第2話 壊れた蝶

僕はチハル。都内の大学に進学して、はや2年が過ぎた。大学の近くにアパートを借りて一人暮らしの、どこにでもいそうな普通の20歳の男子だ。大学生活にいろんな希望を抱いていたが、まあ、そうはいってもこのまま平凡な日々が続いて行くのだろうな、と思っていた。あの日、アヤメを部屋飲みに誘うまでは。


今年の4月に、あたらしいサークル部員が入ってきた。その中に、色白で華奢でお嬢様ぽい、清楚な感じの女子を見つけた。めちゃタイプだった。下心を隠しながら速攻で話しかけると、ちょっと引かれながらも、話をしてくれた。出身地を聞くと、同郷だとわかって、すごく嬉しかった。だって、共通のネタがあれば、彼女と会話を続けられるだろう。まあ、その他大勢の一人として、印象は薄かったもしれないけど。


翌週に、大学近くの居酒屋でサークルの新歓コンパが開かれた。アヤメさんも参加していた。隣にいって話したかったが、両隣と向かいの席にずっと4年の先輩たちがいて、話す機会がなかった。いい感じて酔っ払って、気がついたら人数が半分くらいに減っていた。いつのまにか、お開きになっていたようだ。そして、彼女もいなくなっていた。ちょっとがっかりした事は確かだ。


それからしばらく、彼女はサークルに出てこなかった。もう止めたのかと思ってた。それが、夏休みをまたいだ9月になって、ひさしぶりにサークルに顔をだすと、彼女が来ていた。隅の方の椅子に座って、ボーッと窓の外を眺めていた。4月に会った時の印象とのギャップに、すこし驚いた。青白い不健康そうな肌。根の下の濃いクマ。こけた頬。髪の毛も、ゴアゴアな感じで艶がない。そして、表情に生気が感じられなかった。別人のようだった。なんだか心配になって、声をかけてみた。


「ええと、アヤメさんですね。僕は、チハルですけど、覚えてますか」


彼女は僕の方を向いたが、表情がなかった。


「ほら、4月にサークルに入った時に、少しだけお話した事があるんですけど。ほら、ぼくら同じ出身地だって言ったの、覚えてますか」


口がすこし開きかけたような気がしたが、そのあとの言葉は、出てこなかった。どうしたのだろう。その時、あの新歓コンパの事を思い出した。


「新歓コンパの時は、ぜんぜんお話できなくて残念でした。その後からずっと見かけなかったので、ちょっと心配してました。」


彼女の頬が、急にピクピクと引き痙ったように動いた。青白い顔から更に血の気が引いていき、いまにも倒れそうに見えた。ちょっと焦った。とっさに彼女のからだを支えようと腕を伸ばした。しかし彼女は、背中をビクっとさせて腕を引き、私から離れようとしたみたいだった。えっ、なんか拒否られたみたいだ。けど、やはりフラついてみえたので、そのまま放置するのも気が引けた。僕は一歩下がると、


「どこかで休みますか、ええと、学食がすぐそこにあったはず」


と言った。


僕たちは学食のテーブルに向かい合って座った。彼女は最初、怯えているような感じだったので、何か和ませるネタはないかと、夏のバイトの時の失敗談をちょっと盛って大げさに話した。話しているうちに、だんだんと彼女の表情が和んできた。顔色も、すこし戻ってきたみたいだ。そろそろ潮時だが、せっかくのこの機会を逃す訳にはいかない。ちょっと強引だったかもしれないが、彼女とLINEでつながる事ができた。その日から、いろんなメッセージを彼女へ送った。「おはよう」とか、「一緒にランチしない」とか「授業がおわったら、お茶しない」とか、「今晩は夜飯どう」とか、「まだ起きてる」とか、「いま、何してるの」とか、、、


彼女からのLINEの返事は、あまり無かった。でも、たまに返事があって、学食や喫茶店で逢うと、別に僕とのチャットを嫌がっている様でははなさそうだ。安心したので、LINEのメッセージを送り続けた。そこで知ったのだが、彼女は毎晩のように、かなり遅くまで外出しているようだった。23時ごろに「いま、なにしてる」とメッセージ送ると、「いまは外」との返事が来たり。夜中の1時ごろに、送ったメッセージの既読がついたり。バイトで忙しいという感じでもなさそうだ。そこに、ちょっとした違和感がずっとあった。


彼女とLINEを初めてから3週間くらいか、9月の終わりの週にめずらしく「今晩は大丈夫です」との返事が来た。ヤッターと思ったが、月末は親から生活費の仕送り直前なので、金があまりない。うーんとしばらく考えた末に、恐る恐る、「僕のアパートで家飲みしない」と送ってみた。えっ、もちろん、下心だって、なかったと言えば嘘になりますが。


