第2話 弁護団が勝つこともある
沈痛な面持ちで扉を開けると、パイプ椅子に座ったインテリメガネが軽く手を挙げた。
「やあ」
「……なんでお前がここにいるんだ?」
室内を見回してみる。ただでさえ小さい倉庫なのに、多くの書籍やファイルの詰まった棚が両サイドに聳え立っているため、人がすれ違うことも困難なほど狭い。一応窓はあるので空気は籠ってないものの、出入り口に鍵が掛かっていないことを除けば、さながら牢獄のようだ。
辛気臭いこの部屋は、紛うことなく六花弁護団の部室だ。団員ではない奴が我が物顔で居座っていることに、俺は首を傾げた。
しかし俺の疑問には答えず、そのメガネもまた俺と同様に首を傾げる。
「あれ、兄貴は? 一緒じゃないのかい?」
「周防先輩なら早々に帰ったぞ。なんか用事でもあったんじゃないのか?」
「あぁ、なるほど。大学のアメフト部の練習に参加してるんだろうな、きっと」
周防先輩はあの体格に見合ったスポーツマンで、近くの大学のアメフト部に混じって練習に参加しているらしい。なのに何故アメフトやラグビーどころか、男子運動部がほとんどない六花総合学園に入学したのかは疑問である。
というわけで、このインテリメガネは周防先輩の弟の周防和也だ。俺とはクラスが違うものの、先輩経由で多少は交流がある。にしても、どうしてあの熊にこんな軟弱い頭脳派な弟がいるのか、こちらも謎であった。
周防が座ることを勧めてきたので、俺は四つあるパイプ椅子のひとつに腰かけた。
「で、今回の罰則はなんだった?」
「負けたこと前提かよ」
「じゃあ、勝ったのかい?」
「……今さらだけど、皮肉の塊だよな、お前って」
こういう奴なのだ。おおらかな性格の兄とは違い、弟は俺の神経を逆なですることが好きらしい。
仕方なく、俺は今回の六花廷の内容を簡潔に説明した。
「つーか、俺から聴くくらいだったら傍聴してろよ。参加は自由だろ」
「興味が無かったんでね。パンツ見られて裁判とか、アホらしすぎるよ。にしても、中庭の掃除か……」
「あぁ……」
同情するような面持ちで天井を仰いだ周防に同意し、俺も同じく被告人を憐れんだ。
六花総合学園の敷地は広大だ。とにかく、無駄にだだっ広い。隅から隅まで本気で散策するとなれば、丸一日費やしてしまうと言っても、決して誇大表現ではないほどだ。
まず普通の市立中学から上がってきた俺が驚いたのは、グラウンドが無いこと。一応土で整地されたスペースはあるのだが、ハンドボールコート二つ分くらいの広さしかない。
あとは広めの駐車場に、テニスコートが八つ。学び舎以外の建物では、体育館が二つに温水プールが一つ。そして小さいながらも演劇場まである。どこぞのテーマパークかよと驚きを通り越して呆れてしまう施設の数々だが、元々金持ちばかりが通っていた高校ともなれば、これが普通なのかもしれない。……いや、俺の感覚が麻痺し始めていることは認めよう。
問題の中庭は、それら施設以外のすべての土地だと思ってくれても構わない。
青い芝の生い茂る小さな丘。東屋の傍には小川を模した用水路。そして極めつけには、一流の庭師が造り上げたような庭園まである。経費削減のためか、現在ではそこまで丁寧な手入れはされていないものの、全盛期の六花総合学園へ入学したなら、西洋の宮廷に迷い込んでしまったような錯覚を覚えることになるだろう。
「三日間という制限がなければ、卒業までやらされる羽目になっただろうね」
それは言いすぎだが、ついつい同意してしまうほど過酷な試練であった。
余談ではあるが、六花廷に負けた男子生徒の罰は、主に掃除やら草取りやらのボランティアが多い。故にここの男子生徒は、六花総合学園専属の用務員さんからは非常に評判が良かったりする。
「僕たちも、些細なことで訴えられることがないよう、日頃から気を付けないと」
「もっともだ」
とは言いつつも、弁護する側の俺には縁のない話だがな。
ふと視線を合わせると、周防が口元を釣り上げて笑みを見せた。
「にしても野村君。君はノリノリで六花廷に臨んでいるようじゃないか」
おもむろに立ち上がった周防が、俺に人差し指を突き立てた。
「異議あり!」
「ぐわはぁっ!?」
それは不意打ちすぎるだろ。今思うと、恥ずかしくて死にたくなる。
六花廷で弁護している時は、ちょっとした興奮状態になるのだ。今のような他人から見たらとても痛々しい振る舞いも、平然とやってのけてしまうのである。
