EP.3敵対のはじまり
朝日が窓から差し込む部屋で、俺は物思いに耽っていた。昨日の出来事が頭から離れない。コンさんとの口づけ、そして寸前で止めた行為。あの時の彼の困惑した表情が、まるで焼き付いたように脳裏に浮かぶ。
朝食の時間、コンさんはどこか気まずそうにしていた。いつもの明るい挨拶もなく、料理を黙々と口に運ぶ姿に胸が締め付けられた。食事を終えるとすぐに、彼はそそくさと自分の部屋に戻ってしまった。
この状況をこのままにしておくわけにはいかない。俺は深く息を吐き、決意を固めた。コンさんにはもっと多くのことを経験してほしい。昨日のような勘違いを避けるためにも、彼の世界を広げる必要がある。
コンさんの部屋の前に立ち、俺はゆっくりとドアをノックした。「僕の部屋には入らないでください」という彼の言葉を思い出し、廊下で待つことにする。
しばらくして、ドアが少しだけ開き、コンさんの顔が覗いた。その青い瞳に昨日の名残りの戸惑いが見えた気がした。
「コンさん、突然だが、動物園行かないか。」俺は優しく、でも少し緊張した声で言った。
「動物園……って、なんですか?」コンさんの声には純粋な疑問が混じっていた。
「ああ、知らないか。」俺は少し困ったように頭をかいた。
「ええと……それは後で説明するが、要は二人で出かけないかってことだ。つまりはデートだ、わかるか?」
「デート、ですか。」
コンさんは少し考え込んだ。その表情に、俺は昨日の罪悪感が再び湧き上がるのを感じた。しかし、すぐにコンさんの顔に小さな微笑みが浮かんだ。
「わかりました、行きましょう。支度するので待っててください。」
そう告げて、コンさんは静かに扉を閉めた。その瞬間、俺の胸に安堵感が広がった。これで少しでも彼の知識を増やせるかもしれない。世界を広げることで、コンさんの中にある何かが変わるかもしれない。
俺も急いで外出の支度を始めた。動物園でコンさんがどんな反応を見せるのか、少し期待と不安が入り混じる。昨日のぎこちなさを払拭し、新たな思い出を作れることを願いながら、俺は準備を整えた。
朝の街を歩きながら、俺は自分の服装を見直した。着ているものは全てコンさんにもらったものばかりだ。大したおめかしはできなかったが、それでも特別な一日になりそうな予感がした。
電車に乗り込み、動物園へ向かう間、俺はコンさんに動物園について説明を始めた。だが、すぐに気づいたのは、彼の知識の欠如が予想以上だということだった。
「コンさん、この世界には人間以外にも『動物』と呼ばれる生き物がいるんだ」
コンさんは興味深そうに聞いていたが、その表情には戸惑いも見えた。
「それらは自然界で生きているんだけど、珍しいものは動物園で飼育されて、人々に見せているんだ」
駅前で鳩を見かけた時、コンさんの反応に俺は驚いた。彼にとっては鳩を鳥として認識すること自体が初めての経験だったようだ。
動物園に到着し、様々な展示を回る中で、コンさんの反応を観察した。ゾウ、猿、キリン、兎...彼はそれぞれを「大きい」「小さい」「首が長い」といった特徴で区別しようとしていた。
「これは長くかかりそうだな...」と心の中でつぶやいていたとき、コンさんがある展示に目を向けているのに気づいた。
それは動物の進化に関する展示だった。ダーウィンの進化論が簡潔に説明されている。
「コンさん、その展示の内容わかるのか?」俺は少し不安そうに尋ねた。
「はい、なんとなく。生き物が子孫を残すごとに少しずつ変わっていったって話ですよね?」
「そうだ」と肯定しながら、俺は急に自分の立場を思い出した。天使である俺は、本来なら神による創造を説明すべきではないのか?
