夏に、囚われて。

水面あお

第1話

 その人は年に四日しか会えない人だった。

 

 日に当たって少し茶色く見える髪。色白な顔に、ぱっちりとした目。弧を描いたような口元。

 その身には白と紺で構成されたセーラー服を纏っていた。


 女子中学生を称する彼女、夏実は会いに行くたびに墓石の上に座っていた。


 まだ小学校高学年の少年、隆介からすれば彼女はずっと大人に見えた。

 

 二人の出会いは偶然だった。


 隆介は夏休みに暇つぶしがてら周辺を駆け巡っていた。墓地を横切ろうとした時、墓石に腰掛ける彼女を見たのだった。


 その墓地は林に囲まれた少し標高の高いところにある。木の葉によって日差しが遮られ、他の場所よりも比較的涼しい。


 彼女が何をしているのか疑問に思い、足を踏み入れ尋ねると、こう答えた。


「わたし、幽霊なんだ。もう死んでるんだよ」


 あっけからんとした話し方だった。


「じゃあなんで僕には見えるんですか?」

「さあ? お盆だからじゃない?」


 お盆は死者があの世からこの世へ帰ってくる時期だと言われている。一般的には八月の十三日に迎えに行った日から十六日の送る時間まで。


 今日の日付は十三日。

 しかし、お盆の一言で済ませるには些か無理があるように思われた。


「あとは、君が純粋な子どもだからかもね」


 小馬鹿にされたような気もするが、訊けば両親を含むあらゆる人たちに彼女は見えていないようだった。

 彼女は自嘲するように眉を下げ、悲しく笑った。


 家ではなく、ここにずっと居続けるのはそれが理由だろうと隆介は推測する。


「ねえ、暇だったらわたしとのお喋りに付き合ってよ」


 ここから、夏のこの時期になると二人の密かな交流が始まったのだった。





「夏実さんは、お盆の時期以外は何をしているんですか?」


 年上だからと敬語を混ぜつつ、隆介は質問する。


「うーん、記憶ないんだよねえ」

「天国がどんなところかも覚えていないんですか?」

「さっぱり。あはは」


 苦笑いを浮かべる夏実。


 夏実は中学生の時に亡くなった。

 原因は交通事故。詳しくは訊いていないので、何があったかはわからない。


 しかし、彼女に直接尋ねることは躊躇われた。

 辛いことを無理に思い出させたくはない。


 時折、夏実は懐かしむように空を見上げることがあった。

 まるで、もう戻らない日々の記憶に浸っているかのように。


「りゅうくんは学校楽しい?」

「その呼び方はやめてください」

「子どもっぽいから? でもりゅうくんわたしよりも年下じゃん」


 夏実は、からかうように顔をにやけさせる。

 

「夏実さんのこともあだ名で呼びますよ?」

「大歓迎! ぜひ呼んでほしいな!」

「やっぱりいまのなしで」

「えええっ! 呼んでくれたっていいのに」


 ぷくりと頬を膨らませ不貞腐れる夏実。

 彼女のその変な顔を見ていると、思わず吹き出してしまった。


「ちょっ! わたしの顔見て笑うなー!」


 いくつも年齢が離れているはずなのに、距離が近く感じられる。

 過ごした日数は僅かなのに、既に他人とは呼べない間柄となっていた。


 それは夏実の性格のおかげかもしれない。

 彼女は打ち解けるのが上手かった。会話をぐいぐいと引っ張っていってくれる。


 そんな夏実と話すのが、隆介にとっての夏の楽しみだった。


 お盆の最終日がやってくると「また来年!」と別れを告げあった。 

 会えない期間の寂しさをごまかすように、ことさらに明るく。

  