「ちょっと待て。なんでお前知ってんだよ! 傍聴してなかったんだろ!?」
「お、やっぱり今回もやってたんだ。過去二回ほど、君の弁護を拝聴していたことがあってね。二回とも同じことやってたから、もしかしたら今回もと思っただけだよ」
「友人に対して平然と鎌をかけるな」
「それが僕のアイデンティティだからね」
俺を嘲るように鼻で笑いながら、周防はまたパイプ椅子に腰かけた。
「ただやっぱり、ひと月に八回は多すぎだね。頻度然り、内容然り、今の六花廷は完全にお嬢様方の私物と化してる気がする。いや、もともとそのために作られた法廷なんだろうけど、如何せん手段と目的が逆転している感が否めないんだよなぁ」
独り言のように、周防はしみじみと呟いた。
俺が六花弁護団に入ったのは四月末。今は五月末なので、ちょうどひと月が経った。だが間に中間試験やゴールデンウィークも挟んでいるため、やはり八回という回数は多いのだろう。過去の記録を見れば、その差は歴然だ。
「手段と目的が逆転してるってどういう意味だ?」
あたかも過去の六花廷を見てきたような言葉に、俺はちょっとだけ違和感を覚えた。
「もともと暇つぶしや自らの権威を示す目的があって開かれる六花廷だろう? それが入れ替わってるって話さ」
「暇つぶしを手段として、六花廷そのものが目的になってるってことか? まったくもって意味が分らんぞ」
「……あー、野村君は分からないでもいいかもしれないけどね」
なんのこっちゃ。さらに首を傾げるも、周防は手を振って軽くあしらうだけで、それ以上の説明をする気はないようだった。こいつとの付き合いもまだ一ヶ月そこそこだが、自己完結が多い奴であることはすでに理解しているため、俺もまた深く突っ込まないようにしている。
「で、うまく話をはぐらかされたけど、なんでお前がここにいるんだ?」
俺は荷物を取りに来ただけだが、団員でもない奴が当たり前のように居座ってるのは少々看過できない。主に防犯の観点から。
目を細めて睨むと、周防は人を食ったように鼻息を漏らした。
「心外だな。これでも僕は僕なりに、どう六花廷に臨めば六花弁護団が勝てるのか、人知れず研究してるんだよ」
そう言って、周防は自信満々に左手のファイルを掲げて見せた。
「……鍵は?」
「もちろん、兄貴から借りたさ」
続いて挙げられた右手の中には、この部室の物と思われる鍵。いくら弟だからって、不用心すぎるだろう、あの熊。
「見たところそのファイル、過去の六花廷の議事録なんだろうけど、んなもん見ても参考にゃならんだろ。六花廷で弁護団が無罪を勝ち取るなんて、夢のまた夢だ」
「六花弁護団員にあるまじき発言だな、それは。君は兄貴とは比べ物にならないほどやる気があると思っていたけど、僕の見込み違いだったかな?」
そりゃ、勝負をするからには勝ちたいとは思っている。けど一勝もできず八回も負けていれば、いやでも身に染みて理解できるさ。六花弁護団は六花繚乱倶楽部には勝てない。良くて被告人の罪状を軽くさせるくらいだ、と。
それに俺にやる気があるように見えたのは、ひとえにあいつの激励のせいでもある。
「ま、いいや。君が勝とうが負けようが、僕には関係のないことだ。ただ、君の言い分は議事録に目を通していない証拠だぞ。過去の六花廷でも、実は三割くらいは弁護団が勝っている」
「ほぉ?」
そいつは初耳だ。研究を怠っていた俺に不備があっただけかもしれないが、周防の六花廷に対する積極性は認めざるを得ない。
「そうだね。例えば……今回の六花廷と似たようなやつだと、こういうのもある」
と、周防は手にしていたファイルにざっと目を通した。
「訴訟内容。訴訟人が廊下を歩いていた際、向かいから歩いてくる被告人と目が合い、お互いの面識がないのにもかかわらず、何故か微笑まれた。そのあまりにも不細工な笑顔に訴訟人は悪寒を覚え、精神的な苦痛を与えられた」
「ひでぇな。不細工は罪なのかよ」
「もちろん無罪だよ。むしろこんな内容の書類が通って、六花廷にまで持ち込まれたことに呆れてしまうけどね」
そりゃそうか。いくら大富豪んところのお嬢様だからって、他人の顔をどうこう言える権利はないもんな。
「ただ無罪を言い渡した後の、当時の生徒会長の一言がひどくてね」
「一言?」
「うん。『貴女があの顔に生まれなかった幸福を噛みしめ、我慢しなさい』だってさ」
「……試合に勝って勝負に負けた感じだな」
その場に不細工面の当人もいただろう。かわいそうに。
