第8話 糸子先生が取りつかれちゃった
「先生はね、人を
朝の会が始まって、あいさつをすると糸子先生がすごくうれしそうに口を開いた。
にこにこと満面の笑みで言い出したセリフの内容が表情と合わないので、私は聞き間違えたと思った。
「ああ、皆さん、化かすっていうのはだましたり、ばかにしたりということですね」
どうやら、聞き間違いではないようだ。
「化かされて絶望した人の瞳はとってもにごっていて最高ですし、信じていたのにだまされていたことに気づいた人の表情なんて胸がおどるような気分になりますね」
喜びと楽しさに満ちた魅力的な笑顔だったが、私はその表情の下のどす黒い影を感じてしまう。
「あの……先生がそんなこと言ったらだめなんじゃないんですか?」
すかさず、学級委員の
「ううん、そんなことはないですよ。化かすというのは、だます、いじめるということにもつながります。普段皆さんはいじめというのがとてもひどい行為だと言われているはずですよね」
気持ち悪い笑みを絶やさないまま糸子先生は続ける。
「でも、いじめることは楽しいことなんです。これは間違っちゃいけません。大人のお酒やたばこのように楽しんでしまうことなんです。だから、それをわかったうえで注意しないといけないんです」
何だか変な理屈のようにも聞こえたが、私には先生の意図がまだうまく理解できない。
「皆さんはどんないじめが楽しいと思いますか、想像してみてください。じゃあ、あなたはどうですか」
先生はひかりの方に右手を指した。
「えっと、弱い人をいじめるとか」
「ああ、弱い者いじめですか。それはほんとうに多くありますよね。何も抵抗することが出来ずにぶるぶる震える相手をいじめるのは快感ですよね。あなたにも聞いてみましょうか」
先生は椎奈も指名した。
「えっ、私ですか、き、気になる人をあえていじめるとか」
「素晴らしいです。気になる人を好きだからこそいじめたくなる。先生はそれも大好物です」
うっとりした表情を浮かべて糸子先生は興奮しているようだった。
「うふふ、いじめがどれほど人を誘惑するかをわかったところでどのようにそれを抑えていくかを考えないといけませんね」
喜びに包まれたまま先生は続ける。
「それでは皆さんに今の夢、希望について聞いてみたいと思います。先生もまだこのクラスを受けもって新しいから、みんながどんなことを夢見て、望んでいるのか聞かせてもらえますか」
いきなり、普通のことを言い始めた先生に単なる冗談だったのかなと安心しかけたその時、私の目に今朝見たのと同じ真っ黒に染まった糸子先生の顔と背中の波打つ髪の毛が映った。
「じゃあ、今からプリントを配るからそれに書き込んでみてくださいね」
先生が黒く波打ったのは一瞬だけだった。
先生はプリントをクラスの皆にまわしていく。私は紙を回すタイミングで隣のひかりに先生が黒く見えないかそっと聞いてみた。
しかし、ひかりからは何言ってるのと軽く受け流された。
何も見えていないようだ。
けれども、委員長の椎奈は眼鏡をはずして目をごしごしとこすって先生の方を注意深く見つめている。
どうやら椎奈にも何か見えたようだった。
私のところに配られてきた紙には名前とこれからの夢や希望を書く欄がある。ここに自分の夢か希望を書けということなのだろう。
私は嫌な予感がしたので、何も書かずに提出した。
糸子先生は集めた用紙を見ながら1枚の紙を取り上げる。
「ふーん、ひかりさんは先生の授業が退屈だから代わってほしいって書いていますね」
やっぱりいつものようにふざけて書く子もいると思った。
でも、今日の糸子先生は全く動揺した様子がない。
「でも、先生がやらなかったら誰がやってくれるのですか。まさかあなたがやるわけではないでしょう?」
どこかばかにしたような物言いで話されたので、ひかりの方もムキになって答える。
「もちろん先生の代わりに私が授業をやってもいいよ」
ひかりの方も児童が授業をするなんてできないことをわかって言っているのだろう。
けれどひかりの文句が発せられた瞬間、私の背中に悪寒が走った。
