白鍵のリベラ

絵暮

Introitus

 祖母が亡くなったという連絡を受けたのは六月の始めだった。

 変な話だが、僕は祖母の事を、死なない人だと思っていた。

 あまりにも苛烈で生命力に溢れた祖母は、祖父が亡くなった時ですら、自分はあと半世紀はピアノを弾くと言っていた。

 だから、入院をしたという話は聞いた時も、すぐに退院すると思い込んでいた。

 だけど、どんな人でも当たり前に、唐突に、死ぬ。

 そんな事を今更ながらに思い知った。

 嫌に現実感の無い思考のまま、僕は成人式以来のスーツを押し入れから引っ張り出すと、祖母の家へと向かった。


 祖母の家は郊外にあった。閑静な住宅街、その内の一軒家。

 アパートがある都内からは電車に乗って一時間程の距離。だが訪れるのは中学生以来、六年ぶりだ。

 開けっ放しになった玄関からは、見慣れない人が大勢出入りしている。葬儀業者だろう。

 自宅葬は、祖母の強い意向らしい。入院してからもずっと自宅に帰りたがっていたようだ。

 玄関をくぐると、奥の広間の扉が開いている。この家で一番大きな部屋だから、そこで葬儀を行うのだろう。

 広間の中では、隅に寄せられたグランドピアノが、まるで喪服を着た紳士のように静かに佇んでいた。


「光、すまんな」

「いや、大丈夫」


 先についていた両親が、僕に謝る。

 喪主の父の顔には疲労が滲んでいる。

 だが、そこに実親を喪ったという悲しみは無かった。

 ただ無機質に淡々と、打ち合わせや手続きを進めている。


 祖母は家族から嫌われていた。

 それは勿論、僕からも。


 ◇


 葬儀は簡素な物だった。

 弔問に訪れる人間も両の指で数えられる程度で、実質は家族葬と呼べるものだった。

 偏屈な人だったから、祖父が亡くなってからは、ずっと孤独に暮らしていたらしい。

 入院してからも、見舞いに訪れる人は殆ど居なかったようだ。

 出棺の時に一度だけ見た顔は細くやつれていて、火葬場で終に灰褐色の骨になった姿を見ても、やはり僕の中には何の感情も湧いてこなかった。

 ただ、日常の中の非日常として、一つの行事が終わったのだという認識。

 結局祖母は、どれ程有名なピアニストだったとしても、葬儀で家族にすら泣かれないような人生は、果たして幸せだったのだろうか。


 ああ、でも。あの葬儀の中で一人だけ泣いていた人が居た。

 弔問客の一人、まっさらな喪服を着た同い年ぐらいの女の子。

 老年者ばかりの弔問客の中で彼女は、場違いな程若く、そして綺麗だった。

 蒼白な顔に氷のように張り詰めた表情をしながら訪れた彼女は、棺窓の奥に眠る祖母の顔を見た途端、泣き崩れてしまった。

 焼香を上げると、そのまま逃げるように帰ってしまった彼女。

 あの子は一体、祖母の何だったのだろうか。

 そんな僕の些細な疑問は、火葬場から出ると同時に梅雨籠りの熱気に押し流された。


 ◇


 葬儀で見かけた女の子の事などすっかり忘れて二ヶ月が過ぎた。

 梅雨はとうに明け、すっかり暴力的になった八月の日差しが、カンカンと照り付けて地面を焼く。

 そして僕は、空き家となった祖母の家に引っ越していた。

 父は売り払ってしまう事も考えたようだが、税金の都合でしばらくは手元に置くことにしたらしい。

 ただ、空き家のままに置いておくのも勿体無い。そこで白羽の矢が立ったのが僕だった。

 両親には今の持ち家があるし、わざわざ賃貸を借りて一人暮らしをしている僕にとって、殆どタダで広い家に住めるというのはありがたい話だった。

 大学との距離もそう変わらないし、多少嫌な思い出がある場所とはいえ、断るという選択肢は僕にはなかった。


 キンコンとインターホンの音が響く。

 二階の書斎を整理していた僕は顔を上げる。宅配を頼んだ覚えは無いが、セールスだろうか。インターホンの子機に目を向けると、小さなモニターの先に一人の女の子が立っていた。

 見覚えがある。祖母の葬儀で見かけた彼女だ。僕は立ち上がると玄関へ向かった。


 戸を開けると、蝉の鳴き声と共に夏の熱気が襲い掛かってきた。こんな日には余程の用がない限り外に出たくない。

 つっかけを履き、前庭を歩き門前に出る。


「どちら様でしょうか」


 門前に立つ女の子に声を投げる。陽炎が揺らめくアスファルトの上に立つ彼女は、濃紺のワンピースをまるで喪服のように纏っている。そこからすらりと伸びる白い手足、そして幅広のキャペリンを被った貌は、その長い黒髪も相まって、まるで雪女のような幽鬼じみた印象を与える。

