第4話 第四話 エピローグ

私はアヤメ。都内の大学に通いながら、はや5年と11ヶ月が過ぎた。1年の4月にサークルの先輩たちにレイプされて、その後もっと酷いことをされ続け、自分を失った事で更に深い闇に堕ちて、終わりなき絶望の淵を孤独にさまよい続けていた。私の人生は、もう終わりかと思った。死にたかった。でも、自分で死ぬ勇気もなかった。


毎晩、新大久保の路上へ行っては、知らない男性とお金をもらってセックスした。ほんとは男性が怖かった。レイプされた事を思い出すからだ。男の人顔を見ると、「ああ、この人も私とセックスしたいのね」と思い込むようになった。しょっちゅう、性欲でからだが疼いた。我慢するとよけいに、性欲とイライラが強まった。すごく苦痛だった。その苦痛を忘れる為に、怖いのを我慢して、毎晩のように路上に立った。しかし、なんとか大学を続けなきゃいけないという思いは残っていた。だから大学では、できるだけ性欲を抑えるようにしていた。なるべく、みんなから離れて、だれとも話さないようにしていた。


夏休みのがあけたとき、もしかしたら先輩に会えるかも、お薬がもらえるかもと、一縷の望みにすがってサークルに行ってみた。しかし、やはり先輩はいなかった。がっかりして、隅の方でボーッと窓の外の景色を眺めていた。そんな時に、チハル君から声をかけられた。彼は私の1年上の先輩だ。最初は、彼を無視しようとした。しかし、彼は強引に、私のプライベートゾーンへ踏み込んできた。仕方なく、彼と話した。「友達になろう」と、強引に私のLINEにつながった。断るのが、面倒だった。


彼の事はどうでも良かった。しかし彼は、「おはよう」とか「お昼どう」とか、1日に何回もLINEでメッセージを送って来た。彼も私とセックスしたいだけなのか、と思った。私が、だれかれかまわずセックスをしている事は、先輩がいなくなった今は、大学で逢う人達には知られてはいけないと思った。そんな事になれば、もはや大学へも通えなくなってしまうだろう。せめて大学を卒業する事が、私にのこされた最後の人生の目的だった。


しかし、毎日のように熱心に送られてくるメッセージをながめていると、彼の事にすこし興味が湧いた。試しに、学食で一緒にお昼を食べてみた。彼は、一生懸命になって、私と会話をしようとしていた。その態度に、彼の優しさをすこし感じた。別の日に、夕方の少しの時間、喫茶店でお茶してみた。相変わらず、一方的に私へ話しかけてきた。私はただ、聞いているだけだった。でも、彼の事があまり怖くなくなった。彼と逢うたびに、彼と話すたびに、私の心に空いた大穴が、ちょっとずつ塞がれていくような、そんな感じがした。


そしてあの日が来た。授業が終わると、いったんアパートへもどって、カバンを置いてから大久保公園へ行こうとしていた。昨晩はからだがだるくて動けず、だれともセックスしていなかったので、イライラが高まっていた。ちょうど駅へむかって歩いていたところに、彼からLINEで、「今晩は夜飯でもどう」とメッセージが来た。私はその時に、なにを思っていたのだろう。ふと足を止めて、そのメッセージを見つづけた。気がついたら、「今晩は大丈夫です」と返信していた。そのまま立ち止まってボーっといると、すぐにまた、LINEの着信音が鳴った。


「僕のアパートで家飲みしない」


私はそれを見て、ちょっと動揺したのだと思う。そうか、彼の家か。彼も私とセックスしたいのか。私は少し考えたのだと思う。彼は、やさしそうだ。彼なら、良いのかもしれない。


私は彼のアパートへ行った。彼と向かい合った。彼の買ってきた惣菜を、すこし食べたが、味はわからかった。少し前から、食事の味が感じられなくなっていた。缶ビールにも、すこしだけ口をつけた。やはり、味はしなかった。彼が買ってきた惣菜と飲み物は、おおむねなくなった。彼はスマホの時間を見たあとで、私を見た。すこしの間があった。ああ、彼はいまから、私とセックスしたいのだと思った。いや、私が彼と、セックスしたいのか。私はその時、私のアパートにいる薄汚い男と、眼の前の彼を頭にうかべて、どちらに「頼る」べきか、考えていたのかもしれない。そして、すぐに分かった。そうだ、私は眼の前の男に頼るのだ。


私は部屋の明かりを消して、服を脱いだ。きっと私は、切羽詰まって泣きそうだったのだろう。彼に頼りたかった。すると彼は、


「えっ、何}


彼の声を聞いた時、一瞬、拒絶されたのだと思った。だれとでもセックスする私。穢れた私。無価値の私。でも、私は私を助けるために、眼の前の彼にすがりたかったのだ。


「もし、したいなら、どうそ」


震える泣き声で、そう言った。彼は裸で立っている私に、やさしくバスタオルをかぶせてくれた。泣きじゃくる私を、セックスするでもなく、やさしく抱きしめて、眠らせてくれた。私はひさしぶりに、性欲とイライラと心の苦痛を忘れて、朝までぐっすりと眠ることができたようだった。


