第12話 現場検証2

「こっちよ」

「もっといい場所があるのか?」


 問うた矢先、いきなり押し倒された。仰向けで倒れたため、肩甲骨が床に強打する。下はふかふかな絨毯だとはいえ、あまりに唐突だったので、受け身も取れず呼吸困難に陥るかと思った。


「なんだよ、いきな……むぅ」

「黙りなさい」


 今度は布で口元を押さえられた。いや、単なる布ではない。制服だ。


 どんな態勢になったかと言えば、つまりシュウは、仰向けに寝転がっている俺の上へ覆い被さるように伏せたのだ。しかもお互いの伏せている位置がずれているためか、シュウの胸が俺の顔面を圧迫する形になっている。


「く、苦しい……」

「苦しい? 何? 幼馴染のおっぱいに触れといて、感想がそれだけ?」


 感想って言われてもなぁ。咄嗟に気の利いたことが言えるほど、俺はセンチメンタルな人間じゃないんだ。


 いや……あれ? シュウの胸って、こんなに大きかったっけ?

 意識してしまうと、徐々に鼓動が高鳴ってきた。


「なぁに緊張してんのよ。野村君、何回私のおっぱい吸ったことがあると思ってるの」

「一度たりとて吸ったことなんてねーよ!」


 触ったことなら何度もあるけどな! もちろん、小さい頃に!


 じゃれ合ってるうちに、俺にも聞こえるほど足音が近づいてきた。そしてほぼ間違いなく、それは六花繚乱倶楽部の前で止まる。


「一人……か?」

「聞こえた限りではね。宙に浮いてたら話は別だけど」


 むしろ生きる世界が別だけどな。

 しかしこの態勢はさすがにマズイと思う。ソファが死角となっているため、確かに入り口の扉を開けて見渡しただけでは見つからないだろう。ただそれも、回り込まれてはおしまいだ。


 などと危惧しても、もう移動する時間はない。シュウの胸に埋まっている俺の位置からは見えないが、わずかに扉の開く音が聞こえた。


「あれれぇ~? 鍵、開いてるぅ。それに電気も点いてるぅ」


 恐る恐るといった感じではあるが、俺たちみたいな不法侵入者ではないようだ。誰もいないはずの部室の鍵が開いていたり、シャンデリアが灯っているのを訝しんでいる様子。しかし彼女が六花繚乱倶楽部の部員であることを認めるのには、少しだけ抵抗があった。


(ったく、周防司令塔は何をしているのかしらね。部員の誰かが戻ってきそうだったら、すぐに連絡しろって言ってあるのに)

(なぁ。今の、本当に部員なのか? 高校生にしては幼すぎる声だったような……)

(む、確かにね。子供みたいな声だったわ)


 と、俺の顔面からシュウの胸が退いた。ソファの角から少女を窺っているようだが、それはあまりにも無謀である。バレやしないかと、シュウの胸に埋まった時とは違う意味でドキドキした。


 しかしシュウはすぐに顔を引っ込めた。気づかれた様子もない。


(一目で分かった。あの子、水波みずなみ先輩よ)

(あぁ、あの有名な二年生か)


 どう有名なのかは、三通りある。

 一つ目は、彼女が水波製菓社長の孫娘であること。


 水波製菓と言えば、世界にその名を轟かせるスイーツブランドだ。MZNMを模したあのロゴマークを知らぬ者はいないし、たとえいたとしても、そこら辺のスーパーの駄菓子コーナーで商品を買えば、知らず知らずのうちに口にしていると思う。それほど世間に浸透しているブランドだ。


 そしてもう一つが、彼女本人の身なりにある。

 先ほど、シュウは子供みたいな声だと言った。その一言で、彼女の風体をご想像できるかと思われる。


 まさしく子供なのだ。高校二年生、俺たちより一つ上とは思えないほど彼女は小さい。具体的に言えば、小学校中学年の列に紛れても区別がつかないほど。あまりにも幼すぎる外見に、年上年下関係なく愛されているわけだが……。


 彼女を有名たらしめる要因は、もっと他のところにあった。


「わぁ。きっと妖精さんたちが、あたしのために点けておいてくれたのねぇ」


 ありていに言えば、アホの子なのである。


 先輩なので学力がどうかは知らないが、その天然ぶりは六花総合学園に入学できたことを疑問視してしまうほど。いや、水波先輩もれっきとしたお嬢様なのだから、金を積んで入学させてもらったのかもしれないが。


(何しに来たのかしら。最終下校時刻は、もうとっくに過ぎてるのに)

(忘れ物でも取りに来たんじゃないか?)