 ゆっくりと顔を上げた彼女と目が合う。深い青を湛えたその瞳には、まるで吸い込まれてしまいそうな引力がある。

 そして彼女は静かに頭を下げた。


「はじめまして。私は矢向時雨やむかい しぐれと申します。薫子さんのお葬式の方に参列させて頂いたのですが……」

「やっぱり、あの時の。ご無沙汰しております」


 やはり、葬儀の時に見たあの女の子で間違い無いようだ。


「先日はご挨拶も出来ず、申し訳ありません、えっと薫子さんの……」

「孫です。こちらこそ、先日はありがとうございました」


 少し固まっていた僕は、我を取り戻す。

 幽玄を纏う彼女の姿に少し、見蕩れてしまっていたのだ。

 ほぼ初対面の男にそう見られられるのは、彼女も居心地が悪いだろう。

 しかし、彼女はそれに気付いた様子もなくゆっくりと言葉を続けた。


「いえ、こちらこそ薫子さんには生前とてもお世話になって……あ、ええと。私は、薫子さんの……教え子です」

「教え子……」


 祖母が生前、教室を開いていたという話は聞いていない。

 極端に人付き合いが嫌いな人だったのだ。

 祖父が気を使って大きく間取りを取ったピアノ用の広間も、結局祖母以外が使う事は殆ど無かった筈だ。

 目の前の彼女を見る。彼女に嘘をつく理由があるようには思えないが、しかし。

 僕は微かな疑問を浮かべながらも、名乗りを返す。


岡田光おかだ ひかるです。それで、どう言ったご要件でしょうか」

「それは、その……」


 矢向さんが口篭る。

 やはり何か訳ありなのだろう。僕は少し警戒心を強める。

 果たして、彼女は少しの躊躇いの後に小さく口を開く。


「……ピアノを、弾かせて頂けませんか?」

「えっと……それは」


 予想外の言葉だ。少し身構えていた僕は、返答に詰まる。

 それを勘違いしたのか、矢向さんは申し訳なさそうに視線を下げた。


「申し訳ありません、突然、こんな……」


 その時、揺らりと彼女の体が陽炎のように傾いだ。

 僕は咄嗟にその肩を支える。


「大丈夫ですか!?」

「あ、す、すいません」


 彼女は慌てて身を離すと深く頭を下げる。

 薄い生地越しに感じた彼女の体温は、ゾッとする程冷たかった。

 対して、頭上からは相変わらず容赦なく真夏の陽光が降り注いでいる。

 おそらく軽い熱中症だろう、無理も無い。

 かくいう自分も少し汗が滲んで来た。兎も角、怪しい人間では無いはずだ。


「……立ち話も何ですから上がってください」

「ありがとうございます」


 僕は彼女を家に招き入れる事にした。


 ◇


 リビングに矢向さんを上げる。丁度掃除をしたばかりで助かった。

 冷房の効いた室内に入ると、矢向さんはホッと小さく息をついた。蒼白だった顔にも少し血の気が戻っているように見える。


「祖母はそこなので、良かったら挨拶していってください」


 部屋の隅を指差す。モダンなデザインの仏壇には祖母と祖父の写真が並んでいる。

 矢向さんは頷くと仏壇に歩み寄る。リンの澄んだ音が響く。僕は黙禱を捧げる彼女を置いて、台所に向かった。


「どうぞ」

「すいません。お気遣いなく……」


 テーブルに着いた彼女の前に、コップに次いだ麦茶を差し出す。

 矢向さんは恐縮しながら首を振るが、しばらくの後、遠慮がちにコップを持ち上げた。


「暑かったですよね。ここ、駅から遠いので」

「はい、日傘を忘れてしまって。助かりました」


 僕は自分のコップを呷るとテーブルの向こう側に目を落とす。

 コップの結露に濡れた矢向さんの指はまるでピアノの白鍵のように細く、長い。

 ピアノを弾く人の指だ。オクターブを超えて鍵を繋ぐための指。僕のそれとは正反対だ。

 僕は顔を上げると彼女に尋ねる。


「ピアノ、弾かれるんですよね」

「はい、その、大丈夫ですか?」

「大丈夫です。あれから触ってないので、散らかっているかもしれませんけど」


 ここまで来て特に断る理由もない。

 特にあのピアノは僕がここに越してきてからは一度も触れていないので、彼女が演奏するというのならばピアノも浮かばれるだろう。

 しかし、矢向さんは僕の発言に驚いたように目を丸めた。


「あれから、一度も、ですか?」

「はい」


 少し彼女の声音が固くなったように感じる。ピアノを放置していたことが気に障ったのだろうか。

 とは言え彼女に怒られる謂れはない。

 幼い頃、祖母に厳しすぎるレッスンを受けたあの部屋は、この歳になっても特に用がなければ近づこうとは思わない。


「わかりました。では、お借りします」

「はい、終わったらまた声をかけてください」


 矢向さんが立ち上がる。そして、鞄の中から少しくたびれた紙束を取り出すと、静かにリビングから出ていった。

 手持ち無沙汰になった僕は大きく息を吐いて天井を見る。

 まるで、亡霊が追いかけてきたかのような気分だった。

 完全に縁を切った筈なのに、思いもよらない所からその蓋が開かれようとしている。


 しばらくすると、隣の部屋から特徴的な十二音階が聞こえて来る。

 気兼ねなく弾けるようにと、防音には厚く建てられたようだが、ピアノの音はそれでも微かに響いてくる。

 意味がなく、それでいて均等、整然とした音の連なり。ハノンだ。

 所謂、本番前の準備体操。果たして彼女は何を弾くつもりなのだろうか。

 どうでもいい事の筈なのに、何故か気になる。

 矢向さんの幽鬼のような佇まいが、あのゾッとするほど冷たい体温が、まるで白骨のように細い指が、脳裏にこびり付いて思考を縛る。

 

 「ああ、もう」


 何と言い訳しようか。僕は立ち上がると、部屋を出て彼女を追いかけた。




 

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