 翌年の夏が来た。


 蝉の声を感じながら隆介が墓地まで行くと、去年と変わらない姿の夏実が待っていた。


「また会えたね」


 夏実は笑顔で出迎えてくれた。

 隆介はそんな彼女の隣に腰掛けた。


「幽霊って食べ物とか食べられるんですかね?」

「どうだろ? 試したことないからわからないや。お腹も空かないし」

「こんなものを持ってきてみたんですけど」


 隆介は肩に引っ掛けたバッグから缶ジュースを取り出す。


「おお! これはリンゴジュースじゃないか! しかも果汁100パーセントの!」

「好きなんですか?」

「好きなんてもんじゃないよ! だーいすきだよ!」


 隆介の手からさっと奪い取って、プルタブに手をかける。

 ぷしゅっといい音がした。


 夏実は缶を両手で持ち、口元まで運ぶ。

 ごくりごくりと彼女の喉が鳴った。


「美味しーい! ああー、生き返るー」

「蘇生するんですか?」

「幽霊ジョークさ。真に受けるな」

「というか、飲めるんですね」

「ほんとだ。しかも、持てるというのも驚き」


 しかし、隆介が夏実に触れようとすると、その手は夏実の身体を貫通した。


「謎だねぇ」

「ですね……」





 さらに数年経過した。


 そのあいだも毎年のように隆介は夏実に会いに行き、とりとめもないことを話して四日間を過ごしていた。


「お、りゅうくん大きくなったねえ」


 中学生になり、成長期を迎えた隆介の身長は急激に伸びた。


 出会った当初はお姉さんのような存在だった夏実とほぼ横並びになっていた。


「夏実さんは変わらないですね」

「幽霊だから年を取らないんだよ」

「来年には僕が追い越しちゃいそうですね」

「あんなに可愛かったぼうやが、もうこんなに凛々しくなってしまうとはなぁ……」


 遠い目で夏実が言う。


「なんだかお年寄りみたいですね」

「だまらっしゃい!」


 隆介が呟くと、威勢の良いツッコミが入った。

 




 さらにその翌年。

 隆介は夏実の身長を大きく超えていた。


「りゅうくん、高校はどこ行くのー?」

「地元の高校に通おうかと。家から近いですし、偏差値もちょうどいいくらいなので」

「あー、あそこね。わたしも行こうと思ってたんだよね」


 なんとなく紡がれた言葉には、もう叶わないという悔しさが込められていた。


 夏実はもう生きていない。


 死んでいることを突きつけるような話の流れから、重い空気が場を支配し、間が生まれる。


 林のざわめき。小さな虫の声。


 微かな音は聞こえるものの、ここは人気のない場所だったため、二人が話を止めると大変静かだった。


 その静寂を断ち切ったのは夏実の言葉だった。


「わたし、中学二年の夏に死んだんだ」


 ちょうど中学二年の夏を生きる隆介は、今の自分と同じ時期に夏実が死んだという事実に背筋を凍らせた。


「ぼんやりとだけれど、進路は地元の高校にしようと思ってた。友達もそこに行く予定だって言ってたからってのが大きいんだけどさ」


 夏実にも友達がいた。

 毎日を平凡に生きていた。


 でも、彼女の人生は中学二年生の夏にぱたりと何の予告もなしに終わりを迎えた。


「ただただ青春してた。ほどほどに勉強して運動して、友達とはしゃいで。この先の人生のことなんかあんま考えてなくて、なんとかなるさーくらいの精神で生きてた」


 将来のことなんてあまり深く考えず、自由奔放に生きていた。

 それは隆介も同じだった。ただ目の前のことだけで精いっぱいだった。


「夏休みのある日さ、友達の家で遊ぶことになって、そこに向かってたの」


 口を挟むことなどできず、ただ頷き続ける隆介。


「そしたらさ、歩道に車が突っ込んできて……」


 そこで夏実は、ひと呼吸した。


 当時の記憶をなぞって思い出すかのように。


「いきなりのことで何もできなかった。頭が追いつかなかった。スローモーションみたいに景色が流れていくのに何も考えられなかった。最後の記憶は空を見ていたってこと。どこまでも青くて綺麗だった」


