第3話 光明

俺はリョウ。新宿近くのとある雑居ビルの中で、ちいさなIT企業を経営している、どこにでもいそうな普通の35歳の男子だ。妻も子供もいる。脱サラして起業した時には、いろんな夢をみたもんだが、結局は可もなし不可もなしの、普通の会社になって久しい。今日は病院でつかう電子カルテのシステムについて、午前中はクライアントと打ち合わせがあった。開発は順調に進んでおり、あと数ヶ月もすれば本番テストを開始する予定となっていた。ちょっと心を弾ませながら、近所の喫茶店で遅めのランチを食べて終わって、コーヒーを飲みながらまったりしていると、LINEの着信音がピコピコと鳴った。お客からの問い合わせだ。速攻で返信した後で、甥のチハルからもメッセージが届いているのに気がついた。「おっ、あいつから連絡が来るとは、めずらしいな」と思いながらメッセージ画面を開くと、とたんに眉間にシワができた。簡単な文面だが、なんかトラブルに巻き込まれた的な感じだ。今日の午後に会えないかとの事だったので、予定を確認した後で、「オフィスで待っている」と返事を返した。


チハルは、午後の3時ごろに、女の子と手を繋いでやってきた。すぐに会議室へ入ってもらい、冷蔵庫からお茶のボトルを3本つかんで、俺も会議室に入った。チハルは隣の女の子と、手をつないだまま座っていた。


「なんだ、彼女が妊娠でもしたのか」


冗談のつもりだったが、二人の顔色が変わった。


「えっ、何、マジで」


俺もちょっと焦った。こいつはちょっいとチャラい見てくれだが、根は真面目な根性なしの筈だ。簡単に女の子を孕ませるような度胸はないはずだ。チハルはちょっと口ごもった後で、


「彼女はアヤメさんと良います。同じ大学の2個下で、私の友人です。実は彼女が、ここ半年くらい、かなり良くない人たちに関わって、いろいろと不幸な目にあいました。彼女から話を聞いた限り、とても学生の僕の手に追えるとは思えないので、彼女を救えないかと、叔父さんへ相談に来ました」


と言って、そこから、彼女の身に起きた事を話しはじめた。話は1時間ほどで終えた。俺はしばらく考えた後で、


「彼女を一人でアパートへ返すのはまずい気がする。これから彼女のアパートへ行って、とりあえず必要なものを集めて、うちへ連れて行こう。ちょっと狭いが、なんとかなるだろう。次に、体に問題がないか、検査した方が良い。これから知り合いの産婦人科へ連絡するが、それで良いな」


二人はちょっと顔を見合わせた後で、こくりとうなずいた。


俺はスマホの電話帳を開いて、病院関係のクライアントの中から、産婦人科の知り合いを選んで、電話した。


「ご無沙汰しております、昨年、電子カルテの契約の時にお世話になったリョウです。私の甥の友人が、ちょっと訳ありのトラブルに巻き込まれてしまったようなんです。先生のところで診察して頂けないでしょうか。いえいえ、私が手を付けたとか、そういう事じゃないです。勘弁してください。はい、明日の午前9時半ですね。ありがとうございます。宜しくおねがいします」


二人に顔を向けると、もういちど、こくりとうなずいた。


産婦人科の住所をチハルへLINEで送った。


「では、これから俺の車で、アヤメさんのアパートへ行こうか」


俺達3人は、目的地のアパートの前に来ていた。マンションの中へ入り、彼女がドアを開けた。


「えっ?」


鍵はかかってなかった。3人で中へ入ると、ムッとする交尾臭が立ち込めていた。


「チハル、そこの窓を開けろ」


俺は明かりのスイッチを押すと、薄汚い男が、薄汚れたベッドの上に寝ていた。その男は目を覚ますと、床に落ちていたカバンを掴んで、あっという間に出ていった。


「ええと、いまの人は誰かな」


彼女は気まずそうな表情で、


「新大久保の路上で知り合った人です。お金を払って、ここに居てもらっていました」


「そ、そうなのか。でも、出ていったけど、よかったのかな」


ちょっと悲しげな表情になりながらも、


「はい、もう良いです」


と、ちょっと力を込めて言った。


部屋が明るくなったので床を見渡すと、テーブルの上とその周辺に、ゴミが散乱していた。薄汚れたベッドの下には、AVビデオに出てくるようなおもちゃが、いくつか転がっていた。


