捜査編(Aパート)

 莉乃が職員室へ駆け込み、慌てた教職員が通報後、1時間もしないうちに機動捜査隊が急行し、元町女子学院は騒然となった。夜も更けた学校には、死んだ魚のような目をした教職員が集められ、今後の対応策を練っている。

 そんな中で、莉乃は保健室で待機するよう指示されていた。第一発見者である彼女には、まだ事情聴取が残っているらしい。

 担任の教師からの質問には応えなかった。友人が死んだ後に、その原因となったことに嬉々として答えられるようなキャラクターでないことを、莉乃はよく理解していた。

 教師はとりあえず、と近所のパン屋であんぱんを買ってくれていた。長引くという証左だろう。莉乃はそれを齧るかどうか迷った。

 神は細部に宿るという。いつだか夕陽が教えてくれた小説の教本にも書いてあった。細やかなリアリティこそが、文脈コンテクスト全体のクオリティを上げる。それを信用するならば、あんぱんを食べるのはおそらく今ではない。もちろん、だれが見ているわけでもないのだが、だからこそ彼女は警戒した。

 順序通り進行しているからこそ、警戒せねばならない。わたしはもう、前に進み切るしかないのだから。



 同時刻。

 午後五時半、元町女子学院校舎側、事件現場にて。

警部補キャップ、現場に入られます!」

 菊池さくら巡査の一声が事件現場に響き渡る。元気なのはいいことだが、非番突入直前の呼び出しは本当に慣れない──男は長い前髪に手ぐしを通し、シャツを正す。

 花柄の派手なドレスシャツに黒のベストを合わせた、身体の細く足の長い男であった。足元では高いヒールが地面を叩いている。

 ツーブロック気味に撫でつけた前髪が、左目にかかるほど長く、およそ警部補などという肩書には到底似合わぬ外見であった。

 規制線を乗り越えて、無惨な遺体となった被害者のそばにしゃがみこんで手を合わせ、被せられていた布をめくる。機動捜査隊からの引き継ぎを終えたさくらが、自身の名前と同じ色の手帳をめくりながら報告を始めた。

「被害者はこの学校の二年生の黒田夕陽さん、十八歳です!」

「学生さんなのね」

 男はハスキーな声で静かに呟いた。少し女っぽい喋り方だが、現場でそれを改めて指摘するものはいなかった。警視庁きっての変わり者──彼の評判はつとに有名であった。

「死因はもう割れてるの?」

廣瀬巡査部長ヒロチョウさんが三階の現場に入ってます! どうも事故のようですね!」

 何もわからないうちから勢いよく結論づけるのは、菊池さくらの欠点の一つであった。刑事は疑うのが仕事だが、素直すぎるこの部下は疑うことを知らないのではないかと勘繰るほどだ。男は──三条つばめ警部補は、そんな彼女を諭すように頭を振りながら呟いた。

「さくらちゃんさあ。いつも言っているでしょ? なんでもかんでも決めつけてちゃダメなのよ」

「はい! 勉強になります! しかし、転落事故のようにも思えましたので、報告しました!」

「大変結構ね。可能性の一つではあるかも」

 うつ伏せになっている遺体は、無残なものだった。血溜まりに沈んだ少女は見ていて気分が良いものではない。現場にはガラスのかけらと折れ曲がった無残なフレームが落ちていた。被害者がしていたものだろう、とつばめは当たりをつける。

 肩まで届く髪はどろりと血にまみれている。無残にかわったその間に、耳たぶが見えていて、ピアスホールの跡が覗いていた。さらにうなじの方を見ると、髪が分かれたその割れ目から首裏が見える。つばめはその彼女の首裏に、赤い線が入っているのに気がついた。

