第21話 千石の気持ち

 先に全速力で飛び出して行った千石に追いつくのは無理があるだろ。と思いながら、学園中を彷徨う覚悟で千石を捜し始めたのだが、意外にもすぐに見つかった。


 走り続けるには体力が足りなかったのか、それともただ単に独りになりたかっただけなのか。彼女は昇降口の隅で膝を抱えて座っていた。


 安堵の息を漏らし、俺は静かに近寄って呼びかける。


「千石」

「――――ッ!?」


 弾かれたように立ち上がった千石が、俺の顔を見るやいなや再び逃げ出した。

 おいおいマジかよ。屋外まで追い駆けっこをするつもりはないぞ。

 慌てて手を伸ばす。運良く千石の手首を掴むことができた。


「千石、待て。少し話そう」

「やだ! 恥ずかしくて顔なんか見れるわけないじゃん!」


 強引に振り解こうとする。が、何とか持ち堪えた。

 抗うことを諦めた千石が俯く。静かに漏れる嗚咽が聞こえた。


 居たたまれない気分になる。しかし千石が泣いている理由は分かっている。誰が泣かしたのかも知っている。悪いのは、彼女の気持ちに気づいてやれなかった俺なんだ。目を背けるつもりはないし、元より逃げる気なんてない。


「千石、ごめんな」


 謝る。今の俺には、誠意を持って謝罪することしかできなかった。


 俺の気持ちが伝わったのか、そうでないのか、千石の抵抗がピタリと止まっただけでは判断しづらい。しかし話し合いの余地は与えてくれそうだ。そう決めつけて、彼女の手首を掴む力を緩めた瞬間――、


 何故かボディーブローが飛んできた。しかも身体を反転させる勢いを利用し、完全に油断していた脇腹辺りに。小柄な千石の腕力でも、最悪な条件がそろった一撃は、呼吸困難に陥るくらいの威力があった。


「うぐぅ……」


 脇腹を押さえるために、思わず千石の手首を放してしまう。


 しかし俺は倒れない。痛みのあまりその場で蹲ろうとしたところ、千石が支えになってくれたからだ。


「謝んないでよ、バカ!」


 俺の胸に顔を埋めながら、千石が叫んだ。


 その表情を見ることは叶わないけれども、栗色の髪の間から覗く耳や首筋は、真っ赤に染まっていた。


「なんで謝るのよ! 謝ってほしくて訴えたわけじゃないの! もっと喜びなさいよ! もっと鼻の下伸ばしなさいよ! もっとお前の裸を見たいって言いなさいよ! それともなに!? 私の身体じゃ興奮しないって言うの!? あの幼馴染の女みたいに背とか胸が大きい方が良いって言うの!? やだ、この変態! 変態! もっと私を見てよ! 私じゃダメなの!? 私はこんなにも、あなたを、あなたを……」


 その先の言葉は、すすり泣く声に呑まれてしまった。


 俺の制服をハンカチ代わりにしながら、千石は立ったまま泣き続ける。どうしてよいのか困り果て、手持無沙汰になった俺は、その手で千石の頭を撫でた。


「千石は……俺のこと、好きなのか?」


 最低な質問だと理解しつつも、どうしても聞いておかなきゃならなかった。


 今回の六花廷、俺たちが勝利を掴むために作り上げた道筋は、千石が俺のことを好きだという前提で成り立っている。でも今さら気づいた。逆だったんだ。千石の恋心を利用してまで無罪を勝ち取りに行くなんて、最初から勝負に負けていたようなものだ。


 もし千石が好きと答えたなら、俺は潔く負けを認めよう。

 心の中でシュウに謝りながら、千石からの返事を待つ。

 すると突然、突き飛ばされた。両手で胸を押され、俺はたたらを踏む。

 千石も反動で一歩二歩後ろへ下がったのだが……彼女は逃げなかった。


 白く透き通る肌を夕陽のように真っ赤に染め、彼女はまっすぐ俺の目を見つめてくる。


「好きでもない相手に裸を見られたくないわよ。このバカ」


 不意に視線を逸らした千石が、踵を返した。動悸が不安定になって呆然と佇んでいる俺の横を、彼女はしっかりとした足取りで通り抜ける。


「お、おい! どこ行くんだ!?」

「生徒会室に戻る。泣いたらすっきりしたから。六花廷の途中だったもんね。追いかけさせて悪かったわ」


 一通り説明の言葉を並べた千石が、振り向きもせず速足で行ってしまった。


 俺はその背中をただ見送ることしかできない。でも大丈夫。千石は生徒会室に戻ると言っていた。これで任務は完了。俺も早く行かないと。


 しかし――。

 身体が戻るべき場所は分かっても、心の行き着く先をどこへ定めればいいのか、俺自身にも見当はつかなかった。






 生徒会室は、俺が出て行った時からほとんど変わり映えしていなかった。

 ……いや、心なしか傍聴人の数が増えてないか?


