8/1 K.626

 矢向さんを追いかけた僕は結局、広間の扉の前で尻込みをしていた。

 割り切れない忌避感の所為でもあったし、矢向さんに何と理由を告げるべきか、上手く言葉に出来なかったからだ。

 そうやって扉の前をウロウロとするうちに扉の向こうから響いていたハノンが途切れる。


 そして、暫くの沈黙の後、それは緩やかに始まった。

 ロ短調、静かに哀切な調べと共に始まったその曲の名前を、僕は思い出せなかった。

 いや、記憶の隅に引っかかっているフレーズが、奇妙な違和感と共に表に出て来なかったのだ。

 そんなもどかしさは、数フレーズを置いて叩きつけられた旋律に粉々に打ち砕かれた。


 悲鳴が聴こえた。

 違う、これはピアノの叫びだ。叩き付けられる奏者の激情を、心を写して黒白鍵が高らかに歌声を上げている。

 それは荒削りで野蛮で、それでいて痛切な響きだった。

 生前の祖母の演奏はよく彫刻に例えられていた。ミロの女神像のように、寸分の狂いも無く完璧に、調和と均衡によって生み出される黄金律のように完全な演奏。

 対して、扉の向こうから聴こえてくる矢向さんの演奏は、原木にそのまま彫刻刀を殴り当てたような。削り、抉られ、象られた荒仏のような。不調和で猛々しい調べ。

 フォルティシモは慟哭のように痛々しく。

 ピアニシモは啜り泣くような不確かさで。

 まるで命を削り、魂を露わにするような演奏。

 そしてようやく僕はこの曲の名前を思い出す。

 モーツァルト”レクイエム”ニ短調K.626。かの天才が最後に遺した未完の名曲。

 本来は管弦楽団によって演奏されるそれを、彼女はただ一人、たった88鍵の盤上のみで奏でているのだ。

 圧倒される。これまでの人生で聞いた事のないほど純粋・・なその演奏に。

 僕は当初の目的も忘れ、ただ扉の前で立ち尽くしていた。


 入祭唱が終わり、そのまま彼女の演奏は求憐唱へと繋がる。

 主よ憐れKyrie eleison.みたまえ。

 異なる二つのメロディーが二重のフーガで唱われるそれを、左右の手でそれぞれに再現し重ね合わせている。

 その旋律の美しさとはさかしまに、響く音色に写る感情は緊迫と懇願。

 死者への安息を祈るためのその旋律はしかし、どこか彼女自身が救いと赦しを。助けを求めているように聞こえてしまう。

 だがその祈りが聞き届けられる事は無く、怒りDies iræの日は訪れる。

 充分な程のアレグロで、そして審判者の怒りをそのまま表したかのような、過分なフォルティシモで、終に裁きが下される。

 一層に増した激しさで、万雷のように叩きつけられる一音一音が、分厚い壁と扉を隔てているはずの僕の心を揺さぶる。


 だけど、その時だった。不自然な不協和音と共に、その演奏が途切れた。

 僕は我を取り戻す。そして、ここまで来た目的をようやく思い出した。

 そうだ、僕は彼女を止めに・・・来たのだ。嫌な胸騒ぎがする。その予感が当たらないようにと祈りながら、僕はノックもそこそこに広間の扉を開いた。


 ムッとした熱気が押し寄せる。埃っぽい空気、未だに微かに残る焼香のような香り。停滞し、澱んだ死の匂い。

 客間は葬儀の片付け後に見た時とそのままの姿で僕を迎え入れた。

 どうやら矢向さんは、冷房すら付けずにピアノを弾いていたらしい。


 部屋の中央に座すピアノの方を見る。ドクンと心臓が跳ねる。どうやら嫌な予感は当たってしまったようだ。

 矢向さんは、鍵盤の上に崩れ落ちるように突っ伏していた。

 糸が切れた人形のように力の入っていない身体。 長い黒髪は彼岸花のように無秩序に広がり、白骨のように細い腕はだらんと下に垂らされている。

 狭窄する視界の中、僕は努めて冷静に彼女に駆け寄る。

 

「矢向さん!大丈夫ですか!?」


 近づいて見れば、矢向さんの肩は荒く上下している。良かった、彼女の命はまだ繋がっているようだ。僕はひとまず息を着く。


「あ……すいません。岡田さん……少し、休憩を……」


 徐に身を起こした矢向さんは、途切れ途切れの言葉を発する。

 幸い意識はあるようだが、その顔は玄関先で出会った時にも増して血の気がない。このまま放っておくわけにはいかない。


「立てますか?」

「すいません、今はまだ。暫くすれば、元に戻りますから」

「ああ、もう……失礼します!」


 こんな所で休んだ所で良くなる筈もない。僕は半ば強引に彼女の腕を取ると、自らの首に回し、立ち上がらせる。

 彼女の足元はよろめいているが、介添すればどうにか歩けそうだ。

 矢向さんは、そんな僕の行動に驚いたように声を上げる。


「あ、あの……」

「我慢してください」


 何か文句を言われる前に、割り込む。

 華奢な矢向さんの体は見た目よりもずっと軽く、支えるのには苦労しなかった。

 だが、つい先程よりもずっと火照った肌の温もりや、柔らかさ。鼻腔を擽る花のような香り。そして息がかかりそうな程近くから発せられた彼女の声に、僕はそれまでとは別の意味で、心拍が上がっていた。