(あの子は忘れ物をしたことをよく忘れるって噂よ)


 シュウの言い回しは変だったが、相手があの水波先輩なので妙に納得してしまった。


 と、水波先輩が移動する小さな足音が聞こえた。シュウに押し倒されたままの俺には音を拾うことしかできないが、どうやらこちらの存在に気づいている様子はないらしい。足音は俺たちから徐々に遠のいていく。


 俺が現状を把握できる術は、慎重に窺っているシュウの実況だけだ。


(部屋の隅に行った。冷蔵庫の前で何かしてるみたい)


 シュウの実況通り、冷蔵庫の開ける音がした。


「うふふぅ、出雲屋いずもやのプリン、プリン~」


 子供特有の自作した歌を歌いながら、水波先輩は冷蔵庫の前から動こうとはしない。俺たちの存在が露見していないことは不幸中の幸いだが、未だに緊張感を解くことはできそうにない。いつになったら帰ってくれるのか、いつ回り込まれるか戦々恐々としながら、俺はシュウに押し潰されたまま待った。


(なるほど。あの子の目的が分かったわ)

(プリンを食べに来たんだろ? ……盗み食いか?)

(おそらく彼女が堂々と食べられない種類のプリンよ。出雲屋って言ってたでしょ)


 出雲屋は確か、駄菓子界でも水波製菓と双璧を為すほどの大企業だ。


 シュウにヒントを与えられ、ピンと来た。まさか祖父のライバル会社の商品を、孫娘の水波先輩がおいしそうに食べるわけにもいかない。実家や他のお嬢様方がいる前では尚更だ。故に彼女は部の共有物である冷蔵庫にプリンを保管し、誰もいなくなってから食べに来たのだ。


 企業のイメージを崩さない努力は涙ぐましいものではあるが、やってることは完全にお子ちゃまだった。


(良いタイミングで良い鴨が来たわね)

(鴨?)

(繚乱倶楽部の誰かに、事件当日のことを訊いてみたかったの)

(おい。お前まさか、先輩の前に出るつもりじゃないだろうな)

(大丈夫。策はあるわ)


 そう言って、シュウはポケットから変装用のアイテムを取り出した。

 髭メガネだった。


(変装用じゃなくて変態用じゃねえか)

(宴会用よ。何言ってるの?)


 お前こそ何言ってんだよ。本気で姿を晒すのか?


 無言で睨みつけた俺の意を介することもなく、シュウは髭メガネを装着してしまった。別に笑えはしなかった。


(問題はないわ。水波先輩は高校生にもなって、サンタクロースどころか妖精の存在すら信じている節がある。……いえ、妖精はたまに目撃すると本気で主張するほどのアホの子よ。前の六花廷でもあったでしょ)


 あったな。

 四・五回くらい前の六花廷が確かそんな内容だった。


 クラスの男子生徒に妖精なんかいないと馬鹿にされて、泣き出した水波先輩が六花廷へ訴える事例が。その判決のせいで、夢見る乙女の戯言を嘲笑してはいけない、という私的校則ができたっけ。すでに戯言と記されている時点で、逆に笑ってしまうが。


(失敗したら失敗した時に考えましょ。野村君はソファの下から他に誰もいないことを確認してちょうだい)


 そのポジティブ性を、小指の先ほどでいいから俺に分けてほしいものだ。


 言われるがまま、絨毯に頬を押し付けた俺は、ソファの下の隙間から室内の足元だけを見通す。大丈夫そうだ。水波先輩以外の足は見えない。


 俺がクリアの合図を送ると、頷いたシュウがその場で立ち上がった。


「悪い子はいねぇがー」


 声音を最大限まで低くしたシュウの声を聞き、俺は肝が潰されるほど驚いた。


 なまはげ!? 髭メガネを掛けて、なまはげって! 今度、機会があったら一度こいつの脳を直に観察してみたいとすら思った。


 しかし水波先輩を騙すことができれば、どんな手段でも構わないのは事実。

 果たして彼女の反応は……。


「ぎゃああああああぁぁぁ!!!」


 そりゃ悲鳴を上げるわな。おそらく俺も同じリアクションをするに違いない。


 あとどうでもいいことだが、この位置関係はどうにかならないのか。仰向けに寝転んでいる俺の顔の上にシュウが立つもんだから、全部丸見えになっちゃってます。


「ひぃ、ひいいいぃぃーー」


 ソファの下から、水波先輩の両手と膝が見えた。腰を抜かして必死で逃げようとしているのが手に取るように分かる。だんだん可哀想になってきた。


「水波綾香ぁ。お前は水波製菓社長の孫娘のくせに、出雲屋のプリンを食べたなぁ? 悪い子だがぁ~」

「ごめんなさいぃ、もうしません、御ひげ様ぁ」

「ぷっ、御ひげ様って……」


 ついつい笑ってしまうと、シュウの足の裏が俺の顔面を踏みつぶした。一応上履きは脱いでくれているとはいえ、靴下の感触が妙に生々しい。


「逃げるなぁ、水波綾香ぁ。罰としてぇ、お前は秘密を喋らなければぁ~いけない!」

「喋ります、喋りますぅ! だから今年のクリスマスもサンタさん来てくださいぃ! 綾香は良い子にしてますから!」


 心配すべきことはそこかよ!


