メロア・シャングリラ

水浦果林

メロア・シャングリラ

「……あなたの、名前は?」

「メロア……」

 始まりの会話と、終わりの会話。 始まりがあれば、終わりがある。

 それを知った時、私は初めて涙を流した。


 🌑私は、表情を持たない少女の前で、ナイフを持ち、フォークを黙々と口に運んだ。アールグレイのティーカップに、窓から差し込む朝の陽光が揺れて溶けていく。

 窓から見える街の景色は、穏やかな自然と趣ある建造物で色づけられていて、美しい。誰かがこの街を『シャングリラ』と呼んでいたことから、今ではすっかりその呼び名が定着している。

 食器がぶつかる微かな音以外に、聴覚を刺激するものは何もない。静かに食事を続ける私の前で、表情を持たない少女は静かに私が動かすナイフを見つめていた。

 艶のあるティファニーブルーの長い髪を揺らし、少女はじっと目を伏せている。ウィスタリアの瞳には光が宿っていないけれど、美麗で可憐な少女であることは痛いほど実感する。

 彼女が此処にきて、もう三日となる。ある朝起きてきたら、家の玄関に立っていたのだ。今のように、感情を持たない表情で。

「……あなたの、名前は?」

 おそるおそるそう問うたとき、彼女は温度のない、冷たい声でこう答えた。

「メロア……」

 その記憶は、まるで昨日のことのように覚えている。


 🌒メロアは、私の家に住み着いた、機械のような少女だった。言うことは聞く、けれどそれ以上のことを何もしない。本当に機械的な少女だった。

 なぜ私の家に住み着いたのか、なぜ笑いも何もしないのか。聞いてみたいことは山ほどあったが、きっと彼女は答えられないだろう。

 試したことはないのに、なんとなく、そう思った。


「……あー、しまった。やらかした……」

 🌓私は、とある実験が上手くいかないことに頭を抱えていた。この世の中、全てが上手くいくわけがないことなんて、十二分に分かっている。

 それでも「行けるかもしれない」という期待から落ちる喪失感の重さは変わらない。分別がつくようになっても、私にもまだ子どものような心があるのだ。

 それに、時折安堵する事がある。……実験に失敗しているのだから、なんとも複雑だけれど。

「……博士」

 机に突っ伏していると、彼女が私の部屋へ入ってくる気配がした。けれど、落ち込んだ私に、顔をもたげる元気はない。心が痛むが、寝た振りをさせてもらおう。

 メロアは、私の周りをぐるぐると回りながら、私を観察しているようだった。何に感心しているのか「あぇ」や「おおー」という、不思議な感嘆が漏れ出ている。

 暫くすると私の観察には飽きたようで、近くの床にぺたんと座ったのが薄目で見えた。それから、すうっと息を吸う音がした。


「♪籠の鳥と鳴らす 夢の一雫を まだ見えない 貴方に 私は渡すの」

 いきなり、メロアは歌い出した。ゆったり穏やかで、やっぱりどこか機械的なソプラノで。

 機械的で冷たいはずなのに、その声は何故かすっと入ってくる。

 私の、知らない歌。けれど、普段音楽を聴かない私が好きだと思うような、美しい歌い方だった。

「♪苦い明日の光 遠く暗い痛みに 一度だけ触れてみたいとすら願うの」

 ……知らぬ間に泣く、だなんて。そんなことがあり得るものか。

 メロアに見えない状態で、子どものような意地を張って、私はひっそりと泣いていた。

 彼女の、あまりに穏やかな歌声に、心が溶かされるのを感じた。


 🌔彼女の歌声を聞いたときから一曲、歌わせてみたい曲があった。

 私が帰郷するときに口遊む、穏やかな唄。それを私は時折、メロアの目の前で歌ってみた。あまり上手ではないけれど、音は取れているはずだ。

 時間はかかったけれど、数年経ったある日、彼女は軽く口にした。

 初めてその音を耳が拾った時、これ以上にこの唄を美しく思うことは二度とないと確信するほどだった。

 自然と、その美しさに聞き入って、息を止めて口を閉じる。

 窓辺で優雅に椅子を揺らして、感情のない瞳を夕日に照らした彼女は、ひとしきり歌い終えると私の方を向いた。

 目に感情が宿っていないのはいつものことだけれど。今日はそれが、妙に無垢な子供のように見えた。

「♪空を揺らした 光の涙 私は唯一人佇み その一人を 私一人を まだ横に置いて」

 綺麗だ。


🌕️知ってはいたけれど。私の体はボロボロなのだと。時がたち、もう体すら動かせなくなった私は、そっと彼女を見た。

……彼女も泣くことがあるのか。それとも、ようやっと、泣けるようになったのだろうか。

「……ねぇ、博士」

 震えるその声に、私は微笑んで返す。きっとこれが、最後の会話になるだろう。

「……あなたの、名前は?」

 消え入るような、そんな声。辺りが静寂に染まっているから、僅かな声量でもよく聞こえた。

 ああ、言っていなかったか。そうか、そうか……。

「……メロア」

 同じ名を持つ君へ、私はありがとうと一言言いたい。

 もう、そんな力は残っていないけれど。

 急な眠気に、私はそっと目を閉じる。彼女の声は、最後までは聞こえなかった。

 

 始まりと、終わり。それを理解したとき、私は、初めて涙を流した。

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メロア・シャングリラ 水浦果林 @03karin

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