アザトースト
いまや打ち捨てられた清らで美しい幻想を、再び手中に収めるチャンスがあった。
木々の間から冷たく差し込む月明かりが、人間たちを慈悲深く守るヴェールを切り裂き、どこまでも続く混沌の世界を顕にした。
無秩序の楽園からは、地底の歌にも似た子守唄が調子を崩さず響き、遠くの星が高速で回転し、天を衝くほどに立ち昇る炎は歓喜に満ちて舞う。
まもなく、向こう岸に座す窮極の王が招き入れるように身を捩らせ、穢らわしく乾いた泡を零した。僕は甘美な誘惑に囚えられ、ヴェールの裂け目に飛び込み、混沌と一体になった。死と生とが分かたれる以前の魂の臭いに息を止めたが、もはや呼吸など必要なかった。
窮極に座す蒙昧な泡に接近するにつれて、僕はえもいわれぬ恍惚を覚えた。名も知らぬそれを賛美しては、王に傅き、触れ、口づけし、己が至る姿に思いを馳せ、眠りにつく直前にも似た幻影が泡と星々を断絶する虚を満たした。
いよいよ不規則に胎動する塊に形のない指先が触れたその瞬間、僕は言いようもない不安と恐怖に急き立てられて来た道を引き返そうとした。
逃げなければならない。このような有害で淫猥な無秩序の空間にいてはならない!
僕を包む子守唄と歓喜の踊りとが、酷く歪み捻じれ、道を掻き消そうとする。先刻までの大いなる賛美と恍惚が、いまや僕を永遠の牢獄に捕らえんとする悪意となった。
柔らかな月明かりの飛び石から落ちないように、冷えきった足を必死に持ち上げて滑稽に跳びはねる。
いよいよ背後の星と光が激しく燃え上がり、僕を飲み込もうとした瞬間、僕はヴェールの内側へ飛び込んだ。
気がつくと真横から陽の光が差し込み、僕の身体をまだらに照らしていた。
夢だった……ひどい悪夢だった……と己を無理矢理納得させて起き上がる。顔を洗わなければならないし、昼間はまた色々言いつけられるのだから。
何気なく手を視界に入れた瞬間、玉虫色の乾いた泡がこびりついていることに気が付き、僕は叫んだ。
「助けてグラーキー様!」
グラーキー様が緩慢に歩み寄ってきたかと思うと、呆れた顔で僕の頬をぶった。
乾いた泡を握ればシャワっと軽い音を立てて萎む。僕の心にも似ている。
「ルカくんの夢の話が本当だったら、これはアザトースの肉体の一部ってわけだ」
「本当じゃなかったら何なんですか」
「本当じゃなかったら……森の怪物の、何かとか」
どっちに転んでも謎の物質だ。
グラーキー様が僕の手にこびりついた泡をまじまじと眺めると、やにわにすくい取って一舐めした。
「ん、甘い」
……舐めた?
僕の主は何をしているのだろうか。
「あはは、これを炙ってアザトースト、なんてな」
主は、寝床の側に置いてあるガタガタのツールボックスからプラスチックのライターを取り出した。
「折角だしな。こんな馬鹿みたいな洒落、なかなか出来ないもんな」
とかなんとか言いながら泡をあぶり始めた。泡がむくむくと膨れ、カルメ焼きのような見た目に変貌してゆく。
馬鹿みたいだし洒落にならないことだ。
僕はまだ夢を見ているのだろうか?主の悪食はよく知っているが、ここまでだっただろうか。
それとも案外アザトースは、食物的にイケる方だったりするのかな。
グラーキー様は僕の気持ちなど意に介さず、膨れて硬くなった泡を齧る。途端に顔がほころんで、ふっと全身の力が抜けた。
敬愛する主が後ろに倒れ込みそうになったのを慌てて受け止める。
イケないやつだったのか。
グラーキー様を優しく寝かせてから、妙に冷静な頭で考える。
グラーキー様の精神か何かが、アザトースを摂取することによって何処かへ飛んだのだろうか?
だとすれば僕も今すぐコレを齧れば同じところへ飛ぶはずだ。確信はないが、僕の直感と心が正しいと叫んでいる。
足元に転がったアザトースのトースト、アザトーストをグラーキー様と同じだけ齧った。
口の中に渋みと苦味が広がる。その奥に、微かに甘みがあり、飲み下すと甘ったるい匂いが喉奥を満たした。
不味い!
ぐるりと視界が回り、背中に衝撃を感じると、僕は空を飛んでいた。
ところでトーストという言葉は、終わっただとか破滅を意味するスラングでもあるらしい。
アイムトースト。アイムトースト……
その後、僕たちが無事に島へ戻って来るまでの出来事は、非常に複雑怪奇かつ長ったらしくなってしまい、この話の趣旨に反してしまうため語らないこととしよう。
ただ言えることは、あれが間違いなくアザトースであったことと、我々が見られる星のいくつかはアザトースの仔の死骸であったということである。
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