 車に突き飛ばされ、空を舞った。

 言外にそう込められていたのを隆介は感じ取った。


「夏実って名前なのにまさか夏に死ぬとは思わなかったなあ。せっかくいい名前つけてもらったのに親不孝な娘じゃんか」


 自分を下げるような発言をする夏実。


 隆介には、それが耐えられなかった。


「親不孝なんかじゃないですよ。夏実さんなりに生きて、両親にいろんなものをあげたと僕は思いますよ」


 夏実と毎年のように話して、彼女のことを知った。

 だからこそ夏実は、生前もたくさんの人に優しさを分け与えてきたのだと確信できた。


「……こんなしょうもない懺悔に付き合ってくれてありがとね」

「いくらでも付き合いますよ、これくらい」


 夏実の気持ちが軽くなるならいくらでも話を聞いてあげたい、そんな心情だった。


「にしても、突然こんな話をしたところで何って感じだよね」


 夏実は我に返ったようにぼやく。


「僕にとってはこの時期にこの話を聞けたのは大きな意味があると思いますけどね」


 隆介にとっては今だからこそ響くものがあった。死なんて間近に感じたことのかった自分に深い思慮をもたらしてくれた。


「そう? まあ、まとめとしてわたしが言いたいのはさ、別に自分があっけなく死んだからって、一日一日を懸命に生きろとか、後悔のないように生きろなんてそんな強気なことじゃなくってさ……」


 夏実は、遠くに視線を向けた。


「変わらないものなんてなくって、どんなものでもいつか変わっていくんだよ」


 そして、短く間を空けて、


「わたしを置いて、ね」


 と続けた。


 夏実はもう成長しない。

 ずっと停滞したままだ。


 出会ったあの時からずっと。


 そして隆介は成長している。

 その背丈は夏実を追い越してもなお止まらずに。


「でもそれでいいと思うんだ。わたしは過去の人。今を生きる人は、過去に囚われてちゃいけないんだよ」


 苦しい気持ちを押し殺すようにして夏実は吐き出した。彼女の表情が微かに強張る。


「いつか、わたしたちにも別れが来るかもしれない。その時は笑ってほしいな」


 夏実はそう言って笑った。


 その笑顔は心の底からのものではなく、無理に取り繕ったようでどこか寂しそうだった。





 時は流れ、隆介は高校生になった。


 その最初の夏のことだった。


「高校、ちゃんと受かりましたよ!」

「おおー! おめでとう!」

「友達も作って部活にも入って、絶賛青春中です」

「いいなぁ、眩しいわぁ」


 羨望の眼差しを隆介へと向ける夏実。


「部活は何を?」

「ソフトテニスにしました。中学の時は卓球でしたが、高校は違うのにしたいなと思っていたので」

「テニスかー、やったことないんだよなー」

「ラケット持ってきて一緒にやります?」

「いや、幽霊がテニスやったら怪奇現象になるからやめとくわ」


 確かにそうだなと、二人でからからと笑い合った。





 その翌年も、隆介は夏実に会いに行った。


「そういえば、勉強は頑張ってるかーい?」

「まぁぼちぼちですね」

「進路はどうするの?」

「大学行こうかなと、県外の。遠いので一人暮らしですね」


 隆介のその言葉に、夏実の肩がぴくっと揺れる。


「大学に進学しても、夏休みになったら帰省する……よね?」

「そうしないと夏実さんが悲しみますからね」

「おいっ! わたしが寂しがり屋みたいな発言すな!」


 実際のところ夏実は寂しがり屋だった。


 隆介が会いに行けない日があると、翌日会った時に全力で拗ねたのだった。

 おまけに、詫びとして果汁100パーセントのリンゴジュースを必ず強請ねだってくるのだ。



 