そんな葛藤の中、近くの親子のやり取りが耳に入った。
「あの展示に書いてあることは嘘よ、本当は神様が全部お作りになったのよ」
「そうなのー?」
無邪気な会話だったが、コンさんもこれを聞いていたようだ。
「この展示の内容が嘘って、ほんとなんですか?」
コンさんが俺に向かって尋ねた。
「え、あー...ええと...」言葉に詰まる。「確かに、神様がいて、神様が全ての生き物を作ったという説は、存在する。でもそれと同じくらい、動物が進化してきたという説も信じられてきたことなんだ」
少し間を置いて、俺は続けた。
「コンさんは、どっちを信じたいと思う?」
「本当のほうです」
「本当のことはわからない、大事なのは、自分がどんな考えを信じたいかどうかなんだ」
コンさんはその言葉に対して、少し白けたような表情を浮かべた。しばらく考えた後、彼は口を開いた。
「どっちでもいいです、今この場に、動物たちがいることが一番大事です」
その答えを聞いて、俺の心に安堵感が広がった。同時に、コンさんを守りたいという気持ちが一層強くなった。彼は今生きているものたちを、自分の信念より大事にすると言ってくれた。それはとても心優しい人の言葉だと感じた。
そして、俺は突如として悟った。コンさんを神に関わらせたくないと。彼の優しさを、信仰や正義で曇らせたくはない。俺は最早、神が善良だと信じられなくなっていたのだ。
「そうか、うん、いい答えだと思う」
俺はコンさんの手を取り、その場を後にした。彼の温かい手を握りながら、俺たちの未来について考えずにはいられなかった。この純粋な存在を守り、共に歩んでいく - それが俺の新たな使命になったような気がした。
陽射しが強くなり始めた頃、俺たちは動物園の売店で一休みすることにした。人々の喧騒と動物たちの鳴き声が混ざり合う中、俺はソフトクリームを買うための行列に並んだ。
「コンさん、俺がソフトクリームを買ってくるから、お手洗いに行った後は、二人分のフライドポテトを頼んでくれないか?」
コンさんは頷いて去っていった。その後ろ姿を見送りながら、俺は今日という日がこんなにも幸せなものになるとは思わなかったと感じていた。
行列に並びながら、ふと周りを見渡すと、随分と人が多いことに気づく。家族連れや恋人たち、友人同士...皆それぞれの幸せな時間を過ごしているようだった。
そんな光景にぼんやりと目を向けていると、突然肩を叩かれ、耳元で囁く声がした。
「ニカフィム、どこで道草食っていたんだ。探したぞ。」
その声に、俺は背筋が凍るのを感じた。周囲の人々には気づかれていない、聞こえていない声。それは天使の同僚のものだった。
「ホムンクルスを保有している施設を見つけた。今夜襲撃する。お前も来い。」
その言葉に、俺の心は激しく揺れ動いた。コンさんとの幸せな時間が、ここで中断されてしまうのか。心の中で舌打ちしながらも、俺は冷静を装った。
「わかった。」
そう告げると、同僚が開いた天界への門が目の前に現れた。人々の目には見えない、俺たちだけの世界。その門に足を踏み入れる前、俺は心の中でコンさんに語りかけた。
必ず、必ず戻るからな。
門が閉じる音とともに、俺の姿は現世から消えた。
お手洗いから戻ってきた後、どうするんでしたっけ。一瞬ド忘れしてしまった。
そのとき、突然眩しい光が目に飛び込んできた。空に、あるはずのない扉が浮かんでいる。中から強い光を放っているのに、他の人は誰も気づいていないようだった。
そして、その扉に向かって歩いていくニカさんの姿が見えた。隣には見知らぬ天使。彼らは天界……本来天使がいるべき場所に帰ってしまうのだと直感した。
「待って!」
その言葉が喉まで出かかったのに、声にならない。体が動かない。
扉が閉じて、ニカさんの姿が消えていく。そして扉も消えてしまった。
「……行っちゃった……。」
小さな声が漏れる。ニカさんが天使だってことは分かっていた。いつか天界に帰る日が来るって、うすうす気づいていたけど。
でも、こんなふうに。何も言わずに。
僕のことが嫌いになってしまったのだろうか。それとも、僕がホムンクルスであることに気づかれたのか?
頭の中がぐるぐるする。分からなくて、悲しくて、泣きたいのに涙が出てこない。
そうして立ち尽くしていたから、気づかなかったんだ。
いつの間にか、人払いがされていたことに。
その瞬間、首筋に鋭い痛みが走った。何かが体の中に入ってくる。
吐き気と目まいが襲ってくる。体が人の形を保てなくなる。
分かった。気づいた。でも遅かった。僕を作った場所の人たちが、僕を連れ戻しに来たんだ。
「ずいぶん逃げ回ってくれたじゃないか、一体どこに隠れてたんだ?103-12。」
「せん……せ」
先生。僕らホムンクルスを管理する人。逆らう個体には、こうして毒物を打って痛めつける。
「逃げてる間に人の形も忘れちゃったのか?ぐずぐずじゃないか。興味深い……連れて行け。」
言われるまま、彼の部下たちに掴まれて鉄格子付きのトラックに運ばれる。
「ちが……ぼくは……こ……」
言いたいことが言葉にならない。トラックの扉が閉められ、エンジンの振動が響く。
ここで終わるのか。こんな形でニカさんとお別れしてしまうのか。
あまりの悔しさに、床を強く叩きつけた。
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