次に周防は、ファイルのページを一気に飛ばした。
「あとは今のと逆の話で、こんなのもある。去年の裁判だから、僕も兄貴から直に聴いたことのあるやつだ」
「どうせまた、お嬢様の理不尽な言い分なんだろ?」
「六花廷で行われる裁判のほとんどが、男子生徒にとっては理不尽だと思うけど?」
それもそうか。
「けれどこれは違う。少なくとも、僕は被告人の方が悪いと思うけどね」
「無罪になった判例なんだろ?」
「そう、二股をかけた男の話だ」
二股ね。それだけ聞けば確かに被告人の方が悪い気もするが、無罪になるからには何か特別な理由でもあったのだろう。
……いや、その前に、根本的な疑問が浮かんだ。
「この高校って、男女交際よかったっけ?」
「一応、いいことにはなってるよ」
「へぇ、意外だ。もともと女子高だったから、風紀を乱れさせないためにそういう面では厳しいと思ってた」
「ただ交際届なるものを学校側に提出しなくちゃいけないんだけどね」
「交際届?」
「婚姻届や死亡届みたいなものさ。証人もいらないし、書類自体は名前を書いて提出するだけだから簡単だけど、別れる際もその交際届を破棄するための手続きが必要だから、そっちは少々面倒だね」
「そんな制度があったのか。知らなかった……」
「ちなみに生徒手帳の校則一覧のところに載ってるよ」
「マジで?」
入学して以来、一度も開いたことのない生徒手帳にそんな情報があったのか。
「おそらくこの校則も、富豪のための配慮だと思う。自分の娘がどこの馬の骨とも分らん輩と交際しているのがバレたら、学校側としても痛手だろうからね。事前に交際があることを把握していれば、後は何が起こっても個人間の問題だし、申告していなければ校則違反で取り締まれる。学校も学校で、スポンサーの機嫌を損ねないように必死なんだよ」
「じゃあ二股ってのは……」
「そう、れっきとした校則違反だ。被告人は学校側から何かしらの罰を受けたはずだよ。それでも気が済まなかった当事者が、六花廷へ訴えたんだ」
「校則で罰せられたから、六花廷では無罪だったってことか?」
「いや、そうじゃない。まぁ無罪というよりも、判決直前に被告人の弁明によって訴訟人が訴えを取り下げたらしいんだ」
「弁明ねぇ」
そんなギリギリになっての言い訳で納得するようなら、最初から六花廷に訴える必要もないと思うが。最後のわるあがきが、よほど訴訟人の心に響いたんだろうか。
「実はその被告人の顔写真がここにある。これだ」
「……なるほど」
あまりの説得力に、訝しがる間もなく思わず納得してしまった。
六花廷にて無罪。ただしイケメンに限る。
「とまあ、こんな具合かな」
二つの判例を読み終えた周防が、ファイルを棚へと戻した。
「無罪になった判例なんてまだいくつもあるから、君も暇な時くらいは目を通しておいた方がいいんじゃないかな」
「いいや、ちょっと待て。お前が挙げたのはどちらも弁護団ありきの判例じゃないだろ。もっと舌戦が繰り広げられた結果、無罪を勝ち取った判例はないのか?」
「そう言うなら自分で探してみれば?」
無いんだな、きっと。
無罪獲得の判例を聴いて士気を高めようとしていた俺が間違っていた。六花弁護団の道化性を改めて確認させられたようで、逆に萎えてしまったよ。
「さぁて、それじゃあ行くとしようか」
自分の鞄を手にした周防が、俺の肩を叩いてさっさと部室から出て行こうとする。
「結局、お前はここで何してたんだ? 俺を待っていたのか?」
「その通り」
ずずいと顔を寄せてきた周防が、朗らかに微笑んだ。
無邪気な笑顔は実年齢よりも幼く見えるし、とても高校生とは思えないほど荒のない肌してるなぁ。……なんて観察できる距離だったので、俺は露骨に顔を引いた。男に寄られて喜ぶ趣味は、俺にはない。
「五回目の敗訴の後、僕とした約束を覚えていないのかい?」
「あー……言ったな、そういやあ」
雑談の中での何気ない一言だったので、まさか周防が覚えているとは思わなかった。
あぁ言ったよ、確かに言った。『これ以上は負けられない。あと三回連続で負けたら、なんでも好きなもん奢ってやるよ』ってな。
「なんでもとは言ったが、限度はあるぞ」
「僕もそこまで鬼じゃないさ」
ま、いいさ。口は災いの元だって身を以て教えられたんだから、俺の財布が軽くなるくらいのことは我慢してやろう。
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