「ふうん? 何かしらねコレ」

 血が出ているわけではない。ミミズ腫れのようになっているそれが、首を横断している。

「索条痕かもしれませんね!」

 さくらがメモを見返しながらそう言った。確かに見た目だけなら似ていたが、つばめにはどうにも違和感が拭えない。

「首の前側に無いし、後ろだけにある索条痕って変じゃないかしら? それに、若干うっ血してるわ。何かぶつけたものかもね」

 そう言って、彼は布をもとに戻し、鑑識班へ遺体を運ぶように指示した。異常だ。少なくとも、ただの事故ではなさそうだ。

 あたりを見回すと、校舎の壁際、コンクリ打ちの床に、使われていない白いプランターが置かれていた。それにペンライトの光を当てると、土汚れの間に赤いものが飛んでいるのが分かる。遺体が移動したようなことはなさそうだ。

 窓から漏れている光を察するに、あの部屋が事件現場なのだろうとあたりをつけ、校舎へと移動し現場となる三階へ向かった。階段を上るたびにどこかノスタルジーを感じながら、図書室の引き戸に手をかける。

 音に反応したのか、つばめの姿を認めると、一人の中年鑑識員が立ち上がり近づいてきた。

「よう、三条。非番だって? ついてねえなあ」

 廣瀬はつばめの先輩にあたる。警察という組織は年功序列の縦割りであり、大なり小なり官職に左右されない先輩後輩関係が優先される。官職が上だろうと下だろうと、先輩には頭が上がらないこともある。

「そうなのよ〜。週休でもないのにのんきにご飯行ったのが悪かったのかしら。メキシコ料理屋でトルティーヤをアボカドディップでやりながらタコス待ってたのに、飛び出してきちゃったわ。タコス、食べたかったわねえさくらちゃん」

「キャップ、サルサソースよりアボカドディップのほうがお気に入りでそればっかりでしたものね!」

「さくらちゃんこそあなた、『サルサは辛いのがいいんです!』とか言ってタバスコまでかけて、わたしのとこまでかかっちゃったわよ。辛いのよねえアレ。ヒロチョウさんは食べたことある?」

 どうでもいいグルメ談義に廣瀬は呆れながら、二人を現場に招き入れた。図書室である。特に不審な点は無く、揉み合った様子もない。ただ、おそらくは被害者が広げたのであろう何かの資料と、風に揺れるカーテンの先に、夜空にポッカリと空いたような窓があった。

 ここから落ちたのだろう。

「メキシコ料理はどうでもいんだがよ。とりあえず現場を確認してくれや。被害者はここから転落したことによって頭を強く打ったのが死因じゃねえかと見てる。見たところ、窓の下に本が入ったダンボールがある。これに乗ったことで落ちやすくなったところで、下を覗き込みすぎたってところじゃねえかな」

 窓が開いている場所は棚がなく、ダンボールがひとつ積んである。たしかに、誰かが踏んづけたような跡も残っている。

下足痕ゲソも被害者のものだったのかしら?」

「ああ。そこは間違いねえ」

 つばめが窓の外を覗くと、ちょうど窓枠に隠れるようにしてなんらかの鉄のレールが敷いてあった。真ん中には、ワイヤーが通っている。

「……これ何かしら?」

 指さした先を、隙間を潜り込むようにしてさくらが見下ろした。

「懸垂幕じゃないですか? わたしも昔、空手の大会に出たときに提げてもらいました!」

「……ヒロチョウさん、被害者がここから落ちたのは間違いないのかしら?」

 廣瀬は他の鑑識員にテキパキと指示を出しながら、二人と同じように下を覗き込んだ。地面に染み付いた血の跡がここから見える。

「それはわからんが、状況からするとそれ以外にゃ考えられんぜ。他の窓は閉まってるし、着地点だって矛盾はねえ」

 つばめは唇に触れると、その場をくる、と一回りしてから、人差し指を立てた。

「でも普通、ワイヤーが垂れてるわけだから邪魔に感じるはずよね。別のとこから覗き込んだほうが良かったんじゃないのかしら」

「キャップ! 私、背が低くていつも大変に思うことがあるのですが、このように踏み台があるとつい使ってしまいます。もしかしたら、ちょうどよい踏み台に引っ張られて、ワイヤーを気にされなかったのではないでしょうか!?」

 確かにそういうこともあるかもしれないが、違和感は残る。なんなら、ワイヤーを掴んで落ちずに済む、ということもあったのではないか。となれば、事故ではなく悪意による何かが働いた可能性もあるだろう。