「チハル、悪いけど、ちょっと近くのコンビニを探して、一番大きなゴミ袋を多めに買ってきてくれないか」


チハルも状況を理解したのか、うなずいて、すぐに部屋を出ていった。


俺はワンルームの部屋の中、バスルーム、キッチンまわりをざっと確認した上で、目についた旅行用カバンを手に取った。


「アヤメさん、この中に、あなたの着替えの服や下着とかを入れてもらえますか」


彼女はうなずいて、衣装ダンスの引き出しを開けたまま、しばらく固まってしまった。見ると、中はからっぽに近かった。部屋の隅には、汚れた衣類が山積みになっていた。


「ああ、ごめん。洗濯はうちでしよう。とりあえずあそこから、服と下着を集めて、このカバンへ入れてくれるかな」


ようやく彼女が動き出した。すこしして、チハルが帰っていたので、テーブルと床に散乱したものを、ゴミ袋へいれた。ベッドの下にあったおもちゃ類も、ぜんぶ袋へ入れた。台所の流しの周辺のものも、ほぼすべてゴミ袋へ積めた。このままゴミ出しはできないが、もし彼女の両親がこの部屋へ来たとしても、大騒ぎになりそうなものはぜんぶゴミ袋の中にあるはずだ。


俺は家にいる妻へ電話して、「甥のチハルの友人を連れて帰る」旨、簡単に話した。詳しい事は、帰ってから話すと。とりあえず、「彼女の寝る場所を開けておいてくれ」と頼んだ。そうして、「明日の9時過ぎに産婦人科の前で集合」とチハルへ継げて、俺は彼女を車にのせて家へ向かった。


家へ着くと、ちょっと機嫌悪そうな妻が出迎えてくれた。目が、「このヒトは誰?」と睨んできた。おお、怖。


「まあ、まあ。詳しい事は飯の後で話すから、彼女にシャワーを浴びてもらっても良いかな。着替えはええっと、、、お前の古いジャージとか、貸してくれない?」


妻の目がちょっと釣り上がったような気がしたが、見なかった事にして、彼女をバスルールへ連れて行った。彼女は家の中でも無口で無表情だった。妻のジャージに着替えて、淡々と夕食を食べた。6歳になる娘は、彼女にはあまり興味がないようで、ほとんど見もしなかった。妻が寝かしつけた後で、3人で居間のソファーに座った。俺は「ゴホン」と空咳をしてから、彼女へ聞いた。


「アヤメさんを家に泊めるには、さすがに妻の理解が必要だ。その為には、あなたの事を妻にも話す必要があると思うのだけど、それで良いかな」


この状況で「ダメ」という返事は無いと思っていたが、彼女はこくりとうなずいた。


「彼女は、甥のチハル君の友人で、同じ大学の1年生の、アヤメさんだ」


私はチハルに聞いた話をかいつまんで妻へ話した。話が進むごとに、妻の顔色がどんどん悪くなった。途中から、妻は彼女のすぐ隣へ移り、目に涙をためて軽くハグした。話がおわっても、しばらくハグしたままだった。


「そういう訳で、彼女を一人でアパートへ返すのも、チハルのアパートへ泊めさせるのも如何なものかと思い、家へ連れてきた」


と話を締めくくった。


翌日の朝、「用事があるので午後から出社する」と連絡してから、車で産婦人科へ向かった。車を駐車して病院の前に着くと、入口の前にチハルが居た。


「じゃ、入るか」


私が彼女を伴って診療の受付を終えると、しばらくして彼女の名前が呼ばれた。チハルを待合室へ待たせて、俺と彼女だけで診療室へ入った。


「詳しい事はあとで話すが、、、」


と言って、ごく簡単に、彼女の事を話して、必要と思われる検査をしてほしいとお願いした。彼女が検査のために連れて行かれると、チハルを呼んでもらい、もうすこし詳しい話を先生にしてもらった。検査の結果はいますぐにはわからないという事で、3日後の夕方、3人でもういちど産婦人科を訪れた。いくつかの性病が見つかった。また、妊娠していた。14週との事だった、彼女の希望で、すぐに堕胎手術の予定を組んでもらった。聴くと、すでに過去2回、堕胎手術をしていた。彼女は無表情に話すが、チハルの顔は真っ青になっていた。また、子宮に炎症が見られたので、薬が処方された。「ちょっと待っててくれ」と先生に言われて、しばらく待っていた。もういちど呼ばれて診療室へ入ると、先生から重い内容が告げられた。