糸子先生の背中から形容しがたい嫌な気が吹きあがり、ひかりの体を包み込んだのだ。
今のはなんだったのかと私は困惑するが、当のひかりは何も感じていないようだ。
ただ糸子先生だけはそれを確認して笑ったような気がした。
「ふふ、それじゃ、希望通りひかりさんに今日の授業をやってもらいましょう」
あれ、先生の方はまだこの冗談を続けるのかなと私は感じたが、ひかりの方は反論しなかった。
「まったく、しょうがないわね、ダメな先生だと大変よ」
ひかりは黒板の前に出ていき、糸子先生から指導用の教科書を渡されると、糸子先生の代わりに授業を始める。
「あ、あの、先生、いいんですか?」
困惑したように質問する椎奈だったが、先生はそれが何も問題がないかのように答える。
「やりたいというのだから、やらせてあげましょう。それともあなたは先生のやり方に逆らうのですか?」
「い、いえ、そういうわけじゃ」
そう言われてしまうとだれもおかしいと声をあげなくなってしまった。
何か悪い夢の中にいる感覚だったが、糸子先生がいつもと違うことだけはわかる。
「うふふ、だんだん私の妖術に逆らえなくなる」
今、確かに糸子先生は妖術という言葉を口にした。
糸子先生がぽつりともらした妖術とはなんだろう。
その表情はまるでおいしそうなごちそうを見ているかのように楽しそうに笑っている。
私はそんないやらしい表情をする糸子先生は見たことがなかった。
まるで別人のようだ。
でも、糸子先生の背後には昨日赤い服の警備員に生えていたような黒いしっぽは見えない。
仮に糸子先生が夜尾に取りつかれているとしたら、昔から心霊的なものが見えていた私の経験から自分が見えていることは相手に気づかれない方がいい。
相手はこちらが正体を見えていないと思っているので、見えていると気付かれてしまえば危ないのだ。
私は一応自分のまぼろしのしっぽをスカートの中に入れて見えにくくして静かに授業を受け続けた。
◇
お昼休みになると私は先生にばれてはまずいと感じながらも、気になるので先生が戻ったと思われる職員室を覗いてみた。
職員室の中は目を疑うような暗い雰囲気に包まれていた。
どの先生も机で頭を抱えるか、ぶつぶつと何か呟きながらうなだれている。
まるで先生の誰かが突然事故で亡くなってしまったかのような陰気さだ。
もしかすると、朝に糸子先生が散らしていた黒い綿毛が関係しているのかもしれないと私は直感で思った。
そんな中、糸子先生が教頭先生に話しかけていた。
「教頭先生はよく私のクラスが荒れているからって、私のことを責めていましたけど、それってパワハラですし、上司はむしろサポートするべきなんじゃないんですか?」
教頭先生への文句を言い始めたその瞬間、糸子先生の瞳が黒く光った気がした。
まるで今すぐ目の前の獲物をばらばらにしてしまいそうな強烈な殺気が糸子先生から放たれたのだ。
思わず私は体を硬直させて息を止めた。
「ああ、そ、そのとおりです。も、もうしわけありませんでした。お願いです、殺さないでください」
教頭先生は床にひざまずいて、糸子先生に深々と土下座してしまった。
その様子を見た糸子先生は本当に満足そうな笑みを浮かべて、教頭先生の前にひざまずいた。
「やめてください、教頭先生、わかってくれたらいいんです。これからもご指導のほどよろしくお願いします」
あんな強烈な殺気を放っておいて、白々しいと思ったけど、糸子先生は他の先生にも因縁を付け始めた。
「先生は奥様がいらっしゃるのに、肩を揉んであげるとか言って私の体にべたべた触ったり、食事に誘おうとしてましたよね。それってセクハラですよね」
「すいません、出来心だったんです」
「先生は何かにつけて臨時職員だからって、私へ仕事の責任を押し付けてきましたよね」
「ご、ごめんなさい。正規採用された先生がうらやましかったんです」
糸子先生が指摘するたびにその先生が床にひざまずいて謝っていく。まるで先生たちの公開処刑だ。
先生たちがおびえる表情を見せ、その表情を見た糸子先生がまた最高にうれしそうな笑みを浮かべる。
