第10話 オフィール

 私の目の前にはヒヨコがいる。


 比喩ではない。本物のヒヨコだ。ドラゴンとの戦闘で怪我をした兵士に回復魔法をかけに彼の自宅まで行ったら、ちょうど卵が孵化するところだったのだ。そしてついでにどうぞともらったのだ。オスかメスかは分からない。


 ただ、ヒヨコにしては態度が大きい。ヒヨコというのは可愛いものだと思っていたが、このヒヨコは私に対してメンチを切っているようにしか見えない。セルヴァに「うわ、このヒヨコ。メンチ切ってる」と言われ、初めてその方言を知った。


 普段は私を睨み上げるくせに、夜眠る時になると一緒にベッドに入ってくるのだ。ヒヨコは温度に注意しないといけないと聞いたから小屋まで作ってやったのに、ふわふわした尻を私の頬にグイグイ寄せて眠る。


 まるで、誰かさんみたいだ。

 その誰かさんは私のファーストキスを激しく軽々しく奪っておきながら、今日も昨日も一昨日もその前も魔物狩りに忙しい。私も王妃と第二王子の動きを封じるのに忙しいからすれ違っている。


「ヒヨコに名前をつけないんですか?」

「え?」


 ロイドに問われて、目の前のヒヨコに意識を戻す。相変わらず机の上に用意された上等なクッションに尻を落ち着けて、下から私にメンチを切ってくる。いや、小屋にいてくれ。


「ずっと一緒にいるのですから名前をつけたらいいじゃないですか」

「名前……」


 王宮では私の大切な人は大抵奪われてきた。いつの間にか辞めさせられた私の味方だった使用人たちだってそうだ。乳母だって辞めさせられた。ロイドは学園に入学して私と一緒にいてくれたのだ、王宮だったらそれは無理だっただろう。


 だから、私はペットとして何かを飼うとか、目の前のものがずっと自分と一緒にいると思っていなかった。名前をつけるなんて思いつきもしなかったのだ。


 書類上の妻は「死ぬまで側にいろ」とか「責任取れ」と脅してきたのだが……しかしその彼女とはほとんど会う機会がない。文字通り廊下ですれ違うだけ。そもそも、彼女は私よりもライナーとよく一緒にいるではないか。


 もしかして、釣った魚に餌をやらないタイプだろうか。

 いや食事は食べさせてもらっているが……。


「思いつかないから辺境伯に相談してくる。この書類の件のついでに」

「あ、はい」


 ロイドの「なんで辺境伯に聞くんだ?」と言いたげな表情は無視した。私だって知りたいが、こうでもしないと話す口実がない。



「ピヨ二世」


 私のファーストキスを奪った辺境伯は、腕を組んでヒヨコをじっくり眺めてそう口にした。


「……どうして二世なんだ? 一世もいるのか?」

「ピヨ一世はあなただろう」


 彼女の後ろでライナーが吹き出さないように腹に力を込めて百面相している。彼は本当に弁えた男だ。


「ライナーはどう思う」


 彼女は振り返ってライナーに問う。ヒヨコはなぜかふてぶてしく私の頭に乗っている状態だ。移動の時はいつもこうなのだ。一人で出て行こうとするとピィピィ甲高く喚く。辺境伯もこのくらいだったら嬉しいのに。


黄色疾風おうしょくしっぷう一号はいかがでしょうか」


 ない。それは絶対ない。この二人は揃ってネーミングセンスが皆無だ。ヒヨコは不満を表しているのか私の髪を嘴で引っ張り始めた。やめてくれ、ハゲる。

 辺境伯は寝ぼけてこの前私の髪の毛を抜いたが、ヒヨコに毎回引っ張られては困る。


「ヒヨコはその名前では不満なようだ」

「あなたが世話するのだから、あなたがつけた方がいいだろう」


 辺境伯は書類を確認すると「ん、問題ない」とばかりに私に戻してきた。資材を追加で仕入れるのに、どこが最も質と価格が最適かという資料だ。

 指が触れ合ったが、彼女は何の反応も示さない。私の心臓はおおげさに高鳴ったのに。


「じゃあ……ライラック」


 彼女の髪と目を見ながら思わず出たその言葉。ヒヨコはやっと私の髪を引っ張るのをやめた。


「そのヒヨコのどこにもライラック色はないが」

「ライラックの花言葉は友情だから……」

「ほぉ、花に意味があるのか。知らなかった。ライナー?」

「もちろん知りませんでした。オフィール様は博識でいらっしゃいますね」


 ライナーは私を殿下と呼ぶのをやめてくれた。彼はしれっと名前で呼んでくれるのに、辺境伯はまだ「あなた」呼ばわりだ。


 しかし、本当のことは言えない。彼女の髪と目が綺麗だからライラックにしたなんて言えない。

 それに、彼女の名前を呼ぶのが気恥ずかしいからヒヨコに「ライラ」と呼び掛けて練習して慣れようとしたなんて言えない。


「あなたがいいならそうしたらいい。では、ライラック一世か?」

「普通にライラックで」

「子供ができたらその都度考えるのか」


 書類上の妻は私の唇を奪った癖に、しかもあの後抱きしめて眠った癖に至極平気そうな顔だ。そんなことは一切ありませんでした、とでも言うように。甘く微笑みかけてくれてもいいのに。


 なぜ私はこんなに辺境伯に期待してしまうのだろう。母親を早くに失ったせいか?これまで辺境伯に不満などなかったのに。たった一度キスされただけでこんなになるなんて。まるで、辺境伯のあのキスで自分が別人に作り替えられているようだ。



「紫のライラックの花言葉は『初恋』ですね、殿下」


 部屋に戻ってからロイドに言われて思わず顔を覆った。


「ずっと聞きたかったんですが、解呪した後で辺境伯と何かあったんですか。殿下はずっと様子がおかしいですよ」


 ロイドは相変わらず殿下呼びだ。いきなり「オフィール様」に変えるのもまぁ変だろうな。


「もう、お嫁に行けない」

「まさか……私が大切にお守りしていた殿下が汚されてしまったので!? あ、相手は辺境伯ですか! あ、いやそれ以外だと浮気になりますし困るのですが」


 ロイドの動揺しきった声が聞こえるが、私は顔を覆ったまま反応しなかった。


「殿下は男性なので、嫁入りすることはありません。というかすでに婿入りしているので大丈夫です!」


 こんな私を見るのが初めてであるせいか、私だけでなくロイドも動揺が暴走を始めた。


「あぁぁ、あの虎よりも虎のようにふてぶてしくノシノシ歩き、鷹よりも鷹のように視線が鋭い辺境伯ですよね! それなら殿下が完全に跡形もなく食べられなかったことを幸運に思うべきでしょうか! まさか、そんな関係になどなりそうになかったのに! 辺境伯はいい人ですけれども! 殿下を、そ、その、抱くなど!」

「抱かれていない。キスしただけだ」

「あぁぁぁ、私が守ってきた殿下の唇を!」


 だめだ、ロイドまでおかしくなった。

 ワーワー騒いでいるが、私は先ほどの「初恋」という言葉に顔を赤らめた状態だったので他に反応ができなかった。


 頭上のヒヨコが「おい、しっかりせんかい」とばかりにつついてくるがそれも痛くないほどだった。

 そうだ、ライラックはオスだと判明していた。よく考えれば、オスのヒヨコに向かって妻の名前を呼ぼうと練習するだなんて滑稽だ。


「これが初恋なのか」

「うう……殿下が汚されてしまった……純情な殿下が……」


 その後はあまり仕事にならなかった。

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