 だが、矢向さんはそれを気にした様子も無く、ピアノの方を不安げに見つめ、呟いた。


「楽譜を……」

「わかりましたから、ほら」


 僕は空いた方の腕で譜面台の紙束を取ると彼女に渡す。

 彼女はそれを何よりも大事そうに抱えた。

 僕はため息をつくと彼女に声を掛ける。


「支えますから、ゆっくり歩いてください」


 ◇


 どうにかリビングまで戻り、矢向さんをソファーに降ろす。

 冷房の温度を下げると、僕は再び台所から麦茶、そして今度は塩昆布を小皿に盛って戻る。


「水分と塩分、しっかり取ってください」

「ありがとうございます……」


 流石に今回は矢向さんも遠慮する事なくコップを手に取ると、一息にそれを呷る。

 こくこくと白い喉が動き、あっという間にコップの中身は空になる。

 僕はそこに追加で麦茶を注ぐ。塩昆布を小さく口に含んでいた彼女は、恐縮そうに頭を下げる。

 二杯目のコップが空になる頃には、彼女の顔色は大分元に戻っていた。

 彼女は無言のまま何かを確かめるように手を握り開いている。その脆細工のような細指から、あの鉄槌を叩きつけるような音が奏でられていたという事は、やはり信じられない。


「大事無くて良かったです。冷房の事伝えるの、忘れていました。ごめんなさい」

「いえ、謝るのはこちらの方です。本当にご迷惑をおかけしてしまい、何とお礼を申し上げれば良いか……」

「身体は大事にしてください。ピアノを弾いて死んだなんて、笑えませんから」


 本当に笑えない。ピアノに人生を、命を捧げるだなんて、それではまるで祖母と同じだ。

 僕は目の前の女の子にまで、そんな生き方をして欲しくはなかった。

 だが、矢向さんは、僕の言葉に首を振った。


「ピアノと共に死ねるなら……本望です」


 しかし彼女は自らもまた、祖母と同じ・・・・・なのだという事を、宣った。

 僕は理解した。彼女はやはり祖母の教え子なのだと、納得してしまった。


「……本気で言ってるんですか?」


 その時の僕はきっと、怒っていたのだろう。

 自分でもゾッとしてしまう程の冷たい声が、喉の奥から飛び出てしまった。


「ごめんなさい。不謹慎でしたね」


 そして、そんな僕の顔を見た矢向さんは、少し悲しそうに微笑んだ。

 僕達の間に沈黙が下りる。

 言いたい事は他にもあったはずなのに、僕はそれを口にする事が出来なかった。

 暫くの後、矢向さんが「そう言えば」と声を上げる。


「あのピアノ、最後に調律したのはいつですか?」

「調律……?分からないけど、もしかしたら一年ぐらいはしてないと思います」


 祖母が入院したのは半年前だ。それより前の事はわからないけど、祖母は年に二回は調律師を呼んでいたはずだ、と朧げな記憶を漁る。

 矢向さんは、僕の言葉にムッとした顔になる。……ピアノを放置していたと聞いた時と同じだ。もしかすると、ピアノの管理にはうるさいのかもしれない。


「でしょうね。B2とD5のズレが特に酷いので、早めに調律してください」

「はぁ、まぁ……そのうち……」


 それまでの遠慮がちな態度とは違う、有無を言わせない言葉。

 僕はそれに少し気圧される。そんな簡単に言われても、弾くつもりも無いものを調律しても仕方ないし、そもそもどこに頼めば良いのかもわからないのだが。


「あと、あの部屋、湿気が酷いです。空気も籠ってます。一日一回は風を通してください。折角良いピアノをダメにしたいんですか?」

「それは、はい、仰る通りです……」


 ただ、矢向さんが言う事は正しい。確かに、忌避感からあの部屋に殆ど触れなかった僕の落ち度もあるだろう。それは、彼女が倒れた一因でもあるのだから。

 これから先、いつか今回のような来客があった時のために管理はしておくべきだろう。

 そんな、僕のどこか遠い他人事のような考えは、彼女が続けた言葉にひっくり返された。


「それでは、明日も弾きに来ますから」

「え」

「……もしかして、ダメですか?でしたら明後日でも。空いてる日を教えてください」


 矢向さんは首を傾げる。まるでこれから毎日弾きに来るかのような、そしてそれが当然かのような口ぶりだ。

 僕は戸惑いながらも言葉を返す。


「いや、まぁ、別に明日も大丈夫ですけど……」


 大学は夏休み、バイト以外はこの家の片付けぐらいしか予定は無い。つまり、明日も僕は暇だ。

 特に断る理由も無い。流石に今日のようなトラブルは一度きりにしてほしいが。

 僕がそう答えると矢向さんは嬉しそうに微笑んだ。


「ありがとうございます」


 僕はその笑顔にまた少し見惚れてしまう。やっぱり、綺麗な人だ。


 白状してしまうと、僕が矢向さんの頼みを断らなかったのは、彼女の事を少し気になってしまっていたからだ。

 別に下心だけが理由ではない。 何のことは無い、僕はもう一度彼女のピアノを聴きたかった。あの、魂そのものを燃やし、突き動かすような演奏、それをもっと聴いてみたかった。ただそれだけの理由だった。

 そしてこの気まぐれが、これから先の僕達を大きく左右する事になるだなんて、その時は想像してすらいなかった。





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