第34話 壁、そして崖
──翌朝。陽が昇り始め、人も動き始めたようだ。宿の外を行き交う人の気配を感じて、ヴァンは目を覚ます。身体を起こすと、あまりの不快感に眉を寄せた。自分の身体を見ると汗と精でドロドロだ。
そういえば、リカと何度も身体を重ね、ふたり一緒に果てたまま寝てしまったのだと思い出す。いつものように、力を薄く広げて周囲を探る。まだ、他の者達が寝静まっているらしい。あの者達が起きる前に、この身体をなんとかした方が良いだろう。
ヴァンは隣で寝ているリカを急いで揺すり起こした。
「おい、起きろ」
「……ん」
何度か揺すって、リカはようやくまぶたを開けた。ぼんやりと宙を彷徨っていた視線とぶつかったと思ったら、目を見開いてガバッと起き上がる。
朝の陽の光りで少し明るくなった部屋の中で、リカは一瞬で顔を赤くした。ヴァンの姿を見て、自分がなにをしたのか思い出したらしい。
チラッとこちらに視線を寄こしては、両手で顔を覆っている。その姿を見て、ヴァンは、ふっと笑った。彼の頭をくしゃりと撫でてから、声をかける。
「今のうちにもう一度、風呂屋に行くぞ。さすがにこの身体では出発できん」
「あ、はっ、はいっ! そうですね」
軽く身体を拭いた後、ヴァンはお尻の辺りに重ねた布を挟み込んだ。動けば中から垂れてくる精を受け止めるためだ。それを見たリカは、果実のように真っ赤になった。
そっと宿の扉を開けて、風呂屋へ行く。そして服を脱いで、中に入ると自分達以外に誰もいなかった。
(……ちょうど良かった)
明るい場所で自分の身体を見ると、至るところに赤い花が散っている。これでは、何をしていたのか、一発でわかってしまうだろう。
リカはこちらを何度も見ながら、自分が付けた痕を見て、焦ったようだった。昨晩起きたことが信じられないらしい。小さな声で、本当に、とつぶやいている。
ヴァンの心に、いたずらしたい気持ちが湧いてきた。口の端をくっと吊り上げて、リカの耳元に顔を近づける。
「クーチェリカ。これでお前も一人前の『雄』だな。昨晩は……凄かったぞ」
「ヴァ、ヴァンさんっ!」
大きな声が大浴場の中で反響する。リカは慌てて自分の口を押えた。そして、キッとこちらを睨みつけてくる。その顔があまりに可笑しくてヴァンは、ぶっと噴き出した。
「ヴァン、さん!」
「す、すまん……っふ……っ」
怒ったリカのあごを軽く掴むと、啄むような口づけをする。そうやって彼の機嫌を取ってから、ザバッと立ち上がって風呂を出た。リカもヴァンの後を追いかけるように風呂を出る。そして、宿に戻り、甲冑の男らと合流すると、魔ノ国を目指し歩き始めた。
**
陽が昇り始めると同時に歩き始め、その陽が頭上に輝く頃合いに、木陰を見つけて休憩をする。何度か休憩を挟んで、陽が暮れる頃に野宿──これを何度か繰り返した。
荒れた道を歩いて、道らしい道がなくなった頃、森の中に入って行く。
奥深くまで行き、動物の気配すらなくなったとき、ようやく壁にたどり着いた。
半獣魔の者が、力を使って壁の結界を中和する。そしてその壁を越えて、魔ノ国の中に入った。
「これは……」
リカも甲冑の男達も、魔ノ国の木々の色に驚いている。
今まで見ていた緑色の葉と違い、魔ノ国の木々の葉は赤紫色だ。見慣れない色が不気味なのか、喉をごくりと鳴らしている。
甲冑の男が先頭に立ち、いつでも剣を抜けるように周囲を警戒しながら歩みを進めた。
(……リカと離れるなら、そろそろか)
ヴァンは、彼らの後ろをついて行きつつ考え事をしていた。リカは本物の『勇者』だ。そして、この者達が持っている書簡もまた本物だ。これならば、ブラッドもきっと城の中に通すだろう。であれば、彼らが魔王と対峙する前に、この討伐隊から離れる必要がある。
さて、どうやって離れるか──ヴァンは口を開いた。
「少し休憩しないか」
薬師の男も、見慣れない森の環境に疲弊していたのか、うんうんとうなずいて、ヴァンの意見に同調している。
「向こうから水の音が微かに聞こえた。川があるのかもしれん」
ヴァンはそう言って、彼らを誘導する。草木を掻き分けると、少し開けた場所が見えた。腰を下ろすのに良さそうな場所だ。そちらへ足を踏み出したそのとき、ヴァンは体勢を崩した。地続きだと思っていた場所は、崖になっており、気づかず足を滑らせてしまった。
「──くっ!」
「ヴァンさん!」
崖の出っ張ったところに、片手を引っかけた状態で、なんとかぶら下がっている。
リカが顔を覗かせて、心配そうに声をかけた。手を伸ばしてくるが、その手には届きそうもない。甲冑の男がリカと入れ変わった。しかし、それも届かない。リカは顔を青くして叫んだ。
「もう少しだけ頑張って下さい!」
そう言った後で走り去る音が聞こえる。森の中でなにか道具になるものでも探すつもりなのかもしれない。薬師の男だけが、この場に残っているようだ。オロオロと慌てた顔がこちらを覗いている。
甲冑の男も、半獣魔の者もその場を離れたのか足音が遠くなる。すると、薬師の男の表情が一変した。腰に差していた短剣を引き抜いて、ガリガリと崖を削っている。
ぱらぱらと小石や土塊を落として、それが顔や手に当たり、崖を掴んでいる手が滑りそうになった。
「申し訳ありません。貴方が彼のそばにいると邪魔なんです。『勇者』に心の拠り所はいらない」
「はっ! そっちがお前の本性か」
「どう思ってもらっても構いません。貴方はどうせここで消えるのですから」
「……くっ」
目に土が入ってきて痛い。崖の出っ張りを掴んでいた手も痺れてきた。遠くから、自分の名前を呼ぶ声が聞こえる。リカがこちらに向かっているようだ。
薬師は崖を削る手を止め、短剣を腰の鞘に戻し、後ろに下がる。そばかす顔が視界から消え、見えなくなったと思ったら、リカが顔を出した。
「ヴァンさん! これを!」
そう言って差し出してきたのは、蔦。森の木々にぶら下っていた蔦を取ってきたらしい。ヴァンはそれをしっかりと掴んだ。リカがぐっと蔓を引っ張りあげ、崖の
あとは自分の腕の力で、身体を引っ張り上げよう。そう思ったとき、薬師の男が近づいてきた。
「消えて下さい」
小さくそう言うと薬師の男は、崖の縁に手をかけていたヴァンの指を引き剥がす。
ヴァンの身体が後ろに傾いた。視界に入る風景は、空を大きく映し出している。
叫びながら、手を伸ばしたリカの姿が見えた。
オロオロした様子の薬師の
ヴァンは、リカに向かって口を動かす。
『──俺は死なん』
にこりと笑って、そのまま落ちて行ったのだった。
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