6時ごろに待ち合わせ、駅前のスーパーでお酒と惣菜を買って、二人で僕のアパートに着いた。木造のちょっと古い2階建てのアパート。部屋の明かりを付けると、畳の上に置かれたちゃぶ台の上にお酒と惣菜を広げた。彼女はあいかわらず無口で、私のつまらない話をずっと聞いていた。しかし、今日の彼女はちょっと、雰囲気が違うみたいだった。なんか、目線があちこちに動いて、ときどき、口元がピクピクと震える。なんか、すごくイライラしているように見えた。スマホで時間を見ると、もう22時になっていた、うーん、今日の話のネタも尽きたし、お酒も惣菜もおおむねなくなってしまった。そろそろ解散にするべきだろうか。私は彼女を見ながら、ちょっとだけ悩んでいた。その時、彼女は急に立ち上がった。


「えっ、何」


彼女は震える手で部屋の明かりを消すと、泣きそうな目で服を脱ぎ始めた。僕は軽いパニック。頭が動かない。体が固まったまま、目だけは彼女に向けられていた。


「もし、したいなら、どうぞ」


震える泣き声で、そう言った。


「ちょ、ちょっと待って。僕、勘違いさせちゃったかな。別にそういうつもりで、、、」


言葉が継げなかった。眼の前に裸の彼女が立っていた。いや、突っ立っていたという感じだろうか。恥じらう素振りも見せず、しかし、泣いていた。震えていた。明らかに怯えていた。


ヘタレな僕は、この状況で「据え膳食わぬは、、、」とは微塵も思えなかった。むしろ萎えた。悲しかった。彼女から、何か得たいの知れない苦悩なのか、絶望なのか、そういう負の感情が伝わってきたからだ。僕は風呂場からバスタオルを取ってくると、突っ立っている彼女の体を覆った。


「ごめん、アヤメさん。僕がなにか傷つけちゃったかな」


彼女は、僕の腕の中で、シクシクと泣き続けた。いま気がついたが、彼女の体から、ちょっと異臭がした。あまり頻繁には、風呂に入っていないようだ。首筋には、小さな内出血のような印がいくつも見えた。そして、僕の腕の中の彼女は、びっくりするほど細かった。


「ちゃんとご飯たべてる」


彼女は泣き続けた。


「何か困った事があるのかな。もし僕でよかったら、話してみて」


彼女は口を開こうとしなかった。僕は「おいで」と言って、バスタオルに包まれた彼女をベッドに寝かした。そして、僕もその横に滑り込んで、彼女を軽く抱きしめた。いままで手をつないだ事もないのに、いきなり抱きしめるのもどうかと思ったが、きっと抱きしめた方が、彼女が安心するのかも、と思った。そして、気がついたら、翌朝になっていた。


スマホから7時半のアラームが鳴って、目が覚めた。体を動かすと、柔らかい何かに触れて、「えっ」となった。そうだ、昨晩は彼女と寝たのだった。ベッドから起き上がると、彼女も目が覚めかけて体を起こした。横にいる僕を見ると、急に目が大きく開いて、昨晩の事を思い出したようだった。その目から、また涙がこぼれ始めた。「ごめんなさい、ごめんなさい」と謝って取り乱した。僕が昨晩とおなじ服を着ているのに気づくと、服を脱がそうとしはじめた。起きたとたんに、あっという間の展開でちょっとパニクったが、掛け布団の上から彼女を抱きしめながら、


「大丈夫だよ、大丈夫、もう安心して」


と、何度も何度も話しかけた。効果があったのか、しばらくして、落ち着いてきた。泣き止んで、僕と目を合わせる事ができるようになった。僕は彼女の頭をなでながら、昨晩と同じ言葉で問いかけた。


「何か困った事があるのかな。もし僕でよかったら、話してみて」


彼女はじっと僕の目を見つづけた。何回か、目をそらす事があったが、ふたたび視線がもどってきた。なにか、逡巡している事がわかった。話そうか、話すまいか。数分が経っただろうか。彼女の口から、フッーという息が出てきた。そして、彼女は語りはじめた。


今日はどちらも必須単位の授業がなかったので、休む事にした。彼女はつっかえ、つかっかえしながら、新歓コンパの夜から今日までの事について、淡々と話してくれた。聞いている僕の方も、すごく苦しくなった。彼女に起きた事が信じられなかった。サークルの先輩とOB達に、そんな事をされていたのか。そして、その後に彼女が堕ちていく様が、平凡な僕の心には受け止めきれなかった。僕は1つの決断をした。1つのメッセージをLINEで送った。1時間ほどして、その返事が来た。彼女に「服を着て」もらうようにお願いすると、二人で外へ出た。駅前の立ち食い蕎麦屋で、一杯ずつかけ蕎麦をたべた。金欠なので、彼女には我慢してもらおう。もちろん、僕が払った。電車に1時間ほど揺られた。途中、ずっと彼女の手を握っていた。彼女が安心するとと思ったからだ。僕たちはずっと無言だった。


僕たちがたどり着いたのは、僕の叔父が経営している、小さな内科クリニックだった。東京にいる間は、なにか困ったら相談しろと、前々から言われていたのを思い出したのだ。

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