「どうやら連れ戻すことに成功したようだね」

「あいつが勝手に戻ってっただけなんだけどな」


 周防に声を掛け、繚乱倶楽部側を一瞥する。千石はさっきと同じ場所で座り、他の部員と会話していた。その瞳はもう濡れていない。動揺して飛び出して行ってしまったことに対し、みんなに謝罪しているようだった。


 ひとまず安心だ。六花廷を再開してもらえるよう、俺もまた弁護団の席へと座る。

 しかし皮肉っぽい笑みを浮かべた周防に遮られてしまった。


「あぁ、そうそう。君の座る場所はこっちじゃない。あそこだ」


 そう言って、周防は本来被告人が座るべきパイプ椅子を指し示した。

 いったい何だってんだ。今回の六花廷もすでに終盤だし、今さら俺があそこへ座ったところで意味なんてないだろうに。


「いいから座れって。君が座らないと、六花廷が再開しない」

「はぁ?」


 再開しないのなら仕方がないと、俺は言われるがまま被告人席へと座った。

 裁判長である生徒会長と真正面から向き合う形になる。じっと俺を見据えた彼女が卓上ベルを鳴らすと、雑談が一斉に消えた。


「では六花廷を再開します。千石さん、先ほどの続きをお願いいたします」

「はい」


 ほんの数分前まで泣きじゃくっていたと思わせない溌剌な返事をしてから、千石は立ち上がった。というか、先ほどの続きってなんだ? 俺がここへ戻ってくる前に、千石は何かしていたのか?


「まず、皆様に謝らなければならないことがあります。私こと千石千代子は、今回の訴えを取り下げます。お騒がせして、誠に申し訳ありませんでした」


 千石が頭を下げる。傍聴席がわずかにどよめいた。

 すかさず生徒会長が詳しい説明を求めてくる。


「取り下げるということは、周防さんの発言を受けて、実は野村さんが犯人ではなかったと認めるわけですね?」

「いいえ、そうではありません。私の裸を目撃したのは間違いなく野村君です。これは絶対に譲りません」


 何を根拠に。と言おうとしたが、やめておいた。


 千石が口にしているのは理論ではなく、感情だ。彼女は俺のことが好きだから、自分の裸を見られても抵抗はなかった。逆に言えば、どこの誰だか分からない生徒に目撃されたと公にされてしまうのは、彼女のプライドが許さないのだろう。なんとなくだが、少しだけ乙女心を理解できたような気がした。


「訴えは取り下げます。ですがこの場を借りて、野村君にお願いと言っておきたいことがあります。発言を許していただいても構いませんか?」

「えぇ、もちろん。どうぞ」

「はい。では……」


 大きく深呼吸をして、その小さな胸を張った。

 そして再び真っ赤に染まった顔を俺に向け、千石は堂々と言い放った。


「私は野村君のことが好きです。もし付き合っていただけるのなら、この書類にサインしてください」

「――――ッ!?」


 一字一句ゆっくりと言葉を紡ぎ出した千石が、一枚のA4用紙を取り出した。


 さっきの会話もほとんど告白みたいなものだったし、正直すぐにでも交際を申し込むだろうと予想していた。けどまさか、こんな大勢の前で堂々と告白してくるなんて……それだけ意志が強いってことか?


 ヤバい、心臓がバクバク言ってやがる。女の子から告白されたのなんて初めてだ。しかもよりにもよって、こんな公開処刑みたいな場所で。今度は俺がこの場から逃げ出したい心境だった。


 返事をするべきか、黙ったままでいるべきか。

 いや、返事をしないという選択はあり得ない。保留という答えも、みんな許してくれそうにない雰囲気だ。ならば断るか、付き合うか。選択肢は二つのみ。


 俺は――真性のビビりだった。


「……その書類は、いったい何なんだ?」


 馬鹿か俺は。んなこと訊いても、時間稼ぎにもならないのに!


「これは交際届です。もし私が勝った場合、罰則として貴方にサインを書かせるつもりでした」


 あぁ、なるほどね。


 罰則として交際届にサインさせると言えば、千石が俺を好きだという証拠となり、シュウの陰謀論が証明される。逆に交際届を提示しなければ、六花廷では勝てるだろうが、罰則として俺にサインを書かせることができない。


 見事なダブルバインドだ。開廷直後にシュウが気づいたのは、これだったわけか。

 こんなことになるなら、潔く六花廷で負けて、強制的に交際届にサインすることになった方が楽だったな……と思ってしまう俺は最低だ。


「俺は……」


 千石が好きか否か。

 千石を好きになれるか、なれないか。

 果たして――どちらだ?