「うん、良い顔ね。あなたたち人間の恐れる顔が私は本当に大好きよ」
先生の言葉の意味は分からなかったけど、なんだかとんでもなく嫌なことを言っているのだけはわかった。
先生の中から黒い波が
私はそれを見ながら体の奥から冷たい恐怖がせりあがってくるのを感じずにはいられなかった。
◇
私は走りながら下駄箱の合う正面入り口まで逃げてきた。
「どうしよう、どうしよう。糸子先生が何か悪いものに取りつかれちゃった」
泣きそうになりながら顔をあげると校舎の入口でうろうろしている着物の男の子の姿が目に入った。
「トワ君!」
私はトワ君を見つけると自然に駆け寄っていた。
「あっ、鈴葉、いや、不審者じゃないんだよ。ちゃんとお前を迎えに来るという用事があるし、耳もしっぽも妖力で見えないようにしてるし……」
「糸子先生が取りつかれちゃったの。ごめんなさい、わたしがトワ君の言うことを聞いて昨日すぐに夜尾を捕まえに行ってたら」
「えっ、いや、おい、大丈夫かよ。とりあえずここは目立つから」
トワ君は興奮して叫ぶ私を校舎の橋の非常階段のところに連れて行ってくれた。
「やっぱりこの学校にまだいたんだな」
「でも、糸子先生の背中には黒いしっぽは見当たらないの」
「
「そういえば、糸子先生の髪の毛が波打つように伸びて増えてたよ」
「だとすると間違いないな。鈴葉、その先生が何の妖怪の先祖返りかわからないか? それが分かれば対策が立てやすいんだけど」
「髪の毛の妖怪……
「でも毛女郎は自分の髪を操るぐらいしか能力がよく知られていないのよね」
「髪の毛の妖怪か。それなら俺の狐火のしっぽで燃やすことができるな」
昨日の夜、私を夜尾から助けるときにトワ君のしっぽが青い炎のしっぽになっていた。
「えっ、燃やすって、先生をやっつけちゃうの?」
「鈴葉、夜尾の化身になった人間が元に戻った例はない。取りついている夜尾ごと倒さないと」
「えっ、そんなのだめだよ。糸子先生は……私のせいで……」
トワ君の絶望的な宣告を聞いて、私はどうしたらいいのと涙が出てきた。
そのとき私の頭にひとつの記憶がよみがえる。
困ったときに私のことを助けてくれた存在のこと……。
気が付くと私はトワ君を残して隣のクラスに走っていた。
こっこやなら、
隣のクラスで紫月ちゃんを探すとクラスの一番後ろの隅の席で座っている。
クラスの中では休み時間でみんながおしゃべりしたりして騒いでいるのに紫月ちゃんはひとりで窓の外の景色を眺めていた。
「紫月ちゃん!」
「あら、鈴葉? どうしたの?」
いつものように興味なさげに私の方を振り返る。
「助けて紫月ちゃん、困ったことが起きたの!」
「もう! またうちの店を便利屋みたいに。で、何があったの?」
「先生が、先生が夜尾っていうのに取りつかれておかしくなっちゃったの!」
「は? 夜尾って、もしかして
「えっ、ムク様?」
紫月ちゃんは夜尾のことをムク様と呼んだ。もしかして何か知っているのかもしれない。
右手を唇に当てて紫月ちゃんは何か考えている様子だったけど、静かに息を吐いて私の顔を真剣に見つめてくる。
「わかった。でも私では手に負えないから、お姉様を呼んであげる。とにかく今からうちの店に来て」
「お姉様?」
お姉様というのはこっこやの店長のことだろうか。
「詳しいことはこっちでゆっくり話すから。けどこれだけは言っておくわよ。あなたたちがお姉様と直接話をすることは最悪の場合、命の危険まであるかもしれないからね……」
紫月ちゃんは命の危険という言葉を私に告げた。
その言葉の中には本当に私を心配するような声が混ざっていたので、お店に行っていいのか迷いが生まれてしまう。
けれど、このままにしていいわけがない。
私は無言でうなずくと、非常階段に残していたトワ君も連れてこっこやに向かうことにした。
学校を出ると、外は黒い雲がすっかり空に広がり、正午ごろだというのに既に暗くなり始めていた。
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