底の傷が再生されただけだ。

 祖母との記憶がフラッシュバックしているだけだ。


『音が軽い。ただ譜面を弾けば良いってものじゃない』

「わかってるよ」


 小指が上手く鍵盤を押せず、歯抜けた弱音が響く。

 右手に合わせようと左肩に力が入った所為で、音を外す。

 指がもつれる、鍵盤がまるで鉛のように重い。

 そうやって紡がれた音色は酷く歪で、とても聞けた物ではない。


『弾けないなら、弾けるようになるまでやりなさい。誤魔化して逃げるな』

「うるさい……うるさい……!」


 ブツブツと祖母の幻聴に反抗しながら、鍵盤を押し続ける。それは最早演奏と呼べるような物ではなかった。手の甲が痛み、二の腕が悲鳴を上げる。腱鞘炎になろうかという程その動きを繰り返しても、結局僕が紡げる旋律は、祖母にも、矢向さんにも、遠く及ばなかった。

 それでも、僕は鍵盤に向かい続けた。認めたくなかったのだ。


「あの……」

『どうして出来ない。この指が悪いのか?』

「ああ、もう!!うるさいな!!!」

「あの!!!!!」


 その時、強く肩を揺すぶられた。その衝撃に、僕は我を取り戻す。

 ハッとする。一体僕は何をしていた。いや、何分こうしていた。そもそも、今、僕を揺さぶったのは……。

 僕はゆっくりと後ろを振り返る。そこには、少しの怯えと心配を滲ませた矢向さんが立っていた。

 今日の彼女は、白のブラウスに紺のプリーツスカート。昨日よりは涼しげな格好だ。その手には畳まれた日傘が握られている。


「矢向さん……どうして」

「ごめんなさい、インターホンを押しても反応が無くて……ピアノの音が聞こえたのでご在宅かと思い、勝手に上がらせて頂きました」


 彼女は予め用意していたかのように言葉を連ねると、深く頭を下げた。


「すいません、全然気づいてませんでした」

「いえ……」


 僕も慌てて彼女に謝罪する。

 集中していたという事もあるが、防音が厚いこの部屋は、外からの音も聞こえなくなる。それで聞き逃したのだろう。

 玄関を開けたままにしていたのは不用心だったが、結果的には良かった。待ちぼうけをさせてしまったら、流石に申し訳が無い。

 壁の時計を見る、どうやら僕は数十分もこうしていたらしい。

 僕は椅子から立ち上がると、彼女に場所を譲る。


「どうぞ、使いますよね」

「え、でも岡田さんがまだ……」

「僕はもう大丈夫です、やっぱり久しぶりは良くないですね。全然上手く弾けません」


 僕は早口にそう言うと、曖昧な苦笑いを返す。冷静になると、さっきまでの自分を見られていたというのは気まずい。かなり引かれてしまっただろう。

 しかし、彼女はジッと僕を見つめると、ポツリと呟いた。


「ハノン……」

「あ、はい。ちゃんと暗譜してるのはそれぐらいしかなくて」

「難しい、ですよね。私も昔、かなり苦労しました」


 矢向さんは頷くと、僕の代わりに椅子に座り、鍵盤に向かった。

 彼女の両手が構えられる。その表情は氷の刃のように研ぎ澄まされて真剣だ。

 ピンと空気が張り詰める。僕は知らずに息を止める、そして、彼女の指が鍵盤に振り下ろされた。

 連なる規則的で特徴的な音型、ハノンだ。

 ただ、その演奏には酷く違和感あった。もっと直接的な言い方をするならば、下手だった。

 音の粒にはムラがあるし、リズムも微妙に揃っていない。昨日の彼女の演奏とは天と地の差だ。

 驚いた僕は改めて彼女を見る。わざとだろうか、いや、違う。

 よく見れば、彼女の肩は酷く強張っているし、その指先は微かに震えている。