機動捜査隊キソウの聴取によるとですね! 今日は試験後の特別日程で生徒や教職員もほとんどいないそうです!」

 さくらによれば、元町女子学院に残っていたのは数人の職員と被害者、もうひとりの生徒だけだったらしい。職員達は被害者が転落した棟と別にある棟の職員室で会議を行っていた。監視カメラによれば、少なくとも事件前後に外部の人間の出入りはない。

「なるほどね……それで? その『もうひとりの生徒』っていうのは?」

「生徒会長の白島さんという方です! 第一発見者でもありまして……亡くなられた被害者は親友だったとか! 転落する直前までお話をされてたそうで、事情聴取もありますし体調のこともありますから、保健室に居てもらってるようですね!」

 つばめは唇を指でなぞりながら、ふうんと零した。なんでもない転落事故にしては、妙に感じる部分が多かった。つばめは『生徒会作業中』とマジック書きされた段ボールを見下ろすのをやめて、くるりとさくらと廣瀬に振り返る。

「会いに行きましょうか。……どうも引っかかるわ。第一発見者なら、何か見てるかもしれない」


 誰かの足音が響いてきたとき、莉乃は一瞬戸惑った。

 親友を失った高校生は、どのように振る舞うべきだろうか?

 人目を忍んで泣く事も考えたが、残念ながら泣きたい時に即泣けるような演技力は無い。入口の引き戸から背を向けて、佇むのが精一杯だった。

「ごめんなさいねえ。お休みかしら?」

 聞いたことのない声であった。生徒会長として、彼女はこの学校の人間の声を大体把握している。こんなハスキーな声。それに妙な口調の男は聞いたことがない。

 つまり、校外の人間が今の自分に話を聞きに来たということは、導き出される答えは一つ。

 警察だ。

 本格的な事情聴取に来たのだろう。

「起きてます」

 莉乃がカーテンを開けると、扉の外から背の高い男が覗き込んでいるのが見える。

「入ってよろしいかしら?」

 答える前に、その男はするりと保健室に入っていた。ホストとかミュージシャンと言われても驚かないような格好の男だ。少なくとも学校には見合わないような人間だった。

「……警察の方ですか?」

「あら、手間が省けちゃったわ。お休みのところごめんなさいね。白島莉乃さんってあなた? わたし、警視庁捜査一課の三条つばめです。階級は警部補。現場の責任者でしてえ。よろしくねえ?」

「すみません。できれば、誰とも話したくないんです」

 莉乃が選択したのは、口をつぐむ事だった。親友の亡骸を目の当たりにした以上、その次に来るのは絶望と悲しみだ。人の営みは順序が決まっていて、わたしはそれを大切にしている。夕陽の愛した物語のように。

「黒田夕陽さんのことは、残念だったわね。でも、第一発見者のあなたにお話聞かないとどうしようもないのよぉ。あら、これなあに?」

 つばめが指差したのは、莉乃が手を付けていなかった、サイドテーブルに放置されていたあんぱんであった。

「……あんぱんですけど」

「つぶあんなのかしら、こしあんなのかしら? わたしね、つぶあん派なの。こしあんってなんとなく食べた気しないじゃない? でも変わり種の味だと中身はこしあんの方がいいのよね。不思議よねえ」

 莉乃は一拍置いて「はあ?」と聞き返した。この男は一体何を言っているのだろう?

「あとあなた、あんぱんの上にさくらの塩漬け乗ってるのってどう思う? わたしあれがどうも苦手なの。あんこの甘さと塩漬けのしょっぱさが合ってんだか合ってないんだかわかんないじゃない?」

「あの……あなた何しに来たんですか?」

 つばめははっとしたような顔になって、はずかしそうに手首で莉乃を扇いだ。

「いやだ、わたしったら。ごめんなさいねえ、ついどうでもいいことを喋り過ぎちゃうの。亡くなった黒田夕陽さんは、あなたと友人だって聞いたものだから、どうしても話を──」