「大学生って忙しいんですね」

「あれそうなの? あ、そうだ、合格おめでとう!」


 熾烈な受験競争を勝ち抜き、迎えた大学生の夏。隆介は夏実に近況を報告していた。


 日は暮れかけ、あたりからはヒグラシの鳴き声が聞こえる。


「ありがとうございます。……理系だからなのか、かなりやばいです。実験やらなんやらで朝から晩まで拘束されてますよ」


 入学するまでこんなに大変だとは思わなかった。


 受験勉強もかなり辛かったが、大学生活もなかなかに大変だ。

 そこにバイトも加わってくるので自由時間が恋しい。


「うわー……。まあ、ほどほどにふぁいとだよ! りゅうくん!」


 夏実はそう笑顔で応援してくれた。


 彼女の笑う顔と元気な応援が、疲れた心にじんわりと染み渡っていった。





「去年は会えなくてすみません。夏の間も忙しくて」

「いいっていいって」


 夏実は気にしないでと笑って流すが、隆介は彼女が本当は落ち込んでいることに気付いていた。


 夏実は表情を取り繕うのが苦手だ。


 笑っていてもその笑顔が無理に作られたものだと、隆介にはわかってしまうのだ。


 そのため、寂しがり屋な夏実が元気を出してくれるよう、あるものを持ってきていた。


「お詫びと言ってはなんですが」


 瓶のリンゴジュースをバッグから取り出す。

 バイト代で買ったものだ。

 なかなか値が張ったが、夏実が喜ぶ顔を想像したら自然と手が伸びた。


「おお! これは果汁100パーセントのリンゴジュースじゃないかー! しかもこんなに大容量!」

「ほんと好きですね」


 夏実が目に見えて元気を取り戻したので、隆介もつられて笑顔になる。


 夏実は瓶を開けて、早速直で飲み始める。


「くはぁー。うんまぁー!」

「酒飲んでるみたいに飲みますね」

「あ、お酒と言えばもう飲めるようになったの?」

「はい、まあ少量ですけど」

「いいなあ、お酒飲んでみたかったなー」

「別に美味しくないですよ? ビールなんてめっちゃ不味いです」


 誕生日を迎えた日に飲んでみたが、こんなに美味しくないとは思わなかった。


「でも酒の味はいずれわかるようになるとかなんとか言うじゃん」

「あの苦い味がわかるような未来が来るとは、今のところ思えませんがね」

「そんな苦いんか。幽霊は法律関係ないし、飲んでみようかな……なんて」

「ちょうど今、手元にありますよ」


 バッグをガサゴソと漁って、缶ビールを手に取る。


 夏実はそれを一瞥した後、表情を曇らせて、


「うーん、やっぱりいいや」


 と顔を引きらせながら遠慮した。


「飲む寸前になってビビりましたか?」

「いいいいいや? びび、びびってないし?」


 噛み噛みだった。


「びびりすぎです。ただ苦いだけですって。もしかして舌がかなり子どもなんですか? あ、リンゴジュース好きですもんね」

「おい、わたしの方が年上だぞ? 馬鹿にしちゃ駄目だぞ! 不敬罪で訴えてやる!」


 結局、夏実は酒には挑戦しなかった。



*****

 