 緊張しているのだろうか、確かにこれでは上手く弾けるはずも無い。

 暫くの後、矢向さんは、演奏を切り上げると首を振り、顔を上げた。


「やっぱりダメ、ですね」

「えっと……」

「私、人の前だと、上手く弾けないんです。それで薫子さんにすっごく怒られて、ピアニスト失格だって」

「それは……なんて事を」


 祖母の容赦の無い言葉は、矢向さんにも等しく向けられていたらしい。

 僕はそれに腹が立ったし、同時に、彼女に対して酷く申し訳ない気持ちになった。

 だけど、彼女は苦笑しながら首を振った


「いえ、そうではなくて。私、嬉しかったんです」

「嬉しかった……?」

「はい、とても」


 彼女の言葉の意味は、僕には理解できなかった。

 そんな事を言われたら怒るか落ち込むのが当然だと思うのだけど。

 しかし、矢向さんは僕の疑問には答えず、ふわりと優しく笑った。

 そして、今度は少し申し訳なさそうに僕に言う。


「ごめんなさい。暫く一人にして貰っても良いですか?」

「……わかりました。じゃあ、終わったら教えてください」

「はい」


 確かに、誰かに見られると弾けないというのなら、僕が居ると邪魔だろう。

 僕は少し名残惜しい気がしながらも、扉に向かう。

 扉を閉める前、最後に見た矢向さんは、まるで何かに祈るようにじっと両指を組んでいた。


 リビングに戻ると、隣の部屋から再びピアノの音が響き始めた。

 さっきと同じハノン、しかし、今度は微かな音でもわかる程、しっかりと粒が揃い、整然とした演奏だ。

 人の目に触れる事の無いその演奏。彼女は人知れずその魂を削り、いつか祖母のようになってしまうのだろうか。

 僕にはそれが、酷く悲しい事に思えた。


 ◇


 二時間程経ち、ピアノの音が止む。そして、リビングの扉が開き、矢向さんが姿を見せた。少し汗をかいてはいるようだが、顔色は良い。冷房が功を奏したようだ。


「終わりました」


 僕は暇つぶしのゲーム機を置くと、彼女を迎える。


「もういいんですか?」

「はい、今日は控えめにしておきます」


 矢向さんはそう言ってはにかんだ。

 控えめと言いながらもこの二時間の間、ピアノの音が止む事は殆ど無かった。

 その細い体のどこにそれ程の体力があるのだろうか。

 とりあえずお茶でも出そうと立ち上がった僕に、「そう言えば」と彼女は鞄の中から小さな紙箱を取り出した。


「これ、薫子さんが好きだったお菓子です。お供えさせて貰っても良いですか?」

「あぁ、わざわざありがとうございます」

「いえ、寧ろこんな物しか用意できなくて、申し訳ないのですが……」


 彼女は紙箱の封を開ける。中からは、涼しげな彩りのフルーツゼリーが姿を現した。

 確かに昔、見た覚えがあるお菓子だ。それなりに高級な物らしく、かなり美味しかったような記憶がある。

 矢向さんは、紙箱を仏壇の前に置くと、昨日と同じようにリンを鳴らし、手を合わせた。僕もそれに倣って手を合わせる。


「では、これは岡田さんが召し上がって下さい」


 しばらくの黙禱から顔を上げた矢向さんは、紙箱を僕の方へ差し出してくる。

 ただ、その顔はニコニコと微笑んでいるが、目線はチラチラと紙箱を見つめている。

 もしかすると。僕は彼女に一つ尋ねてみる。


「良ければ、矢向さんもご一緒にどうですか?」

「良いんですかっ!?」


 彼女はパッと顔を輝かせると、食い気味に僕の言葉に反応する。

 予想は当たったが、思っていたよりも素直な反応だ。


「あっ……すみません。私もそれ、好きで……」

 