その日を堺に、私は絶望の淵から、すこしずつ這い上ってきた。


チハルさんと、彼の叔父さんのリョウさんと奥さん。そして依存症クリニック先生。私がリョウさんの家族に保護されてから5年間。リョウさんの家から大学の通い続けながら、依存症クリニックにも通いつづけた。性依存症の治療は、すごく時間がかかった。処方された新薬により、性欲によるイライラは弱まったが、新大久保の路上に戻りたいという欲求は、なかなか消えなかった。グループセラピーにも入り、ほかの性依存症の方たちと苦しみや悩みを共有する事で、気持ちが少し軽くなったような気がした。チハルさんは、毎日かならず、私に会いにやってきた。彼のそばで話しを聞いている時が、私の心の痛みがいちばん和らいだ。


チハルさんは大学を卒業して、都内の商社へ就職しても、私に会いに来てくれた。ほとんど残業のない部署だという事で、仕事が終わると、1時間くらい話す事ができた。私のために、わざわざ閑職を選んだのかと思うと、すごく申し訳なかったが、それは口にしなかった。そのかわり、彼のその気遣いに感謝する事にした。


私はリョウさんと奥さんに相談して、私の事は、実家の親には秘密にする事にした。私の両親はどちらも絵に書いたような融通の効かないカタブツ教師だ。もし私の身に起きた事を知ったら、たちまち実家へ連れ戻される事が容易に想像できたからだ。実家のある地方都市では、性依存症の治療を続ける事ができない。それに、私の心の支えになっているチハルさんやリョウさん夫妻と離れてしまったら、きっと私は実家をを抜け出して、どこかの路上に立つに違いない。私は私の事を、まだ信じる事ができないと、わかっていた。


そして、いよいよ私が大学を卒業する時が来た。リョウさんの好意にあまえてばかりだが、来月からリョウさんの会社へ就職がきまっている。卒業に5年を要したのは、毎週クリニックへ通うために、いくつかの必須単位を落としてしまったからだ。1年留年した事に、後悔はない。卒業式の翌週、私がリョウさんの家へ戻ると、しばらくしてチハルさんもやって来た。チハルさんから何か話しがあるとの事で、今日はここで、チハルさんと会う事になった。


「あら、チハル君、おひさしぶり。どう、仕事は順調なの」


チハルさんは軽く挨拶して、ソファに座った。私とリョウさんと奥さんも、それぞれの場所へ座った。チハルさんはリョウさんと奥さんに軽くうなずくと、話しはじめた。


「就職して1年、ようやく仕事にも慣れて、すこし落ち着く事ができました」


みながうなずいた。


「先週、すこしせまいけど、2LKのマンションに引っ越ししました。」


みなが次の言葉を待っていた。


「そこで、アヤメさんにお聞きしたのですが、私のマンションへ移りませんか」


えっ、ボーッと聞いていた時に、急に私の名前が出てきたので驚いた。


「アヤメさんを叔父さんの会社へ連れて行ったあの日、叔父さんはあなたと私に、私のアパートか、叔父さんのアパートか、どちらへ移るかと聞きましたね。そしてあなたは、どちらでも、と答えたと記憶してます」


「はい、そう言ったと思います」


「あの時の私は、あなたを受け入れる事ができなかった。そういう無力な自分が、とても残念でした。そこで、アヤメさんが治療のために頑張っている間に、私も自分なりに頑張りました」


私は無言でうなずいた。


「そして、ようやくいま、アヤメさんを受け入れる力を、まだ最低限のちからですが、準備ができました」


「それは、どういう、、、」


「もしアヤメさんさえよければ、来週からでも、私のアパートへ移りませんか」


ええっと、引っ越しするのか、、、


「もう1つ。こちらの方が大事なんですけど」


彼は少し間を置いたあと、ちょっと引きつった声で、


「アヤメさんと結婚を前提にお付き合いさせてください」


チハルさんはペコリと頭をさげると、顔を上げて、ちょっと引きつった緊張した表情で、私の目を見た。彼の言葉が私の心へゆっくりと染み込んできた。嬉しさが湧き出してきた。その一方で、私の暗い過去が、暗闇の淵へ私も引き込もうとしはじめた。こんな私で、良いのだろうか。心がすこし、引き裂かれそうになった。


「えっ、わたし、わたし、こんな私でも、、、」


私はリョウさんと奥さんの顔を見た。二人は、笑顔でうなずいた。千切れそうになっていた心が、二人の温かい眼差しをうけて、氷が溶けるように、ふたたびつながりはじめた。こんな私だが、チハルさんは何年者間、ずっと私の心に寄り添ってくれた。私は彼を信じたい。私は彼に頼りたい。彼の言葉を、受け入れたいと、心の底から願った瞬間だった。


私は笑顔をつくり、「はい、よろしくお願いします」と答えた。その瞬間、喜びの涙がこみ上げてきた。


向かい側にすわっていたチハルさんが、私の隣にやってきた。そして、両手で私を抱きしめてくれた。


辛く、苦しかった時の記憶が、走馬灯のように流れては、消えていった。私はひさしぶりに、大声をあげて泣きつづけた。

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蝶の翼:再生の軌跡 蒼い月 @bobby202403

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