第3話 幼馴染のあいつ
『己れの欲せざる所、人に施すことなかれ』という漢詩がある。
自分がされて嫌なことは人にするなという意味の、孔子のありがたいお言葉だ。
今回の六花廷で大切だったのは、訴訟人が不快感を抱いてしまったという一点だけである。つまりパンツを見られて微笑まれたことをまったく気にも留めなければ、六花廷に訴えようとも思わなかっただろう。
その状況を逆転してみようと思う。
仮に不慮の事故かなんかで、被告人(男)のパンツを訴訟人(女)が目撃してしまい、そしてどういうわけか微笑まれでもしたら、被告人(男)は不快に思うかどうか。もし歯牙にもかけないことを証明できれば、訴訟人(女)の自意識過剰性を指摘して、五分五分の戦いができるかもしれない……。
……いや、ダメだ。そもそもの話、男子のパンツ(ごみ)と女子のパンツ(夢と希望)では存在価値自体が天と地ほどの差があるからな。同じ土俵で戦うのは無理がありそうだ。まったく、どうして同じカテゴリなのに、穿いてる性別が異なるだけでこうも違いがあるものなのかね。
それに今の論語も、『自分がされていいことなら、他人にしてもいい』って意味はないと思う。意味を勝手に湾曲して使うのは、孔子先生に失礼だ。
次。
公共の場で下着を晒す方こそ、公序良俗に反するのではないかという反論。本人の不可抗力とはいえ、被告人の男子生徒も見たくもないものを見せられたと訴えれば……。
……ないわー。あいつ、法廷の場で堂々と嬉しそうに回想してたもんな。
ま、被告人と弁護団の団結力がいかに重要かが確認できただけでも、今回の六花廷に損はなかったと思うことにしよう。
「にしても、団結力、ね」
身に染みる言葉だ。
もともと結びつきの強い訴訟人と六花繚乱倶楽部とは違い、弁護団と被告人はそのほとんどが初対面だ。しかも訴訟人が訴えて、書類が通り、六花廷が開かれるまで、平均でおよそ三日ほどしかない。そんな短期間で仲を深めろという方が無理難題だ。
結局、重要だと感じ取ったチームワークですらも、こちらは繚乱倶楽部に負けているのである。
「はぁ……」
生々しいため息を吐いた俺は、斜め読みしていた六法全書から頭を上げた。
何気ない、朝の教室の風景だ。元お嬢様学校ということで、入学当初はどれほど豪華絢爛な教室で授業を受けられるのかと期待していた。が、意外や意外、拍子抜けするほど普通だったりする。
中学の頃と比べて若干広くなっていたり、チョークの粉一つ落ちていないほど用務員さんのプロ意識が垣間見れるが、特別珍しい物があるわけでもない。もしかしたら俺が使っている木製の机や椅子が、他で類を見ない高級素材を使ってるのかもしれないけど。
早い時間帯のためか、価格不明な机の持ち主はまだ数人しか登校してきていない。まあ遅刻ギリギリの登校というのは、ある意味高校生の特権だろう。慌てて走らなきゃ、曲がり角で食パンくわえた女子高生と衝突することもできないしね。
そして何故そんな朝っぱらから六法全書を広げているのかといえば、特に意味はない。真似事とはいえ、せっかく裁判に関する部活動をしているのだから、ちょっとくらいは法律を勉強しようと思っただけだ。そんで将来的にこの経験を活かして、法律に関する仕事に就けたらなという思惑もあったりなかったり。
ただ、この本はあまりにも重い。物理的な質量もだけど、内容も特に。
小説のようなストーリー性もないし、辞書のように自分が得たい情報だけをすぐに抽出することもできない。けど世の法律家は、どこに何が書いてあるかくらいはちゃんと把握してるんだろうなぁ、すげぇなぁ。
などと、そちら方面の職業の方々へ敬意の念を払っていると、突然、六法全書が軽くなった。今度は内容ではなく、物理的に。まるで俺に法律家は無理だと嘲笑うかのように、六法全書は俺の手を離れ、宙に浮く。
そして精一杯手を伸ばさなければ届かない位置まで浮かび上がった後、紙の鈍器が俺の脳天へと落下してきた。頭頂部の衝撃で星を見て、さらに勢い余って額を机の上へ打ちつける。十六年間生きてきたが、六法全書と机から為すサンドウィッチの具になったのは初めてだった。
「まさか六花廷に法律が必要だなんて、本気で思ってるわけじゃないよね?」
この言い草である。たかが本ごときに、将来の可能性を否定されるとは思わなかった。
いやまあ当然ながら、夢でもない限り書物が言葉を話すわけがない。つまりは誰かが六法全書を取り上げて、俺の頭の上に落としたのだ。
「いつまで鏡餅になってるのさ」