 矢向さんもそれに気付いたのか、カッと頬を赤くすると目線を下げる。

 僕は少しその様子に笑ってしまう。

 何というか、初めて彼女の素の表情を見れたような気がしたのだ。

 ただ、矢向さんはそれに少しムッとした顔になると、恥ずかしげにこちらを睨む。


「笑わないで下さい……」

「ごめんなさい」


 僕は素直に謝ると、受け取った紙箱を持って台所に向かった。

 ゼリーを小皿に開けてスプーンを添える。

 何か気の利いた飲み物があれば良かったが、結局いつも通りの麦茶だ。


 リビングに戻り、矢向さんと向かい合わせに席に着く

 彼女はいそいそとスプーンを手に取ると、ゆっくりと味わうように少しずつゼリーを掬う。

 その所作は楚々としているが、顔は嬉しそうに綻んでいる。

 それまでのどこか掴み所のない幽玄な振る舞いとは違い、年頃の女の子のような姿だ。

 陽炎の上に立つ幽鬼のように儚い姿、ピアノに向かう鬼気迫る姿。この二日で、色々な彼女の表情を目にしたが、思えば僕は彼女の事を何も知らない。

 この奇妙な関係性がいつまで続くかは分からないが、僕は少し踏み込んでみることにした。


「そう言えば、矢向さんって大学生ですか?」

「え、あ、はい。清華女子大の一年生です」


 矢向さんは、スプーンを置くと、小さく頷いた。

 清華女子大、確かかなりのお嬢様学校だったはずだ。やはり彼女は見た目通りのお嬢様なのだろうか。

 それにしても、歳が近そうだと言う印象は間違っていなかったらしい。


「あー年下だったんですか」

「でも、一浪しているので……。えっと、岡田さんは」

「立央の二年生です。学部は経営」

「先輩、ですね」

「あーうん、そうなんだけど、でも歳は多分同じだし。いや、要するにさ……」


 僕はコホンと咳払いすると、テーブルの向こう側の目を見る。


「矢向さんも、もう少し楽に話してくれないかな。いつまでも他人行儀だと、こう、疲れるからさ」


 そう告げてから僕は、心の中でじんわりと汗をかく。

 少し踏み込み過ぎただろうか。だけど、そんな僕の心配は杞憂だったようで、彼女は僕の目を見ると、きょとんと首を傾げた。


「良いん、ですか?」

「無理にとは言わないんだけど、その、お願いしたいというか」

「えっと、では、お言葉に甘えて……」


 矢向さんはすぅと息を吸うと、一瞬目を瞑る。

 そして、彼女はニッコリと微笑んだ。


「光さん。ピアノの調律はいつ、お願い出来そうですか?」


 名前呼びだ。自分から言い出した事なのに少しドキリとする。

 彼女の言葉に余所余所しさは無くなったが、その分何だか圧が強くなったような気がする。

 いや、それよりもピアノの事だ。確かに僕が聞いても分かるズレなのだから、早く直した方が良いのだろうが。


「あーごめん、それについてなんだけどさ……」


 その後の話は案外弾んだ。

 結局ピアノの調律は矢向さんの伝手を借りる事となった。

 かなり良心的な値段で引き受けてくれるらしい。代金は、僕が払うつもりだったけれど、彼女が固辞したので、折半と言う事になった。

 矢向さんは意外にも饒舌で、他にも音楽の趣味や、互いの大学の事について話していると、いつの間にか夕暮れ時になっていた。


 ◇


 帰宅する矢向さんを送るため、玄関を開く。

 外では昼間の熱さをやり過ごした蝉が再び鳴き始めていた。

 相変わらず蒸されるような暑さだが、日が陰っている分まだマシだ。

 門の前まで出た所で、矢向さんがこちらを振り向く。


「では、また明日」


 やはり、明日も来るようだ。

 そこで僕は、重要な事を言い忘れていたことを思い出した。


「あ、ごめん、明日はバイトなんだ」

「あら……何時までですか?」

「えっと……昼番だから、18時までだね」

「わかりました」


 矢向さんは頷くと、楚々と一礼する。

 そして、ゆっくりと駅の方へと歩いて行った。

 僕はその背中を見送り、家の中に戻る。

 そう言えば結局、彼女の連絡先を聞きそびれてしまった。


「まぁいいか」


 明後日聞けばいい。

 僕はそう独り言ちると、広間の扉を開いた。







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