 あれから隆介とは何年も会っていない。


 最後に会ったのは彼が大学三年生の頃。


 微かに耳へ届くスズムシの鳴き声が、寂しさを一層掻き立てる。


「わたしのこと、忘れちゃったのかな……」


 夏実は夜の墓地で一人ぽつりと漏らす。


 言葉に引っ張られるように目が潤んでくる。

 それを拭いもせず、ただ悲しみに身を委ねていた。



 その時だった。


 さくりと地面を踏みしめる音が聞こえた。


 夏実は音の方へ視線を向ける。


 そこにはスーツ姿の男性がいた。

 日は沈みかけており、影になってその顔はよく見えない。


 その男性は夏実の方へ歩いてきた。


 間近に来て夏実はやっと気付いた。


 彼は隆介だった。


 その顔は記憶のものよりも随分大人びており、認識するのに時間がかかった。


「りゅう、くん」


 夏実は手を伸ばし、掠れた声を出す。


「久しぶりですね。本当に遅くなりました」


 どれだけ成長しても変わらない言葉遣いに、少し笑みがこぼれる。


 彼にとって、夏実は永遠に年上のような存在なのだろう。


 隆介は手に何か持っていたが、暗くてよく見えなかったこともあり夏実はあまり気に留めなかった。


 それよりも今は、久々に会えたことが嬉しくて胸がいっぱいだった。


「りゅうくん、わたしずっと待ってたのに、遅いよ」


 嬉し涙を流しながら夏実は言う。


「大学の後期は忙しくて、卒業してからは仕事に忙殺されてて、なかなか来れなかった。そんなこと言ってもただの言い訳でしかないけれど。本当にごめん」


 隆介は誠心誠意、謝罪する。

 その謝罪が重苦しかったから、夏実は場を和ませようとした。


「まあでも、ちゃんと来てくれたから特別に許してあげる。あ、お詫びのリンゴジュースは所望するけどね」


 年上の矜持をなんとか見せつける夏実。しかし涙を流してぐしゃぐしゃになった顔がそれを台無しにしていた。


 だが、夏実がリンゴジュースを所望しているにもかかわらず、隆介は何の言葉も返さない。


 不思議に思った夏実は、おーいと呼びかけたが隆介はそれに答えなかった。


 その代わり、隆介はまるで独り言のように小さく言葉を零した。


「……夏実さんはいつも絶対にここにいたから、今日もいると思ったんだけど。もういなくなっちゃったのかな」


「……え?」


 何を言われたのかわからなかった。


 いや、わかりたくなかった。


「それとも、僕が見えていないだけで目の前にいたりするのかな」


 純粋な疑問。

 そこにわざとらしさは感じられない。


「……」


 完全に大人となった隆介には夏実の姿は見えていなかった。

 その姿が、夏実を見ることができない家族や知人と被る。


「嘘でしょ……ねえ、冗談だよね? わたしはここにいるよ? ほんとは見えてるんだよね?」


 一縷の望みにかけて、夏実はおそるおそる問う。


「夏実さんが聞いてるかわからないですけど、一応言っておきますね」


 だが、夏実の声は届かず、隆介は残酷とも言える台詞を続ける。


「僕、ここに来るのは今回で最後にしようと思って来たんです」


 時が、止まったみたいだった。


 永遠でもあり、一瞬でもあったけれど、すべてが止まったように思えた。


 夏実も隆介も。

 林の音も、虫の声も。


「え……」


 夏実は呆然としてしまい、何も言えなかった。


「夏実さん前に言ってましたよね。過去に囚われるなって」


 そうだ、確かに言った。

 隆介に毎年来てもらうことへの罪悪感から。


「夏実さんと会う日々はすごく楽しかったです。僕の一生の思い出です。だからこそ、いつまでもそのことに囚われてしまうんです」


 囚われる。

 その言葉が心にぐさりと刺さる。


 自分の言った台詞が返ってくるとはこういうことかと自嘲した。


 けど、受け入れたくなかった。


 いざ別れが来たら駄々をこねるなんて本当に大人げない。

 そうわかってはいても、夏実は納得できなかった。


「永遠はない。何事もいつかどこかでけじめをつけなくちゃいけない。夏実さんはもう亡くなっていて、本当は会えるはずないんだって。だから、これは僕なりのけじめなんです」


 二人は囚われていた。


 あの夏に。

 この関係性に。


 死者と生者という本来会ってはならないはずの関係が拠り所となっていた。


「夏実さん、僕にとってあなたは初恋の人でした」


 夏実の目から溢れた涙が頬を伝う。


「二人で過ごした時間はかけがえのないものです。僕の子ども時代の大切な思い出です。本当に、今までありがとうございました」


 隆介は少ししゃがんで、何かをした。

 けれど、夏実はその行動に目がいかないくらい全身に焦りが生じていた。


 次に紡がれる言葉を聞きたくなかった。


 予想できてしまったから。


 そんなことないと必死で心に蓋をしながら隆介の言葉を待った。

 