「ゆ、夕陽は──」

 莉乃はにわかに動揺しながら、目を伏せた。彼女の命を失った黒い瞳が、スーパーで並んでいたアジと重なるのをなんとかやり過ごしながら、言葉を紡ぎ出す。親友を失った架空の人間をトレースし、小説に描き出すように紡ぎ出す。

「夕陽は、高校に入ってから女どうしで気が合って──。だ、だから、亡くなったなんて、しんじられない……」

 つばめはそんな彼女の目を覗き込みながら、静かに「お察しするわ」と呟いた。

 それで終わるだろうとたかをくくっていたのは、莉乃の驕りだったかもしれない。

「でね、本当に申し訳ないんだけども、状況をよく教えてもらえないかしら。あなたが夕陽さんを発見するまで、あなたはどこに?」

「……一階上の生徒会室です。手袋を窓から落としてしまって、もしかしたら夕陽なら落とした手袋が見えるかもと思って、電話をかけたんです。そしたら、夕陽が、身を乗り出しすぎて落ちるなんて……」

「身を乗り出して……あなた、それをご覧になった?」

「……見てはないですけど、電話が切れて」

 ふうん、とつばめは指で頬を叩いた。それがなんとなしに居住まいが悪い。何を気にしているのだろう?

 莉乃の組んだ順序プロットは完璧だ。疑問を差し挟む余地はないはずなのに。

「そう。いやね、実は夕陽さんのご遺体の首裏に妙な物があったのよ」

「妙?」

「ミミズ腫れがあったのよ。夕陽さんは転落した際に頭を強く打って亡くなった。それ自体に疑問はないのよね。でもどうしてそんなものが残っているのか不思議で。ねえ会長さん、何かご存じないかしら。なんでもいいの」

 莉乃は顔を伏せながらどういったものか迷った。完全に予想外だ。

 ミミズ腫れ?

 こっちが聞きたい。あのでそんなものができる余地なんてなかったはずだ。莉乃は動揺を振りほどくように、顔は伏せたまま首を横に振った。

「わたし、何も見てません……」

「そう? でも大事なことだから、何か思い出したら教えてほしいの。ほんとになんでもいいから」

 つばめはそう言うが早いが、ふいと背中を見せて保健室の扉に手をかけた。それを見て、莉乃はどこかほっとする自分がいたことに驚いた。

「……あのごめんねえ? 会長さん、もうひとつよろしいかしら?」

「もう一人にしてもらいたいんですけど……」

「ごめんなさいねえ。本当にひとつだけだから」

 すん、と鼻を鳴らすのが莉乃にできた唯一の抵抗だった。彼女にはもう、この三条という刑事が言い出したら聞かないタイプだということがわかっていた。

「手袋を落としたって言ったわよね。あなたが生徒会室から見下ろしても見えなかった」

「……はい」

「それじゃあどうして夕陽さんに見えるって思ったの?」

「は?」

 それは質問の意図がわからない、という意味の相槌ではなかった。この男はなぜそんなことを気にするのだ。

「それは、単に夕陽なら見えるかと思って……」

「ふうん……あなた、眼鏡は掛ける?」

「いえ、視力は問題ないので……」

「夕陽さん、眼鏡をかけていたわ。現場に壊れたメガネが落ちてた。あなたより目が良くないのに、どうして見えると思ったの?」

「それは……私より一階下にいるわけだから、見えやすいかと思ったんです」

「なるほど、そういうこと? 嫌だわ私ったら。ちょっと考えすぎちゃって……ごめんなさいね。また考えをまとめるわ。ご協力どうも」

 つばめは笑顔を見せると、そのまま嵐のように保健室を出て去っていった。莉乃の心臓は脈打っていた。緊張したのはもちろんだが、それだけではないことは確かだった。彼女は傍にあったあんぱんをむんずと掴むと、それを口の中に押し込んだ。

 糖分が彼女の思考をクリアにし、同時に警鐘を鳴らした。白島莉乃の短い人生の中で、確信していることがある。答えのわかっている人間は、意図しない段階を踏むことができる。それは小説のプロットにも似ている。起こりうること、起こったことがわかるからこそ、逆算してモノが言えるのだ。

 三条つばめは、何かを確信しているのだ。

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