 それにしても水波先輩があまりにも怯えるもんだから、シュウの声遣いがどんどん生き生きとしていくのが分かった。度胸ありすぎだ。


「先週の金曜日の放課後ぉ、お前は何をしていたぁ~?」


 いきなり核心か。


 ただ懸念すべきは、シュウの質問に対して水波先輩は「えっと、えっと、金曜日は、金曜日はぁ……」と頭を悩ませ始めたことだ。アホの子にしか通じない手とはいえ、質問に対する正しい回答が返って来なければ意味がない。言っちゃ悪いが、この娘が四日前の出来事を覚えているとは思えないし。


「あ、思い出しました! 確かみんなでフィレンツェでケーキ食べてました!」


 イタリア!? いやいや、ただの洋菓子店だ。しかし彼女らはお嬢様。ちょっとコンビニに行く気分で地球の裏側へ訪問しても、さほど違和感がなかった。


「何人で食べに行ったんだぁ?」

「じゅ、十人くらいです! あ、あと生徒会の人も誘って一緒に行きました! 立花さんの食べてるケーキもおいしそうだったから、綾香つまみ食いし、しちゃいました! はわわわわ! ごめんなさい、ごめんなさい! 許してくださいぃ!」


 …………生徒会?

 生徒会長は、他の役員は用事があるからいないと言っていた。その用事が、繚乱倶楽部の人たちとスイーツを食べに行くことだったのか?


「六花繚乱倶楽部のぉ、活動は毎日してるのかぁ?」

「自由参加ですぅ! 休み以外毎日顔を出す人もいますし、たまに来る人もいますぅ! いつもみんなで紅茶とかケーキ食べておしゃべりしてますぅ」

「甘いの好きなのかぁ~?」

「す、好きです!」

「そうか、いいなぁ~」


 何がいいんだよ、何が。


「よぉく、分かったぁ! 許してやるぞぉ!」

「ほ、本当ですか!?」


 水波先輩の涙声が、希望へと変化した。


「あぁ。ただし今日は今すぐ帰ってぇ、八時くらいには寝るんだぞぉ! 夜遅くまで起きてる子は、悪い子だがぁー」

「はいいぃぃぃーー、わかりましたぁ!」


 生まれたての小鹿のように両手足をバタつかせた水波先輩が、一目散に逃げていった。

 ふぅ、と安堵の吐息を漏らしたシュウは、その場に腰を下ろす。


「疲れたわぁ。本当にアホの子みたい。呆れたわ」

「………………おい」


 ケツに圧迫されて息苦しかった。


「うん? あぁ、ごめん。どうりで座り心地が悪いと思ってたわ」

「人の顔を足蹴や尻に敷いといてそれかよ」

「はぁー? 女の子のお尻に顔を埋めといて、その反応? 信じられない」

「……お前にもっと恥じらいがあれば嬉しいんだけどな」


 退いたシュウが、報復と言わんばかりに俺の股間を軽く蹴りやがった。

 しばらくの間、息ができなくて悶絶する。やっぱりこいつは女だ。この痛みを分かってる男なら、絶対に股間なんて蹴らないからな!


「あ……まぁいいわ、許す。で、」


 と言って、シュウはソファに座った。


 何をしているのかと思えば、水波先輩が食べ残したプリンを平らげていた。楽しみにしていたプリンを食べられなかったとか、八時には寝ろとか、ちょっと不憫だった。


「すごい有力な情報を手に入れたわね。やっぱりやって良かったでしょ?」

「もうちょっと粘れた気もするけどな」

「無理よ。あの子、今にも漏らしそうなくらい涙目になってたし、なにより私が限界だった。今回ばかりは自分の非を認めるけど、さすがに髭メガネつけてなまはげはないわ」

「反省できるのはいいことだ」


 割とマジで。今回みたいな度胸試しに毎度付き合わされていたら、俺の心臓がいくつあっても足りないだろう。


「事件が起こったのって、何時だったっけ?」

「五時過ぎだ」

「最終下校は六時。にもかかわらず、部室内にはセンセンちゃんしかいなかった……?」

「なぁ、シュウ。考えるよりも、まず先に脱出しないか? 万が一水波先輩が不審者がいるって誰か連れてきたら、この状況はマズいぞ」

「……それもそうね。一応、入り口から見渡せる範囲の写真も撮っといて」


 シュウの指示で、俺はスマホで写真を撮る。

 しっかりと消灯し、鍵も掛けてから、俺たちは六花繚乱倶楽部の部室を後にした。

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