「ふむ。なるほど、なるほど。千石さん、異議ありです」


 葛藤の末、結局は空気を読まない別の声にお茶を濁されてしまった。


 声の主は、この場であらゆる権限を持った人物だった。それ故、生徒会室にいるすべての人間が彼女の方へ視線を向けずにはいられなかった。


 俺の正面で、生徒会長が笑っている。

 この状況を救ってくれる天使――ではなく、俺には彼女の笑みが悪魔のように見えた。


 雰囲気をぶち壊しにされた千石が、不機嫌を隠そうともせず会長に訊ねる。


「生徒会長。異議、とは何なんでしょう?」

「実はですね、千石さん。私は先日、野村さんに求婚されたんですよ」

「……え?」「なっ――!?」


 俺たちは二人そろって絶句してしまった。


 言葉の意味をよく理解できていない千石と、何故それを今この場で暴露するのか、信じられないような目で生徒会長を睨む俺。マジで何考えてんだ、この人。


「それは……本当なの?」


 嘘であってほしいと懇願するように、千石は声を震わせて俺に確認してきた。

 うん。まぁ、とりあえず落ち着こう。


「ちょっと待った。言い訳をさせてくれ」

「えぇ、構いませんよ。気が済むまで弁明してください」


 ニコニコと悪魔の微笑みを続ける生徒会長。

 彼女は明らかにこの状況を楽しんでいるようだった。


「千石、俺が生徒会長にプロポーズしたのは事実だけどな……」


 俺は先日実行した、生徒会長を籠絡して六花廷を有利に運ぼう作戦の内容を説明した。


 話が進むにつれて千石は安堵したような表情へと変化させていったが、その他の繚乱倶楽部のお嬢様方は、あまり穏やかな顔をしていなかった。当然だな。生徒会長を取り入れようなどと考えるのは、完全に八百長だし。


「つまり冗談だったんだよ。会長を味方に付けることができれば、何でもよかったんだ」

「あらあら、冗談とはあまりに酷い言い草です。つまり野村さんは乙女心を弄んだわけですね? 傷つきますわ」


 泣き真似までしやがる。この人はいったい何が目的なんだ?


「生徒会長の心が傷つこうが傷つくまいが、求婚は本気でしたわけではないと、野村君は発言しています。ですから会長がこの場で出しゃばる権利はないんじゃないですか?」

「まさにその通りですよ、千石さん。しかし、です。私がここで野村さんに交際届を渡す権利は、貴女と同等にあるのではないでしょうか?」

「うぐっ……」


 負けじと反論する姿勢だった千石は、虚を突かれたようだった。


 会長の発言は一理ある。千石がどんなに俺のことを好きであっても、交際届にサインをしていない以上、恋人でもなんでもないただのクラスメイトだ。会長に向かってやめろと言う権利は、千石にはまだない。


 でも会長、別に俺のこと好きでもなんでもないだろうに。


「ところで有川さん。貴女はさっきから、あまり面白くなさそうな顔をしていますね」

「えっ?」


 唐突に話を振られ、シュウはたった今目が覚めたような間抜けな声を上げた。

 弁護団側に顔を向けた会長は、にんまりと笑っている。


「もしよければ、貴女もどうですか?」

「どうですかって……」

「貴女にも私たちと同じ権利はありますよ。今この場で申し出ないと、もしかしたら手遅れになるかもしれません」

「ちょっと……」


 千石が反論したそうに声を上げるのも理解できる。自分の愛の告白だった舞台が、いつの間にか、まるで有名人のサイン会のように変化してしまったのだ。意味が分からない。


「私は……」


 何故かシュウは俯き、すぐに返事をしようとしない。

 考えなくても分かるだろ。お前がこんな下らない競争に参加する必要はないって!

 しかし俺の期待も虚しく、シュウは逆の決断を下したようだった。


「私も参加します」


 表情を引き締め、シュウは生徒会長へと宣言した。

 その覚悟を見届けた会長は、満足げに頷いた。


「分かりました。では本日の六花廷は、ここで一旦閉廷とします。再開はまた明日、今日と同じ時間にします。野村さんはそれまでに誰の交際届を受け取るか、しっかりと考えてきてください。関係者各位はもちろん、傍聴を希望する方も遅れないように。それでは、解散」


 卓上ベルが鳴り響き、今日の六花廷はお開きとなった。

 繚乱倶楽部側で、唖然としている千石。

 生徒会役員席で、未だニヤニヤと微笑んでいる生徒会長。

 弁護団側で、今さら恥ずかしくなって顔を赤らめるシュウ。


「だ、大スクープよ! 今から号外を創らなきゃ!!」


 そして傍聴席で大はしゃぎしながら退室していく新聞部員たち。

 被告人席に座る孤独な俺は、ただただ頭を抱えることしかできなかった。

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