 これから宣告を受けるみたいにゆっくりと時間が流れていく。


 どれだけ時が経ったのか。

 不意にその言葉は告げられた。


「さようなら」


 感情を無理矢理捨て去ったような言い方だった。


 隆介は言い終わるなり、身体を帰路の方へと向ける。


 その足が動く。


 一歩、二歩と。


 隆介が少しずつ遠くなっていく。


「待って!!」


 夏実は隆介の背中にありったけの大声をぶつけた。

 普段ここまで出さないからか、その声は乱れていた。


「嫌だ! 行かないで! ねえ待ってよりゅうくん! 待ってってば!!」


 夏実は縋るように無我夢中で叫び続ける。

 しかしその声は隆介には聞こえていない。


 墓地の敷地から出る直前、ふと隆介が振り返った。


 そして、目をまん丸とさせた。


 口は半開きにされ、そこから震えた声が紡がれる。


「夏実……さん」


 奇跡が、起こった。


「見え、るの?」


 夏実はこわごわと確かめるように言う。


「ずっと、ずっと、いたんですね」


 隆介は申し訳無さそうに笑った。


「いたよ。全部、聞いてたよ」


 夏実はそう涙ながらに告げる。


「なんで急に見えなくなったりしたのさ」

「もしかしたら僕が大人になってしまったからかもしれませんね」


 大人。その単語が心に重くのしかかる。


「大学生の頃は見えてたじゃんか」

「あの頃の僕は社会の厳しさを知らなかったので、まだ子どもだったんですよ。きっと……」


 遠い日を懐かしむような空気感に包まれる。


「……もう会いに来てくれないの? 寂しくて泣いちゃうよ? 取り憑いちゃうかもしれないよ?」


 夏実は別れが嫌で嫌で、引き止めるように必死で説得する。

 自分でも嫌なやつだと思った。


 あまりにも、囚われすぎていると。


「だいぶ重いですね」


 隆介は眉を下げて小さく笑う。


「こんなわたしじゃ、嫌?」

「いえ。そんな夏実さんだから好きになったので」

 

 夏実の胸が一気に熱くなった。


「口が上手くなったなあ」


 身体に生まれた熱を誤魔化すようにそんなことを言う。


 隆介と面と向かったことで夏実はふと気付いた。


 背丈の違い。

 スーツと制服。

 社会人と女子中学生。


 何も知らぬ人が見れば、歪にしか見えない関係性。


 自分が年に四日だけ進まないのに対して、隆介は三六五日進んだ。


 その分だけ、隆介との精神年齢は離れていった。


 もう、初めて出会った時からもう十年以上が経過しているのだ。


 時が生み出した隔たりは、あまりにも大きかった。


 止まり続ける夏実。

 一方で隆介はこの先も進み続ける。


 隔たりは、ますます大きくなっていく。


 それでも、夏実は変わらぬものがあると信じたかった。

 どれだけ時が流れようとも、その力に抗うように。


「……今度会うのはさ、りゅうくんがおじいちゃんになってからね」


 こんな約束、数年もすれば忘れられてしまうかもしれない。


 でも、もしかしたら覚えててくれるかもしれない。


 ずっと、ずっと先まで。


「それまで、天国で待ってるから!」


 夏実にとってはあっという間かもしれないが、隆介にとっては果てしなく長い道のり。


「わたしに語っても語りきれないくらい思い出をいっぱい作るんだぞ!」


 夏実は隆介ならきっとまた会いに来てくれると思っていた。


 ここじゃなくなっていい。


 会って話せるのなら、どこでも。


「はい!」


 隆介は威勢よく返事した。


「それじゃあ、またね」


 永遠の別れじゃない。


 またいつか、会うのだ。

 会って、話すのだ。


 くだらないことでいい。

 些細なことでいい。


 それが二人の、過去から今まで続いていた関係なのだから。


「夏実さん、元気で!」

「りゅうくんもね!」


 お互い笑顔で見つめ合った。


 そして同時に視線を外す。


 隆介は背中を向け、去っていく。

 もう、振り返らなかった。


 夏実も身体の向きを隆介から墓石の方へ変える。


 二人の距離は遠ざかっていく。


 夏実はよろよろと力なく歩いた。


 堪えていた涙が目から溢れてくる。


 本当は別れなんて嫌だった。

 ずっと話していたい。

 でもそれでは隆介を縛り付けることになってしまう。


 夏実は自分の感情よりも隆介のことを優先した。


 胸をぎゅっと苦しめるような気持ちが溢れてくる。


 涙が止まらない。息が苦しい。


 そうして嗚咽を漏らしながらも、なんとか墓石の前まで辿り着いた。


 涙で滲む視界の中、墓石の上に何かが置かれていることに気付く。

 そういえば隆介は何か持ってきていたことを思い出す。


 手の甲で涙を拭うと、ぼやけた視界から景色が形を取り戻していく。

 


 墓石の上には、果汁100パーセントのリンゴジュース瓶が置かれていた。

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夏に、囚われて。 水面あお @axtuoi

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