この状態を鏡餅と称したか。俺としてはサンドウィッチの方が的確だと思うが……ま、そんなことはどうでもいい。顔を上げない理由はというと、相手と顔を合わせたくないからだ。面と向かってこいつと言い争う勇気は、俺にはない。
「何を読もうと俺の勝手だろ?」
したがって、俺は額を机に押しつけたまま返事をした。一人の男としてこの上なく無様な姿ではあるが、仕方がない。文字通り、こいつには子供の頃から頭が上がらないのだ。
「そうね。あんたがどんなエロ本で性に目覚めたかなんて、私には関係ないもんね」
「公共の場で何をイッテンデスカ、アナタハ」
さすがに頭を上げずにはいられなかった。幼馴染の女の子にエロ本を発見された記憶なんて、黒歴史すぎる。
「ようやく顔を上げてくれたねぇ、野村君」
「うぐわぁ……」
目の前には鬼が立っていた。正確には、鬼のスタンドを背負った女だ。
顔にはまったく笑っていない笑顔を貼り付け、虫けらか何かを見るような目つきで俺を睨み下ろす。その眼光にただただ怖気づいた俺は、露骨に目を泳がせてしまった。怖い、怖すぎる。できればそのまま泳ぎ続けて、どこか遠い国へ亡命したいくらいだ。
この女こそ、俺が六花弁護団へ入ることになった元凶である。その経緯はあまり詳しく語りたくはないが、簡単に言えばこいつに入れと言われたから入っただけだ。情けないことに、俺は彼女の言うことには絶対に逆らえないのである。
「昨日の六花廷、また負けたそうじゃない」
怒っている理由は最初から分かっていた。だから俺の方も、昨日のうちから腹をくくっている。
「そ、それは最初から分が悪かったからで……」
「その言い分に対する私の返答は二つ。弁護団にとって有利な六花廷なんてないし、仮に有利だったからといって勝てるわけ?」
ダメだ、敵わない。こいつに口で勝つのは、六花廷で無罪を勝ち取るより難しそうだ。
降参の意を態度で示すように机に伏せた俺は、未だ目の前で仁王立ちをする幼馴染を見上げた。
こいつの名前は、有川シュウ。淡く茶色に染められたボーイッシュな髪形に、鷹を想起させる釣り目がちな眼光。少女期からそのまま歳を取ったような童顔であり、また性格もそれに伴って、実直で素直な奴だ。少しばかり勝気ではあるが、そこら辺にいる女子高生とあまり遜色ない少女だと思う。
ただし、ある一点を除いては。
お淑やかとは無縁なやんちゃな性格もさることながら、その体つきがさらに問題だ。
単純にデカいのだ。男子の中では平均以上の身長を誇る俺が、わずかに視線を掲げないと目が合わないほど。だからと言ってガッチリとした体格ではなく、モデル並みに細い。普通の女子なら長めのスカートも、シュウが穿けば膝上数センチだ。そのスラリと伸びた両脚に惚れる男子は少なくないだろう。
ついうっかり凝視してしまっていた脚から目を離し、俺は懇願するような上目遣いでシュウを見上げた。すると奴は鬼面を消し、呆れ果てたようなため息を吐いた。
「負けたのにも、それなりの理由があるはず。私も詳細を知りもせず責めるほど暴君じゃない。大体の訴訟内容は知ってるから、成り行きを話して」
なんと有難いお言葉。危うく感動で涙が出そうだった。
完全に上から目線でも俺は特に気分を害さず、昨日の六花廷の経緯を説明した。
こういった上下関係は、物心つく前から続いている。気の強いシュウは姉のように振る舞い、そして俺は弟であることを認めてしまった。二人の身長が逆転していたら、この立場も変わっていたかもしれない……と思うのは幻想だ。
俺の親父とシュウの親父は、俺たちが生まれる前から部下と上司の関係だった。しかも特別仲が良いらしい。どれほどの仲かと言えば、シュウの親父が脱サラして起業した際、俺の親父も会社を辞めてついて行ったほど。つまりシュウもまた小さいながらも社長令嬢ということであり、俺たちの関係は生まれる前から決まっていたということになる。
「なるほど」
一通り俺の話を聞き終えたシュウが、顎をさすりながら頷いた。
「やっぱり攻めが甘いわね。正論を並べたところで六花廷に勝てないことくらい、もう気づいてるでしょ? だったら目には目を、理不尽には理不尽を」
「じゃあ、どう弁護すればよかったんだよ」
「そうね、例えば……」
両手を腰に当てたシュウが、教室中に轟く声で言い放った。
「パンツじゃないから恥ずかしくないもん!」
「…………」
俺は冷静に考える。シュウが突拍子なことを言うのはいつものことだ。だから俺に助言を与えてくれているこの場面でも、今のセリフに何らかの意味があるはずだ!