「妊娠や性病については、とりあえず解決の道筋を立てました。」


3人でうなずいた。


「しかし、アヤメさんについて、もうすこしやっかいな問題があると思われます」


なぬっ。それは、、、


「彼女の状況を見ると、おそらく、性依存症になっている可能性が高いと思われます」


そこで先生は、彼女に向き直り、


「薬の禁断症状が消えたと思われる9月以後も、男の人とセックスしたいという衝動が、繰り返し生じたという事ですね」


彼女がうなずいた。


「男の人とセックスしてから、次の衝動が強まるまでに、だいたい何日くらいありましたか」


彼女はすこし考えて、


「2日か3日くらいでしょうか」


と答えた。先生はこくりとうなずくと、


「やはり、アヤメさんは性依存症の状況にあると考えられます」


俺は、先生に質問した。


「すみません、性依存症とは、どういった状況なのでしょうか。病気の一種でしょうか。なにか有効な薬があるのでしょうか」


先生はしばらく考えた後に、


「アルコール中毒や、パチンコ中毒という言葉を聞いた事がありますか?」


3人はうなずいた。


「性依存症は、それとおおむね同じ病気です。パチンコ中毒の人が、家族の食費を注ぎ込んでまでパチンコにハマってしまうように、性依存症の人は、セックスの為になら、合理的な判断を失ってしまいます。お聞きした話から考えると、アヤメさんは薬の影響が消えたと思われる9月以後も、ご自身の健康を顧みずにセックスの相手を求めて毎晩のように路上に立っておられました。また、避妊をするという判断も失われて、今回をふくめて3回も、父親のわからない子供を妊娠しています」


先生はそこで、すこし間を開けて、話を再開した。


「依存症というのは、治療が少々やっかいなのと、ながい時間を要するようです。しかし、最近は依存症の治療を専門とするクリニックも増えてきています。知り合いに一人、これの専門医がおります。もしご希望であれば、紹介状を書く事ができます」


という事で、依存症の専門クリニックの紹介状を書いてもらった。その場で電話して今週の予約を取り、とりあえず3人で昼飯を食べてから、俺のオフィスへ移動した。俺は会議室で二人と向き合って座った。


「さて、アヤメさんに聞いておきたいのだが、大学の授業はどうする」


彼女はすこし考えて、


「可能であれば、なるべく授業は受け続けたいと思います」


「了解だ。俺は当面、あなたのアパートには戻らず、我が家に泊まってほしいと思っているんだが、まあ、チハルのアパートで同棲するという希望はあるのかな」


といって、チハルの方を向いた。チハルは「えっ」と言ってすこし驚いた。俺は、「ウソ、ウソ。冗談だよ」といってわざとらしく笑った。


彼女は、


「どちらでも構いません。ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします」


と、すこし力強く答えて、ピコンと頭を下げた。昨日からずっと無表情だったので、ちょっと良い変化かな、と感じられた。


彼女は毎朝、早起きして我が家から大学へ通い、夕方近くにうちのオフィス(我が家より大学にずっと近い)に寄って、俺と一緒に車で帰宅する生活がはじまった。翌週は、堕胎の手術があるので大学を休んだ。手術のあとは、我が家で大人しくしていた。チハルがサークルの伝をたどって、彼女のクラスメイトに必須科目の代返を頼んだようだった。堕胎手術を受けた翌週に、からだを動かせるようになったので、ふたたびチハルを入れた3人で、依存症クリニックを訪れた。


アヤメさんの名前が呼ばれて、3人で診療室へ入った。時間を多めにとってもらっていたので、アヤメさんの事について、チハルから詳しく話した。先生は途中で何度か、アヤメさんに質問を繰り返した。いまでもずっと、セックスをしたいという衝動が強くあり、1日じゅうイライラが続いていると答えた。先生は、彼女がアパートに男を連れ込み、お金をはらってまで居てもらっていた事について、彼女に細かい質問をはじめた。その理由について彼女は、最初にレイプされて以後、男性に対して恐怖を感じるようになった事。お薬による強い欲求が消えてから、激しい自己嫌悪と人間不信に陥り、自分が無価値な人間であると強く思い込むようになった事、その一方で激しい孤独感を埋めるために、やさしくしてくれた男性に対して「頼る気持ち」が強まり、その人に捨てられる事に恐怖を感じていた事、最後に知り合ったチハルに優しくされた事で、その男への執着が消えたような気がする、と答えつづけた。


