第21話 前夜
窓の外で、夜鳥がホウホウと鳴く声が聞こえる。その声を聞きながらヴァンは、明日のことを考えていた。その思考を止める音が部屋の中に響く。もう一度、コンコンと扉が叩かれた。
既にベッドに入っていたヴァンは、控えの者を呼び、扉を開けさせる。
扉の向こう側に立っていた人物は──クチカ。夜着姿のクチカが、俯いたままそこに立っていた。
「どうしたこんな時間に。明日、出発なのだろう? 寝なくていいのか?」
「明日、出発だからです。少しだけお話してもいいですか?」
「……ああ」
ヴァンの返事を聞いてから、クチカは中に入ってきた。控えの者に合図を出し、ふたりきりにしてもらう。
「すまんな。もう俺はベッドに入っていたのだ」
「構いません。オレは、話ができればどこでも……」
クチカはベッドに近づくと、足元のあたりで
しょんぼりと垂れた耳。だらんと下がって、揺れない尻尾。
その姿を見て、つい、ふっと笑ってしまう。
「どうした。随分と元気がないようだが?」
「……元気なんか出ませんよ。明日からヴァン様に会えなくなるんですから」
ヴァンは手を伸ばして、クチカの尻尾を撫でた。
尻尾は責めるように、自分の手をぺしぺしと叩く。
「今生の別れでもあるまい。なに、少しの間じゃないか」
「オレにとって、その少しはとてつもなく長いんです。……ずっとおそばにいたい」
「俺のために美味くなってくれるんだろう?」
「……その言い方は狡いですよ。それを言われたら、オレは何も言えなくなってしまいます」
ヴァンは、クチカの白い髪を撫でる。
いつもなら、嬉しそうに頬を染め、うっとりとした表情を見せるのに、今日は眉を寄せ、苦しそうな顔をしていた。
「お前は奴隷商店という『籠』を出て、この国で羽の使い方を覚え、飛び方を覚えた。次は魔ノ国という『籠』を出てみるべきだな。外の世界は広い。存分に飛んでみるといい」
「オレが外に出られたのは、貴方様のおかげです。ヴァン様が、オレの手をずっと引っ張ってくれたから……だから……」
「随分と大きくなった。ここへ来たばかりの頃は、俺の胸の高さより、小さかったのにな」
クチカは、髪を撫でていたヴァンの手を掴んだ。
掴んだその手を、大切な宝物のように両手で包むと、クチカは額を擦りつけた。
「……オレは、まだ……小さいままです」
「おかしいな。そんなはずないんだが……」
「まだまだ、ヴァン様のこの手が必要なんですっ!」
「……クチカ。おいで」
ヴァンは両手を広げた。自分より大きくなった少年の身体をぎゅっと抱きしめる。
クチカもヴァンの背中に手を回して、ぎゅっとしがみついた。
「俺の家畜。丸々と太ってこい」
「ヴァン様はひどいですよ。そう言って、ちっとも食べようともしないじゃないですか」
「そうだったか?」
「そうですっ!」
不貞腐れるクチカが可愛くて、笑ってしまう。
笑いが止まらなくなって、身体が小刻みに震えるヴァンを見たクチカが、更に不貞腐れた。
「仕方がない。ならば、これで許してくれ」
小さくちゅっと音を立て、ヴァンはクチカに口づけた。
空色の瞳は、まん丸になって驚いている。
「どうだ? 食べてやったぞ?」
「……今のは不意打ちです。狡いです。もう一度お願いします」
「ふっ、お前がお願いごとをするのは、二度目だな」
「ヴァン……様……」
ヴァンは、クチカともう一度口づけを交わす。
食べたいほどに、愛しいお前と離れたくない気持ちは、自分だって同じだ。
(……年々、『珠』を食べる量も増えてきた)
クチカ。お前が成長すれば、するほど、この身体はその心臓を欲する。
その欲を抑えるために、『珠』の数が増えたのだ。
いつ、その抑えが効かなくなるのか、自分にも予想がつかない。
(その前に、お前は俺から逃げていてくれ)
壁の外を知って、新たな出会いがあれば、きっとクチカの考えも変わるだろう。
人間と獣人のいる学び舎で、『魔ノ国』というものを知れば、二度と戻りたくないと思うだろう。
(そして、俺を忘れてくれ)
お前の喜びは、己の喜びでもある。
この手でお前の喜びを途絶えさせたくは──ない。
あの絵本を読んだときから、ずっと思っていたんだ。
自分だったら、運命の人を殺さず大切にするのに、と。
心臓を食べるのであれば、その人をすぐに殺さず、どうしても本人が死にたいと望んだときに食べてあげるのに、と。
幼い頃からそう考えていた。考えていたんだ。
(食べたいものが目の前にあって、それを我慢することがこんなにも大変だとは思わなかった)
逃げてくれ。我が運命。
どうしても死にたくなったら、人生の終わりのときが近づいたら、そのときに食べてやる。だから、どうか、それまで、逃げていてくれ。
(お前は大きくなった。その頭も、その身体も、ちょっとやそっとじゃ他の者は敵わないくらいに)
よく育ってくれた。よく大きくなってくれた。
ヴァンはもう一度、強くクチカを抱きしめる。癖のある柔らかい白い髪を撫でるのも、しばらくお別れだ。惜しむように、何度もその髪を撫でる。
心とは正反対の表情を浮かべて、ヴァンは口を開く。
「その翼を大きく広げて、飛んでおいで」
***
翌朝──桃色と橙色が混じり合った朝焼けの空が広がっている。
まだ少しだけ冷えるその時間に、背と手に荷物を持ったクチカが、ブラッドと一緒に城の門の前に立っていた。ヴァンもクチカを見送るために、そこにいる。
「忘れ物はないか?」
「……はい。大丈夫です」
「しっかりと励め。俺のために」
「はい……王様」
『ヴァン』と呼べないクチカは、『王様』と言って返事をする。
「では、行ってまいります」
「ああ。気をつけてな。ブラッド、頼んだぞ」
「──ハッ!」
クチカひとりでも、ほとんどのことは対処できるだろう。ならず者に出会ったとしても、彼ならば倒すことなど容易い。
しかし、身体が大きくなったとはいえ、自分の中ではまだ小さな雛鳥のような感覚だ。つい、心配になり、ブラッドにせめて壁の外までついてやって欲しいと頼んだ。
赤茶色の草が、風でさわさわと揺れる。
ふたりが歩いて行く姿を、ヴァンはずっと眺めていた。
(……クチカ)
どんどん小さくなっていく背中をじっと見つめる。
すると、なにかがヒュッと飛んできた。そのなにかが当たって、片方の男がうずくまる。もう片方の男は、腰から剣を引き抜いて、更に飛んできたなにかを叩き落としていた。
(──クチカ!)
ヴァンは駆け出しながら、魔力を目に込めた。魔眼となった瞳で、なにかを飛ばしている者を探す。ギョロッギョロッと、右目と左目が自在に動かした。草原の中に腹ばいになって隠れていた者達を見つける。
(こいつらか!!)
ヴァンは魔力を放出した。紫煙が辺り一面に広がり、草原に隠れていた者達を捕らえる。指を動かし、そいつらを宙に浮かせた。
隠れていたのは三人。ばたばたと暴れる三人の命乞いも、言い訳も、確認することなく、人差し指をくるりと回した。それと同時に、三人の首がねじ切れる。手足がだらりと下がり、命の灯火が消えたことを確認すると、ヴァンはクチカとブラッドがいる場所まで走るのだった。
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