「ツッコめ、バカッ!」
「えー……」
殴られた。なんで殴られたんだろう。
……あ、分かった。こういうのが理不尽だってことを、シュウは身を以て教えてくれたわけか。
「でもシュウ。パンツじゃないから恥ずかしくないのであって、パンツだったからやっぱり恥ずかしいという意味になるぞ。それじゃあ戦えない」
「ネタにマジレスすんな!」
ネタだったのか、驚いた。
シュウはいろんなことに嵌まり癖があって、興味があることはどんどん深く追求していくタイプだ。今では某動画投稿サイトのプレミアム会員らしく、そこから多くのネタを仕入れているのだろう。俺には分らん。
「ま、要はそういうことよ。六花廷で正論なんて通じないんだから、深く考えるだけ無駄なの。周防先輩の一言の方が場の空気をかき乱せて、よほど効果的だったかもしれないくらいにね」
「つっても、真面目でお利口さんな俺には、捻くれた弁論なんてできないんだよなぁ」
「ギャグ漫画読みなさいよ、ギャグ漫画。バカになった方が、世の中いろいろ得だよ」
いろいろってなんだよ。プライド捨てるくらいだったら、無関心を選ぶわ。
「六花廷に正論が通じないなんて、周防兄弟もお前も同じこと言うんだな。まるで俺だけ六花廷の本質を分かってないみたいじゃないか」
「みたいじゃなくて、本格的に分かってないの。八回も負けてれば、自然と気づくものだと思うけどねぇ」
蔑む視線がとても冷たい。実績が伴っていないため、反論はできないけれども。
そんなやり取りをしている間にも、黒板上のスピーカーが鳴り響いた。
「おっと、ホームルームの予鈴だ」
もうそんな時間か。どうりで人が多いと思ったよ。口を滑らせて俺の弱味を公言する前に、早く自分の教室へ帰ってくれ。
シュウとの会話を切り上げ、登校してくるクラスメイトをぼんやりと眺める。と、そこでギョッとした。栗色の巨大な物体が視界の端に映ったのだ。
慌てて視線を向けたところ、すぐに正体が分かって安堵する。教室の扉の辺りに千石がいたのだ。あいつのツインドリル、視野ギリギリだと栗色のお化けかなんかに見えるんだよなぁ。
「…………?」
ふと、千石と目が合った。それは別にいいのだが、俺の顔を見た途端、不機嫌そうに頬を膨らませたのはどういう了見か。
ははーん、なるほど。さては俺、嫌われてるな。朝っぱらから嫌な奴と目が合えば、そりゃ気分も悪くなるか。やはり繚乱倶楽部と弁護団が相容れないのは仕方のないことなのかもしれない。
「というわけで、あと二回負けたら死刑だから!」
物騒な宣言を残したシュウは、颯爽と教室から走り去っていった。
一回だけ猶予を与えてくれるとは、なんて慈悲深いんだ。まぁ、ただ単に十連敗でキリがいいってだけなんだろうけど。
兎にも角にも、今後いつ開廷されるか分からない六花廷に向けて、何らかの策を練らなければならない。まだ死にたくはないからな。
ため息を漏らし、去っていくシュウを見送ってから視線を戻す。
千石はすでに俺のことなど見てはおらず、自分の席に座って友人と談笑していた。
俺は目を細め、じっとその背中を睨みつける。次の戦いは絶対に負けんぞと闘志を燃やしている……わけではない。千石が前の席に座ると、黒板が見えにくいのだ。授業中だけでもいいから、何とかしてくれないかなぁ、あの頭。
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