先生はしばらく考えた後に、話しはじめた。


「まず最初に、依存症について簡単に説明します。我々の脳は、人が生きてゆくために必要な行為、たとえば食事とか睡眠とか排便とか、そういった行為を行う毎に、なんらかの「気持ち良くなる」ようになっています。もちろん、性行為ののひとつです。そのような行為が行われると、一種の快楽物質と呼ばれるホルモンが、「ご褒美」として脳内に分泌されます。ところがその仕組は、過ぎると別の問題を生じる事もあります。辛い事を忘れる為にお酒を飲みすぎると、酔って気持ちよくなる事で、いっときの間、辛さを忘れる事ができます。それを何度も繰り返すと、その人の脳はお酒で酩酊している状態を常に求めるようになります。その結果、アルコール依存症が起こります。性依存症も似ています。」


すこし間をおいて、


「アヤメさんの場合は、セックスドラッグが入口だったと思われますが、その時点ではいわゆる薬物中毒と考えられます。ドラッグの解脱症状が消えた時に、一時的に冷静さ取り戻したようですが、それにより自分のおかれた状況の重大さを認識してしまい、おおきな絶望による精神的な苦痛が強まったと思われます。その苦痛を紛らわす為に、毎晩のように路上に立ち続けて、不特定多数の人と性行為を行いました。そのような状況のなかで、たまたま、自分へやさしくしてくれる男性が孤立感を癒やし自分へやさしくしてくれる事に気づき、その男性への強い依存と執着によって、性依存症が固定化されたのではないかと推測します」


うーん、わかったような、わからないような。


「チハル、お前、理解できたか」


「ええと、半分くらいは、、、」


「つまり、アヤメさんの性依存症の原因は、おおきな絶望と孤立感であろうと思われます。その治療方法としては、性行為への強い衝動を抑える薬で、ある程度の苦痛を和らげる可能性があります。これは最近、日本でも認可された新薬です」


「その薬で、彼女の病気は治るのでしょうか」


「その点に関してですが、薬だけで完治させるのは、もしかしたら難しいかもしれません。依存症の治療に際しては、まずは本人が、自分が病気である事を強く認識する事が必要になります。自分の精神が弱いからとか、自分の内面に理由をもとめると、いずれ通院治療をやめてしまう可能性が高いのです。また、患者さんのまわりの方の協力が非常に重要になります。アヤメさんの場合、かなりの可能性で、チハルさんを新しい精神依存の相手と認識してしまっている可能性があります」


先生は、彼女にむかって質問した。


「チハルさんは、アパートに居たという男性の事を、いまでも執着していると思いますか」


彼女はすこし考えて、


「いいえ、たぶん無いです」


と答えた。


「では、チハル君の事は、怖いと感じますか」


「うーん、たぶん、感じないと思います。チハル君は怖くないです」


「では、こちらのリョウさんとその奥様については、どうでしょうか」


「うーん、わかりません。たぶん、怖いとは思いませんが、まだわかりません。あっ、でも奥様は安心できるかも」


おいおい、俺の事はまだ信用されてないのかと、ちょっと凹んだが、妻の方は信用をかちとっいたようで、すこし安心した。


「では、治療の方針ですが、見たところ、緊急に隔離入院させるような感じには見受けられませんが、アヤメさんはどう思われますか。先ほどご説明したお薬は処方いたしますが、もうすこし精神的に安定するまでは、安心できる男性に、なるべく身近にいてもらった方が、良いように思います」


3人で話し合って、1日に1回は大学の中か近くでアヤメとチハルが遭って、2人で話す時間(リハビリタイム)を設ける。住むところはもうしばらくは我が家として、そこから大学へ通う生活を、もうすこしする事にきめた。この方針の日常生活を続けながら、毎週一回、このクリニックへチハルが責任をもってチハルを連れてきて通院させる事になった。


気がついたら、すでに来週はクリスマスになっていた。


後から振り返ると、1年が過ぎるのはあっという間だなって、この時期になると毎年おもうんだよね。


来年も良い年でありますように。

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